第31話 3人目の獲物⑧
珠凛の顔をみて、俺は絶望した。
リベンジと言いながらも、本心では……。珠凛に幸せになってほしいと思っていた。
そして、自分がそうできればと思っていたのに。しかし、目の前の珠凛は、今にも消えてしまいそうな悲しい顔をしている。
俺は面倒くさがって、珠凛の闇に向き合ってこなかった。だから、今の珠凛の絶望がどれほど深いのかを理解できない。向き合わなかったツケが今の状況なのだ。
……全部、俺のせいだ。
頭がぐらりと重くなって。
身体中に汗が吹き出す感覚。
気づけば、俺は左側の男の頭を右回し蹴りで吹き飛ばしていた。
樹兄に命じられるままに何千回と繰り返した動作。それは確実に俺の一部となって、思考よりも先に身体を動かした。
男の頭はそのままコンクリートの壁に打ち付けられると、頭蓋から鈍い音を発し、白目を剥いて地面に落ちた。
(死んだかな)
だが、そんなことはどうでも良かった。
俺はそのまま右の男に駆け寄った。
男は右手に何かを持って前に出してきたが、俺は前進を止めずに、ただ払った。
躱すことよりも、その反動を利用して相手を倒すこと。1秒でも早く珠凛の近くに行くことが優先されると思った。
男の上腕に身体を入れ込むと、左肘を相手の溝落ちに当て、グッと捻りこむ。
「カハッ……」
相手の呼吸が止まった。
俺は、そのまま相手を壁に押し付けた。そして、右手で男の前髪を掴み、コンクリートの壁に3回打ち付けた。
男は何か言おうとしたが、4回目を打ち付ける前に、静かになった。
左の脇腹が熱い。
だが、アドレナリンが出ているらしく、痛みは感じない。
俺はテーブルに足をかけると、真ん中の男を目指して飛んだ。
珠凛は身体が硬直したように動かなかった。
男は何かを言おうとしたが、聞く必要はない。
男は逃げようとしたが、膝下まで下げたズボンがまとわりついてバランスを崩した。
「シッ」
男は不安定ながらも右手で殴りかかってきた。
背中にゾワッとする感覚。
(コイツも格闘技経験者か?)
俺の生存本能が、一気に倒せと警告している。
俺の右耳を風切り音が掠めた。
俺は身体を時計方向に半分回し、左腕で男の右腕をいなす。
男は、たたらを踏んだ。
俺は丸出しの男の睾丸を右手で掴んだ。そして、そのまま70キロ以上の握力で全力で握り込む。
生まれて初めて握る、他人の男性器。
最悪な気分だ。
そのまま右手でググッ握り込むと、人差し指と親指が重なり合う直前、ぷちッとプチトマトが弾けるような感触がした。
男は金切り声をあげてうずくまった。
震えている。激痛で身動きができないようだ。
俺は靴のソールを男の顔に向けると、飛び蹴りのように体重をかけて踏み込んだ。
踵が男の口にめり込み、前歯をへし折った。踵を引くと、抜けた歯が何本か地面に落ちて転がった。
男はモゴモゴとくぐもった声を発したが、俺は男の言い分には興味はなかった。だから、引いた右足で地面を弾き、もう一度、蹴り飛ばした。
男はテーブルの脚に顳顬をぶつけて、動かなくなった。
俺が珠凛に手を伸ばすと、珠凛はビクッと身体をこわばらせた。
「蒼空クン。さっき、ウチのこと見えたでしょ? ウチの手……不潔だから……触っちゃダメ」
「ん。俺の右手もアイツの袋を鷲掴みにしたのだが……、だから問題ないのでは?」
「そういうことじゃないし……。ウチもっと酷いことしてたんだよ。それこそ、蒼空クンに軽蔑されちゃうようなこと……」
さっきイヤフォンで聞いたことか。
いま、ここで深掘りしても意味のない事だ。
しかし、珠凛は続けた。
「あのね。ウチ、逆らえなくて。あの……その……ママの彼のをしてたの」
だから、あんなに。
家に帰るのをイヤがったのか。
「ウチ。消えてなくなりたい。好きな人にこんなの見られて、死んじゃった方がマシだよ。蒼空クン、ごめんね……ごめんね」
珠凛は涙をポロポロと流していた。
きっと何度も、自分から俺に言おうとしたのだろう。でも、その度にできなくて。こんなこと、他人に相談できるハズがない。そして、自宅に帰る度に、珠凛の罪悪感は大きくなった。
俺は、こんなになりふり構わず謝っている人間を見たのは初めてだった。その姿を俺は、不謹慎かもしれないが……愛おしいと思った。
オッサンのを咥えたことなんて、どうでもいい。それよりも、こんな状態の珠凛に気づけなかった俺が罪深い。
「ごめん。珠凛。もう自分の家に帰らなくていいから。ずっと家にいていいから。そのオヤジとは……俺が話をつけてやる」
それは、俺がすべき事だと思った。
そのための算段はついていた。
俺は主犯格の男のスマホを拾うと、目ぼしいデータを自分のスマホにうつした。
部屋の端にいた女の子は、やはり小春だった。目隠しと口のガムテープをとってやると、小春は「ぷはぁ」と息を吐いた。
時計を見ると、試験開始してすでに120分が過ぎていた。あと30分で戻らないと失格になってしまう。
聞きたいことは色々あるが、警察に電話して、相互監視アプリの音声データを咲姉と小春に送りつけた。
「小春。悪いけど、後のこと頼むわ。コイツらの会話データもお前に送るから。少ししたら姉貴も来るから、警察に事情を説明しといてくれ」
「わかった。けど、あとでちゃんと説明して。それと……助けてくれて、ありがとう」
小春は深々とお辞儀をした。
膝の上に添えた指先は震えていた。
手を振ろうと左腕を上げると、小春は俺の上げた腕を凝視した。そして、口に手を当てて言った。
「蒼空クン。……手首から血が出てる」




