第1話 夜の招待状① ― 深夜の石畳と風鈴
金沢の夜は、昼間よりも色が濃い。
街灯が淡く滲み、川面が揺れる光を飲み込んでいく。昼の観光地が一転、深夜には別の生き物みたいな表情を見せるのだ。
僕――初芝藤次郎は、今夜もその“生き物”の体内を散歩している。ほろ酔いで、というのがポイントだ。
ほろ酔いさんぽは、僕にとって日課であり、何よりの贅沢。酔っているときほど街は優しいし、優しい街は人を油断させる。
浅野川にかかる梅の橋。木製の欄干は手にしっとりと馴染み、川面には逆さの街灯がゆらめく。足元の石畳の継ぎ目に、江戸の銅貨でも落ちていそうな、そんな錯覚を覚えた。
表面に触れるたび、石の奥に眠る時間が、ほんの少しだけ揺らいでいるような感覚がある。
三十代まではフルマラソンが趣味でスリムだった体も、この十五年で見る影もない。今では立派なメタボ体型、小太りのおじさんだ。
ポケットから鍵代わりのスマホを取り出し、時間を確認する。午前0時を回ったばかり。川面を渡る涼しげな風が、顔に心地よく触れる。
その時だ。
ふわり――川風に混ざって、妙に記憶に残る香りが鼻先をくすぐった。梅酒のような甘さと、炭火にくゆる線香の香りが溶け合っている。吸い込む前にもう、鼻の奥に張り付いて離れない。
僕は思わず足を止めた。
「……珍しいわね、この時間に人間が」
声がした。
振り向くと、橋の欄干にもたれかかる女がいた。白地に紅梅文様の着物。月光に溶けるような肌、切れ長の瞳、淡い琥珀色の光彩。
いや――どこか、艶やかで涼やかなのに、現実感が欠けている。意識を逸らそうとしても、視線が吸い寄せられて離れない。
「観光課の……藤次郎さん、でしょ?」
「え、あ……はい、そうですけど」
初対面なのに、名を呼ばれた。しかも妙に確信的に。
僕は少し後ずさった。酔いが醒める音が頭の奥でした。
足元で、白猫のたまが「ニャ」と短く鳴いた。
たまは机の上より人の気配に敏感だが、今は僕と同じように、その女から目を離せずにいる。
「驚かせたなら謝るわ。……でも、あなた、夜の街に呼ばれてるわね」
「呼ばれてる……?」
「そう。見える人間は、こうやって呼ばれるの」
彼女の口元が、涼しくも艶やかに笑った。ひとだまがひとつ、ふたつ、橋の欄干に灯る。
僕は気づいた。これは、今までの夜さんぽとは違う。夜が僕を眺め返している。
次回予告
藤次郎は、不思議な女の正体を探りつつ、夜の金沢に隠された“裏メニュー”に足を踏み入れていく。
次回「第2話 夜の招待状② ― 浅野川のほとりで」をお楽しみに。