36 リリーベルとして
「リリーベル様、こちらの区画には何を植えましょうか」
「日照が安定していますから、解熱用の薬草がいいですね。根が張るので、間隔は少し広めにしてください」
「わかりました!」
紺色の制服を着た人が、張り切って薬草園に駆けていく。
王宮の薬草園は、以前とは見違えるほど活気に満ちていた。
感染症をきっかけに整備が進められたらしく、これまで細々と活動していた薬師たちが集められた。身分に関係なく、知識と技量を持つ者が選ばれ、今は皆が同じ場所で土に触れている。
ここでわたしも、管理者のひとりとして薬草の生育を見守る役をルーク兄様から仰せつかった。王宮薬師としての肩書きまでもらうことになって、その毎日は思っていた以上に慌ただしい。
セレーネ草も、東部のように湿度の多い環境で育てられるように温室を調整中だ。
「よし、水はこのくらいでいいかなあ」
水やりを終えたところで、ふと自分の手に視線が落ちる。
左手首の内側には、淡い桃色の痕が残っていた。
完全に治ってはいるけれど、肌の色が少しだけ違う。あの日、森で縄を切ったときについた傷跡だ。
あのときは必死で、痛みを感じる余裕すらなかったのだけれど。けれど城に戻って、初めてそこに血が滲んでいることに気づいたのだ。キース様の上着もうっかり汚してしまった。
『リリー……これは、どうした』
青ざめたルーク兄様がすぐに治療を施してくれたから血はすぐに止まったけれど、傷跡が少し残ってしまった。今でもそのことをルーク兄様は気にしてしまっている。
手首の痕をそっとなぞりながら、あの日のことを思い返す。
(本当に、すごい一日だった)
あの日起きたことは、すべてが一瞬で過ぎ去ったようで、実は多くの思惑が絡み合っていたのだと、あとから説明を受けた。
隣国の王女アーデルハイドは、以前から不審な動きを見せていたそうだ。
もちろん彼女だけでなく、隣国王ヴォルフラムや前ヴィンターハルター侯爵──キース様のお父様も関わっていたという。
東部の感染症も実は隣国から持ち込まれた可能性が高く、国力が弱まったグランチェスター王国を内外から揺さぶる目的で手を組んでいたのだとか。
アーデルハイド王女がわたしを攫ったのは、衝動ではあったけれど、全くの無計画という訳ではなかった。
医療と薬学の知識を持つキース様ごと侯爵家を手に入れること。そして侯爵自体もそのときには国内で自国に引き入れること。
そして、万が一の保険として、わたしを交渉材料に使うこと。
それとは別に、アーデルハイドがこぼしていたように、彼女の父であるヴォルフラムがわたしを連れ帰るように命じていたことも事実としてあるらしい。
『リリーへの婚約の打診は、全部こっちでやんわりと潰してたからね』
そう言って、ルーク兄様はさらりと笑った。
複数の縁談話は、わたしの知らないところで、すべて処理されていたのだという。ローラント兄様とマルグリット様も頷いていた。
わたしを連れ帰るよう命じていたことを隣国王が認めることはなかったが、王女による誘拐未遂という形で明確な狼藉が表に出た以上、隣国としても何の責任も負わないわけにはいかなかった。
両国の国力は拮抗しており、全面的な対立は避ける必要があったため、王そのものが処罰されることはなかったものの、外交の場では隣国側が正式に非を認める形となった。その結果、隣国は多額の賠償金に加え、医療物資の提供と国境地帯での監視強化を約束することになったという。
また、アーデルハイド王女についても、王族としての監督責任を問われ、事実上の幽閉に近い処分が下されたと聞いている。
そして、ヴィンターハルター侯爵家の代替わりも、偶然ではなかった。
前侯爵の不正は、キース様が集めた証拠によって明るみに出され、王家の調査を経て処断が下されたのだという。
前侯爵は当主としての権限をすべて剥奪され、強制的に隠居の身となり、表舞台から退いた。そして、キース様が正式にヴィンターハルター侯爵家の当主となったのが生誕祭の発表の裏側だった。
(うう、いろんなことがありすぎて、もう大混乱だよ……!)
わたしがナレ死をなんとかしようとしてもがいている裏で、色んなことが起きていた。
でも、だから、今があるんだ。
薬草園に吹く風が、葉を揺らす。
青々とした緑の中で、芽吹いたばかりの薬草たちが、確かに根を張っている。
「にゃあ」
足元から、少し低くなった鳴き声が聞こえる。視線を落とすと、ふさふさとした尾を揺らしながら、ララがこちらを見上げていた。いつの間にか、しなやかなボディが成猫になっている。
「ララ。来てくれたの?」
しゃがみ込むと、当然のようにすり寄ってくる。喉を鳴らしながら足元にまとわりつく様子は、すっかりこの庭園を自分の居場所だと思っているみたいだった。抱き上げると、温かな体温と重みが腕に伝わってくる。
「大きくなったねえ」
「なーう」
ララは満足そうに目を細め、わたしの腕の中で丸くなった。そのまましばらく背中を撫でていると、背後から控えめな足音が近づいてくる。
「相変わらず、ララに懐かれていますね」
聞き慣れた声に振り返ると、薬草園の入口にキース様が立っていた。いつもの落ち着いた装いで、けれど視線はまっすぐこちらに向けられている。
わたしに気づいた瞬間、ほんのわずかに表情が和らいだのがわかった。
明日、最終話です!




