第15話 灯守り初日 ― 風鈴と足音
夜の浅野川べりは、昼間の観光客のざわめきが嘘のように静まり返っていた。
梅の橋のたもとに立つ藤次郎は、チャコール色のトートバッグから水筒を取り出し、一口含んだ。
冷たい水が喉を通ると、ようやく昼間の熱気が引いていく。
『あたし』は祠の前にしゃがみこみ、青い灯りをじっと見つめている。
「本当に、これを三日間絶やさず守るの?」
「契りだろ。やると決めたからには、最後までやる」
藤次郎の声は穏やかだが、目は真剣だった。
たまは祠の周囲をゆっくりと歩き、時折、青い光に鼻先を近づけては「ニャ」と短く鳴く。
『あたし』が微笑む。
「たまも灯守り気分らしいわね」
川のせせらぎの音に混じって、遠くから風鈴の音が微かに響いた。
「……あれ? こんな時間に風鈴なんて聞こえたか」
藤次郎が顔を上げる。風はない。それでも涼しげな音が一定の間隔で鳴り続けていた。
『あたし』は立ち上がり、音の方向を探る。
「普通の風鈴じゃないわ。音が……生き物みたいに動いてる」
たまの毛がふわりと逆立つ。低く喉を鳴らし、川沿いの暗がりをじっと睨んだ。
次の瞬間──。
石畳の向こうから、ぽつ、ぽつ……と、靴底が濡れたような音が二つ、三つ響いた。
その間隔は妙に均等で、まるで何かが拍子を刻むようだ。
薄闇の向こう、道は真っすぐなのに、人影は見えない。
ただ、その“音”だけが、確かにこちらへ近づいてくる。
藤次郎の背中に、汗が一筋流れた。
「……聞こえるか」
『あたし』は顎を小さく引く。
「ええ。でも、人間の歩き方じゃないわ。足の形が……揃いすぎてる」
川風も止み、遠くのせせらぎすら薄くなっていく。
代わりに、風鈴の音がひときわ澄んで響いた──と思ったら、その音さえ足音にかき消されていった。
藤次郎はゆっくりとバッグを開け、小さな提灯を取り出す。
燧石で火を起こすと、紙越しの橙色の光がふっと広がり、彼の顔と『あたし』の頬を淡く照らした。
炎は小さく震え、風もないのに揺らめいている。
「……お客さんか、それとも」
声はできるだけ平静を装ったが、低く、わずかに掠れていた。
『あたし』はその灯りをじっと見て、唇の端をゆっくり上げる。
「たぶん、おもてなしする相手じゃないわね。──試練の第一歩、ってとこかも」
藤次郎は小さく息を吐いた。
「もう少し穏やかな始まり方はなかったのか」
『あたし』が肩をすくめる。
「穏やかだったら、退屈すぎてたまで眠っちゃうわ」
足音はすぐそこまで来て、祠の前でふっと止まった。
同時に、風鈴の音がぱたりと消える。
世界が息を潜めたかのように、川の音も虫の声もない。
沈黙の中、藤次郎の手元の灯りだけが、不規則に揺れていた。
その揺れは、まるで何かが近くで息をしているように、一定のリズムを刻んでいた。
『あたし』は静かに言った。
「藤次郎、あんた、後ろを見ないで」
「なんで」
「今、背中越しに覗いてる奴がいる。でも、視線を返したら──」
言葉を切り、少しだけ間を置く。
「逃げられる」
藤次郎は息を詰め、視線を前に固定したまま、指先で提灯をわずかに持ち上げた。
青い光と橙色の灯りが重なり、祠の影が地面に伸びる。
その影の端に、わずかに人の形が混ざった。
たまが低く唸り、一歩前へ出る。
足音は、そこで完全に消えた。
『あたし』が肩越しに囁く。
「──ひとまず、引いたわ。今夜はこれで済むかもしれない」
藤次郎はゆっくりと息を吐く。
「……初日から、これか」
『あたし』は楽しそうに笑った。
「退屈しない三日間になりそうでしょ?」
次回予告
二日目の夜、祠の灯りに忍び寄るのは、音も影も持たぬ訪問者。
灯守りの契りは、静かに形を変え始める。
第16話 灯守り二日目 ― 無音の影
お楽しみに。




