表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/79

第19話 影の残り香 ― 尾張町の朝靄

 梅の橋を渡った先、尾張町の方角は、まだ夜と朝が綱引きをしている最中だった。

 空気は淡く白く、しかし足元の石畳には昨夜の湿り気が残っている。足を踏み出すたびに、靴底が石の粒を探るようなざらつきを返す。


 『あたし』は歩幅を落とし、私の横に並んだ。

 「さっきの影……藤次郎、何か心当たりは?」

 「心当たりがあれば、あんな顔はしてない」

 「じゃあ、顔に出てたのは?」

 「……正直に言えば、寝不足と酒の抜けきらなさだ」

 『あたし』は半分呆れ、半分笑っている。

 「ほんと、怪異より先に健康診断行ったほうがいいんじゃない?」

 「観光課的には、それは裏メニューだ」

 「裏メニューって、最近どこもQRコードで注文する時代よ?」

 「……幽霊までDX化するのはご勘弁願いたい」


 たまが、路地の角で立ち止まり、耳をくるりと回す。

 その視線の先、薄い靄の向こうに――また、あった。

 人影の“残り香”。

 匂いではなく、目に映るだけの色温度の変化。そこだけ空気が一秒遅れて動く。


 『あたし』がすっと袖を払った。ひとだまが、灯りを持つ子どものようにふわりと浮かぶ。

 「追うの?」

 「……ああ。だが、走らない。走るとあっちは消える」

 「わかってる」

 たまは先導するように歩き出し、私たちはその後を追った。


 靄の中を抜けると、かつての商家の町並みが姿を現す。木の格子、瓦屋根、表札の字体さえも時代を閉じ込めている。

 『あたし』がぽつりと呟く。

 「ここ、昔は毎朝、どこかの店先で笛の音がしてたのよ」

 「笛?」

 「笛の稽古。子どもが朝の支度をしながら吹いてたの。……調子っぱずれでね」

 「……その子も、もう百歳は超えてるな」

 『あたし』は笑い、「そうね」とだけ言った。


 ふと、たまが小さく鳴く。

 その声に応えるように、路地の奥で、風鈴がひとつだけ鳴った。

 さっき橋で聞いた音と、まったく同じ高さ。

 私は立ち止まり、耳を澄ます。

 『あたし』が隣で囁く。

 「藤次郎、あれは……呼んでるわね」


 呼ばれている――そう思った瞬間、背筋にうっすらと汗が浮いた。

 普通の汗じゃない。夏の熱気とは別の、冷たい指でなぞられたような感覚。


 「……行くか」

 私がそう言うと、『あたし』はすでに一歩踏み出していた。

 「もちろん。こういうのは、行かないほうが後悔するのよ」

 「観光課的には、危険回避が第一なんだが」

 「だったら観光課じゃなくて、怪異課を作れば?」

 「人員は誰だ」

 「藤次郎と、たま」

 「少なすぎるだろ」

 「最近の人手不足よりはマシ」


 たまは会話など聞こえていないふうで、まっすぐ路地の奥へと進む。

 靄が濃くなり、光がゆらめく。

 路地の突き当たり、小さな祠があった。苔むした石段、割れた瓦屋根。

 そして――祠の前に、あの影が立っていた。


 「……まただ」

 見た目は若い男。けれど、立ち姿が異様だ。腰の位置が高すぎる。

 風が当たっても髪が揺れない。

 『あたし』は私の前に出る。

 「藤次郎、後ろで見てなさい」

 「いや、俺も――」

 言い終える前に、影の赤い瞳がこちらを射抜いた。


 たまが低く唸る。背中の毛が逆立ち、鈴がけたたましく鳴った。

 その音に反応するように、影はほんのわずか後ずさる。

 『あたし』は口角を上げ、ゆっくりと近づく。

 「……覚えてるわ。あんたの足音」

 影の輪郭が揺れた。


 私は一歩踏み出す。

 「言いたいことがあるなら、昼間にしてくれ。夜は予約制なんだ」

 影は返事をせず、ふっと靄の中へ溶けた。

 残されたのは、かすかな鉄の匂いと、鳴り止まぬ風鈴だけだった。


 『あたし』が振り返る。

 「さて……藤次郎、あれ、どう見る?」

 「どう見るも何も……」

 私は息を吐く。

 「前哨戦、ってやつだろ」

 『あたし』は満足げに頷いた。

 たまは祠の前で、まだ警戒を解かない。


次回予告

尾張町での“影”との遭遇は、ほんの始まりにすぎなかった。

影の正体を探るべく、藤次郎と『あたし』は町内会や寺を訪ねることに。

そこに飛び込んでくるのは、九尾の儀をも凌ぐ奇妙な証言と、意外な目撃談――

第20話「口は災いの種 ― 町内会と風鈴の謎」

……風鈴が鳴るたびに、町が何かを忘れていく?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ