07 失敗
「感染症って、どうやったら調べられるんだろう……?」
紙の上に並んだ文字を見つめながら、わたしは小さく息をついた。
小説の中で、感染症が大きく広がった時期はわたしが十八歳になる少し前だった。
この国には魔法があるとはいえ、すべての病を治癒魔法で解決できるわけではない。
重症化すれば回復が間に合わないこともあるし、そもそも治癒魔法は貴重で誰でも使えるわけではない。国民に広がれば、致命的な病となる。
(やっぱり、知ってるのにこのままなのはよくないよね)
今回のわたしの発熱だって、ルーク兄様の力で熱と痛みは抑えられたけれど、そもそも落ちきっていた体力や栄養状態は改善できない。
「リリーベルの身体、随分と弱ってたもんなあ」
自分なりに薬草を煎じて飲んでいたりしたみたいだけれど、食事の不足はそれでは解消できるはずもない。
(それがわかっていたから、ルーク兄様はわたしに休養を厳命したんだろうな)
わたしの状態は、治癒魔法を施したお兄様には筒抜けだったに違いない。
それに、一度治癒したからには、わたしが体調を崩すとお兄様の能力を否定してしまうことにつながりかねないもの。
(だからきっと、ルーク兄様はわたしの面倒を見てくれたのだわ)
完ぺきな王子様が、知ってしまった妹王女の窮状を解消しないなんてあり得ない。
だから今回は助けてくれたんだ。わたしはそう結論づける。
これまで誰にも手を差しのべられることはなかったことが、心の中にしこりみたいに残っている。
もっと早く助け出してほしかった。
リリーベルが本当に死にそうになって初めて、こうした環境が与えられていることに、やっぱりまだ戸惑ってしまう。
それに……リリーベルが冷遇されていた理由が未だに分からないまま。その事を考えようとすると、頭が強く痛む。思い出すことを拒まれているみたい。
ううん、今は先のことを考えよう。
「未知の感染症を防ぐために、まずわたしができることを」
今のわたしに足りないもの。いや、足りないものしかないけれど。
わたしは立ち上がると、ロザリナたちの方を振り返った。
ここでのんびり過ごしていても、何も変わらない。
「ロザリナ。わたし、ルーク兄様のところへ行きたいんだけど……案内してもらえるかな?」
わたしの申し出にロザリナはハッとした顔をする。
どうするか逡巡していたようだけれど、最後は「わかりました」と頷いてくれた。
城の東棟、政務官たちの往来が絶えない階を歩くのは、少し緊張する。
わたしの足音は絨毯に吸い込まれていくほど小さく、それでも騎士たちの鋭い視線が肩に刺さる。
こんなところに来るのは、きっと生まれて初めてだ。
ルーク兄様の執務室の扉が見えてきたところで、入り口を守る騎士に一歩進み出た瞬間――
「ここは第一王子の執務室です。関係のない方が近づくのはお控えいただきたい」
ピシリと張った声に、思わず足が止まる。
その反応に、少しだけ胸が痛んだ。やっぱり、わたしの存在感なんてそんなものだったのだ。
でも、これまでのわたしの立場を思えば当然なのかもしれない。
影が薄く、いてもいなくても変わらない存在。そんな王女が急に来ても、対応してもらえないだろう。
(でも、もうそんなことを言っている場合ではないわ)
ナレ死を回避するために、今日は引き下がるわけにはいかない。
「わたしは第一王女のリリーベルです。ルーク兄様に用があって参りました」
できる限り、はっきりと、丁寧に。
騎士の目が少しだけ見開かれるのが見えた。それから少しの沈黙。
やがてもう一人の騎士が「確認いたします」と告げ、執務室の扉をノックして中に消えていった。
胸がどきどきと脈打って仕方ない。
お兄様が取り合ってくださらなかったら、どうしよう。
「リリーベル殿下、大変失礼いたしました。どうぞお入りください。殿下がご面会されるとのことです」
先ほどとは違う柔らかい声が響き、扉がゆっくりと開かれる。
「ありがとうございます」
わたしは一礼してから扉をくぐった。
執務室の中はしんと静かで、窓から差し込む光が重厚な机に影を落としている。
部屋の奥には、ルーク兄様の姿があった。
金糸のように輝く髪を持ち、理知的な青の瞳で書類に目を落とす姿は、まさしく完璧、という言葉を体現したような人だった。
白を基調とした正装に身を包んでいるその背筋は、すっと伸びていて……どこか遠く感じる。
(すっごく働いてる……! まだ十七歳なのにすごい)
どうしても現代的な感覚でそう思ってしまう。
だってまだ、学生の頃なのに。
「……リリーベル。どうしたんだい、君がここに来るなんて初めてだね?」
柔らかな声音に振り向いたルーク兄様は、けれどほんのわずかに目を細めた。その微かな戸惑いが、わたしの胸をきゅっと締めつける。
わたしは深く息を吸ってから、兄に向かって頭を下げた。
「お仕事中に申し訳ありません。相談できる方がお兄様しかいなくて」
困ったことに、他に知り合いが全くいない。
そう言うと、お兄様の眉がピクリと動いた気がした。
「……言ってごらん」
「ええと、お兄様。今後、医学と薬学についてわたしに学ばせていただけないでしょうか!」
言ってしまった。緊張で、心臓の鼓動が速まる。
執務机に座っていたルーク兄様は、手にしていた羽ペンを静かに置いた。わたしに向けられた青の瞳が、わずかに揺れる。
「……医学と薬学だって?」
繰り返す声に、わたしはこくりと頷く。
「はい。必要な知識だと思うのです。将来のためにも、少しでも人の役に立てるようにと」
少しの間、ルーク兄様は黙ったままだった。やがて、椅子に深く背を預けると、静かに目を細める。
返事をもらえるまでの時間が、すごく長く感じる。
「その志は悪くない。だが、いきなり医学というのは少々重すぎはしないか?」
「……え?」
「たとえば、まずは歴史や教養から学ぶという手もある。君はこれまで、そういった勉学に親しむ機会が少なかったはずだ。いきなり専門的な学問に飛び込むのは、かえって遠回りになるかもしれないよ」
穏やかな声だった。正論だ。
それでも、あと三年しか猶予がない。蔓延する前に対策を打つことを考えると、もっと時間がない。
「そ、その勉強もします! でもわたし、どうしても医学を学びたいのです。自分にできることが限られているのも承知しています。それでも……!」
唇が震えそうになるのを必死に抑えた。
「何かあったのか?」
そう尋ねられて言葉が詰まる。あるけれど、前世の話をするわけにもいかない。
到底信じてもらえるような話じゃない上に、わたしがこれからやろうとしていることにはひとつも確証がないのだ。ただ、なにもしなければ死んでしまう未来があるだけ。
「……いいえ。ですが、今学んでおかなければ、後悔するような気がして」
「ふうん……」
ルーク兄様は何かを探るような視線を向けてきた。しばらくの間、部屋には静寂が満ちる。
そして。
「考えておこう。だがやはり、今のお前に必要なこととは思えない。王女として成すべきことも他にあるだろう。そちらを先に手配しておく」
その言葉に、わたしは思わず息をのむ。
「それに、まずは体調を整えることに専念しなさい」
「ですが……!」
「お前は王族だ。学びたいことがあっても、必要なものでなければ意味がない。王宮には専門の医師も薬師もいるんだからね」
ルーク兄様の言葉は、淡々としていた。
まるでわたしの考えなど、端から問題にならないかのように。
(やっぱり……)
薄々わかっていたことだった。
それでも、もしかしたらなにか手を差し伸べてくれるのではないかと勝手に期待してしまったのはわたしの問題だ。ルーク兄様の意見が正しいのは分かっている。他のことで手を打ってくれるだけでも、不遇な王女にはありがたいことだ。
わたしは唇を噛み締めながら、頭を下げた。
「……わかりました。お邪魔して申し訳ありませんでした」
これ以上粘っても無駄だろう。
ここ数日、ルーク兄様が優しい気がしたからって驕っていたことが恥ずかしい。わたしは静かにその場を後にした。
外で控えていたロザリナと合流し、部屋に戻ることにする。
(お兄様がだめなら、別の方法を考えないと)
もちろん、諦めるつもりはない。
ルーク兄様の協力が得られないのなら、わたし自身の力で、できることを探すしかないよね。
(それでも……ちょっとひとりになりたいな)
お兄様と話し終わった瞬間、張り詰めていた気持ちがぷつんと音を立てて緩んだ気がした。
わたしのあとを心配そうについてきてくれていたロザリナに向き直り、努めてやわらかく微笑む。
「ごめんなさい、ロザリナ。わたし、少しだけひとりになりたいの。先に部屋に戻っていてくれる?」
「ですが、おひとりでは」
「ごめんなさい。ひとりにしてくれる? 離宮に行きたいの。いつもひとりだったから大丈夫。ちゃんと戻ってくるから」
「……わかりました。お早いお戻りをお待ちしております」
ロザリナは心配そうな瞳を向けながらも、それ以上は何も言わずに頭を下げた。