第2話 夜の招待状② ― 浅野川のほとりで
梅の橋を渡り終えると、川沿いの石畳がゆるやかに続く。
右手には浅野川の流れが銀色に光り、左手には夜間ライトアップされたひがし茶屋街の路地が縦横に走っている。昼間は観光客で賑わうその道も、今は人影がなく、提灯の灯りだけが小さな呼吸をしていた。
先ほどの女は、僕の数歩前を歩いていた。足音はしない。着物の裾も揺れない。なのに、確かにそこにいる。
たまが、時おりその背中を見上げるようにして歩いているのが不思議だった。
「……観光課の人間が、こんな時間に歩いてるなんて珍しいわね」
彼女――いや、『あたし』はふと振り返り、目を細める。
「僕は……夜の街を、記録しておきたいんです。昼とは違う表情を」
「あら、記録? 記憶の間違いじゃない?」
軽く投げられた言葉に、僕は息を詰めた。
「……まあ、そんなところです」
その時、たまがぴくりと耳を動かした。
僕には何も聞こえない。けれど、たまは足を止め、闇の奥をじっと見ている。
「……どうした?」
問いかけても、返ってくるのは短い「ニャ」という声だけ。耳の向きは微動だにしない。
「猫はね、人間が聞き取れない音を拾うの」
『あたし』が足を止め、川面を見下ろした。
「この辺り、夜になると別の音が流れるのよ。川のせせらぎに混じって……ほら」
僕は耳を澄ました。やはり何も聞こえない。けれど、たまはその場に腰を落とし、瞳を細くしている。
「あんたはまだ聞こえなくていいわ。……でも、その音を聞くと戻れなくなる」
冗談めかした口調なのに、背筋に冷たいものが走った。
川沿いの風がひときわ強く吹き、僕の髪を揺らす。『あたし』の紅梅文様の着物も、ようやくひらりと裾を返した。
その一瞬、僕は彼女の輪郭が淡く揺らめくのを見た。
「――で、あんた、ちょっと変わった契約を結ばない?」
「契約?」
「条件付き共生。あんたは『あたし』に“夜”を見せる。『あたし』はあんたに……この街の裏側を見せる」
「裏側?」
「昼には見えない、でも確かに息づいてる金沢。怪異、奇譚、怨念、艶……それら全部」
『あたし』は、まるで商談を持ちかけるように涼しく笑った。
たまが「ニャ」と一声。まるで“受けろ”と言っているみたいだった。
次回予告
“条件付き共生”――耳慣れないその言葉に戸惑いながらも、藤次郎は不可解な『あたし』と猫の誘いに惹かれていく。
次回「第3話 夜の招待状③ ― 幻灯の小路」をお楽しみに。