第19話 影の残り香 ― 尾張町の朝靄
梅の橋を渡った先、尾張町の方角は、まだ夜と朝が綱引きをしている最中だった。
空気は淡く白く、しかし足元の石畳には昨夜の湿り気が残っている。足を踏み出すたびに、靴底が石の粒を探るようなざらつきを返す。
『あたし』は歩幅を落とし、私の横に並んだ。
「さっきの影……藤次郎、何か心当たりは?」
「心当たりがあれば、あんな顔はしてない」
「じゃあ、顔に出てたのは?」
「……正直に言えば、寝不足と酒の抜けきらなさだ」
『あたし』は半分呆れ、半分笑っている。
「ほんと、怪異より先に健康診断行ったほうがいいんじゃない?」
「観光課的には、それは裏メニューだ」
「裏メニューって、最近どこもQRコードで注文する時代よ?」
「……幽霊までDX化するのはご勘弁願いたい」
たまが、路地の角で立ち止まり、耳をくるりと回す。
その視線の先、薄い靄の向こうに――また、あった。
人影の“残り香”。
匂いではなく、目に映るだけの色温度の変化。そこだけ空気が一秒遅れて動く。
『あたし』がすっと袖を払った。ひとだまが、灯りを持つ子どものようにふわりと浮かぶ。
「追うの?」
「……ああ。だが、走らない。走るとあっちは消える」
「わかってる」
たまは先導するように歩き出し、私たちはその後を追った。
靄の中を抜けると、かつての商家の町並みが姿を現す。木の格子、瓦屋根、表札の字体さえも時代を閉じ込めている。
『あたし』がぽつりと呟く。
「ここ、昔は毎朝、どこかの店先で笛の音がしてたのよ」
「笛?」
「笛の稽古。子どもが朝の支度をしながら吹いてたの。……調子っぱずれでね」
「……その子も、もう百歳は超えてるな」
『あたし』は笑い、「そうね」とだけ言った。
ふと、たまが小さく鳴く。
その声に応えるように、路地の奥で、風鈴がひとつだけ鳴った。
さっき橋で聞いた音と、まったく同じ高さ。
私は立ち止まり、耳を澄ます。
『あたし』が隣で囁く。
「藤次郎、あれは……呼んでるわね」
呼ばれている――そう思った瞬間、背筋にうっすらと汗が浮いた。
普通の汗じゃない。夏の熱気とは別の、冷たい指でなぞられたような感覚。
「……行くか」
私がそう言うと、『あたし』はすでに一歩踏み出していた。
「もちろん。こういうのは、行かないほうが後悔するのよ」
「観光課的には、危険回避が第一なんだが」
「だったら観光課じゃなくて、怪異課を作れば?」
「人員は誰だ」
「藤次郎と、たま」
「少なすぎるだろ」
「最近の人手不足よりはマシ」
たまは会話など聞こえていないふうで、まっすぐ路地の奥へと進む。
靄が濃くなり、光がゆらめく。
路地の突き当たり、小さな祠があった。苔むした石段、割れた瓦屋根。
そして――祠の前に、あの影が立っていた。
「……まただ」
見た目は若い男。けれど、立ち姿が異様だ。腰の位置が高すぎる。
風が当たっても髪が揺れない。
『あたし』は私の前に出る。
「藤次郎、後ろで見てなさい」
「いや、俺も――」
言い終える前に、影の赤い瞳がこちらを射抜いた。
たまが低く唸る。背中の毛が逆立ち、鈴がけたたましく鳴った。
その音に反応するように、影はほんのわずか後ずさる。
『あたし』は口角を上げ、ゆっくりと近づく。
「……覚えてるわ。あんたの足音」
影の輪郭が揺れた。
私は一歩踏み出す。
「言いたいことがあるなら、昼間にしてくれ。夜は予約制なんだ」
影は返事をせず、ふっと靄の中へ溶けた。
残されたのは、かすかな鉄の匂いと、鳴り止まぬ風鈴だけだった。
『あたし』が振り返る。
「さて……藤次郎、あれ、どう見る?」
「どう見るも何も……」
私は息を吐く。
「前哨戦、ってやつだろ」
『あたし』は満足げに頷いた。
たまは祠の前で、まだ警戒を解かない。
次回予告
尾張町での“影”との遭遇は、ほんの始まりにすぎなかった。
影の正体を探るべく、藤次郎と『あたし』は町内会や寺を訪ねることに。
そこに飛び込んでくるのは、九尾の儀をも凌ぐ奇妙な証言と、意外な目撃談――
第20話「口は災いの種 ― 町内会と風鈴の謎」
……風鈴が鳴るたびに、町が何かを忘れていく?




