33 見知らぬ場所②
言葉にした途端、胸の奥がざわつく。ロザリナやアデリナ、夜番についていた騎士たちの顔が次々と浮かび、喉が締めつけられた。
アーデルハイド殿下は、わたしの反応を面白がるように眺めてから、肩をすくめる。
「さあ? 命までは取っていないわ。多分ね」
「っ!」
わたしはすっかり眠っていて、今の今まで目が覚めなかった。
縛られたり、馬車に乗せられたりしているのに、だ。きっと何か特殊な方法を使ったことに違いはない。それに彼女たちが確実に巻き込まれていると感じ、背筋が寒くなる。
「なあに、怖い顔をして。侍女たちのことなんでどうでもいいでしょう。王族のくせにおかしな人ね。いえ、ずっとおかしな振る舞いだったかしらね」
アーデルハイドはくすくすと可憐な笑みを浮かべている。けれど、きっとあれを醜悪というのだろう。ドス黒いものが滲み出ている。
その笑みを見て、胸の奥が冷えた。
きっと、この人とは分かり合えない。理屈の問題ではなく、立っている場所が違いすぎるのだと、はっきり分かってしまった。
「……どうでもよくなんて、ありません。侍女たちひとりひとりも、大切な存在です」
震えそうになる声を、必死で抑える。
アーデルハイドは、少しだけ目を見開いたあと、すぐに楽しげに笑った。
「まあ。本当に綺麗事ばかりね。お父様もこんなののどこがいいのだか」
吐き捨てるように言って、脚を組み替える。
(お父様……隣国王のことね)
夢に出た名前に、ぴくりと反応してしまった。
それが表情に出てしまっていたのか、アーデルハイドはわずかに顎を上げ、口元を歪めた。獲物の反応を確かめたような、満足げな笑みだった。
「……その反応」
低く、愉しむように言葉を転がす。
「やっぱり、あなたも知っていたのねえ?」
わたしは唇を噛み、視線を外さないように踏みとどまった。夢の中で聞いた名前が、現実の彼女の口から出ただけだ。ただそれだけなのに、胸の奥がざわついてしまったのは否定できない。
「本当はあなたがお父様に嫁ぐはずだったのだものねえ。グーテンベルグ王家からの貢物として!」
アーデルハイドは楽しそうに息を吐き、肩をすくめる。
そう。そうだった。泉の夢が見せたリリーベルは、誕生日にそのことを伝えられた。
家族の誰かが離宮に訪ねてくるわけでもなく、ただ届けられた書簡によって。
読み進めるうちに、彼女の指先が小さく震え始める。内容は簡潔で、感情の入り込む余地はなかった。
隣国との関係強化のため、王女リリーベルを正妃として差し出すこと。婚姻はすでに内々に決定しており、式の準備も進められていること。
そこには、彼女の意思を問う言葉は一つもなかった。
キース様との将来を、淡く、けれど確かに思い描いていた王女は、その書簡を読み終えたあとしばらく動けずにいた。
泣き叫ぶことも、取り乱すこともできなかった。
ただ、椅子に腰掛けたまま、視線を虚空に向けていた。
(……だからあの夜会に、隣国の王とアーデルハイド王女殿下が来ていたんだわ)
わたしは、少し前の夜会での隣国王のまとわりつくような視線を思い出すと、また背筋がぞくりとした。彼は、品定めにきていたんだ。リリーベルという王女を。
全ては政略結婚への布石だった。わたしが隣国に嫁ぎ、アーデルハイド殿下はヴィンターハルター家に降嫁する。それが原作の定められた流れだったに違いない。
小説世界のリリーベルを取り巻く環境は最悪だった 国は感染症に苦しみ、城内も荒れていた。
人々の間には不安と苛立ちが蔓延し、王女に向けられる視線も冷たかった。彼女が隣国に嫁げば、治療薬や物資が優先的に回される。そう噂され、いつの間にか、それが当然のように語られていた。
今まで無関心だった者たちが、一転して手のひらを返したようにリリーベルに優しくなる。献上品として磨かれ、飾り立てられていく自分を、リリーベルは感情のない瞳で見つめていた。
――そしてその夜、彼女は泉へ向かった。
水面に映る自分の顔は青白く、目の奥に光はなかった。助けを求める相手も、逃げる場所もないと悟っていた。
夢の中で、彼女が水へと身を投げた瞬間、わたしは強い悲しみに襲われた。叫び声を上げたかったのに、夢だから声は出なかった。ただ、冷たい水音だけが、耳に残った。
(あの泉は、リリーベルが命を落とした場所だったんだ……)
夢の中のわたしは、最後まで誰にも選ばれなかった。
王女でありながら虐げられ、報われず、最後は駒となる運命。泉に身を投げたのは、彼女なりの精一杯の抗議だったに違いない。
誰にも耳を傾けてもらえず、意思を示す手段すら与えられなかった王女が、最後に選べた唯一の行動。生きることを命じられ、同時に奪われ続けた彼女が、自分の存在を自分の手で終わらせることでしか、拒絶を示せなかったのだ。
そう考えた瞬間、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
「それなのに、あの無能が全部台無しにしたわ」
アーデルハイドが吐き捨てるようにはっきりと言い、わたしは意識をまた目の前の人に戻した。
あれは夢で、こっちがわたしの現実だ。アーデルハイドによって誘拐されて、馬車に乗ってどこかへ向かっている。
「ほんっとに使えないわ。勝手に失脚なんてしてくれて。感染症だって広がらないし、派閥争いもないし付け入る隙なんてどこにもないじゃない!」
その言い方には、怒りよりも苛立ちと軽蔑が混じっていた。計画通りに動かない駒に向ける、冷え切った感情だ。
(隣国の王女が東部の感染症のことを知っている。いくら国境に接しているとはいえ、使用人に無関心なこのお方が……?)
考えれば、違和感だらけだ。
彼女がいう失脚した人物とは、前ヴィンターハルター侯爵のことに違いないのだけれど、派閥争いや内情をここまで知っているものなのだろうか。
「アレもあなたの功績だっていうじゃない。もっと被害が出て、国が混乱して、助けを求めてくるって聞いていたのに。信じられないわ。全部、思惑外れだわ。本当につまらない夜会だった」
「な……!」
確かに感染症は最悪の事態を免れた。
けれど、東部の人々は苦しんでいた。熱にうなされ、家族を看取り、不安の中で必死に耐えていた。
対策にあたった医師や薬師、アデリナや領地の民たちも、皆が余裕などなく、それでも踏みとどまっていた。
この人たちは、混乱と死を前提に盤面を描いていたというの?
誰がどれだけ傷つくかではなく、どう利用できるかだけを考えて。
「……ふざけないでください」
声が震えたのは恐怖ではなく、怒りのせいだった。
「民のことをなんだと思っているのですか! 被害が出なかったから、つまらないだなんてそんな言い方はないです!」
言葉の途中で、視界が大きく揺れた。
「――黙りなさい」
「っ!」
冷たい声と同時に、強い衝撃が肩口を襲う。
アーデルハイドが靴底でわたしの肩を踏みつけていた。体勢を崩し、床に押し倒される。
「随分と対等な口をきくのね。今の立場をわかっているの?」
上から見下ろす瞳には、苛立ちと薄い愉悦が混じっていた。
息が詰まる。
逃げようとしても、縛られた腕ではどうにもならない。魔法でなんとかなる? いえ、ここがどこで馬車の周囲がどうなっているのかが分からない。それでも、このままでいるのも危険だ。
どうしたらいいか懸命に考えていると、胸元がちり、と小さく痛んだ。
(……?)
刹那の違和感。
けれど、確かに感じた。夜着の下、キース様にもらったペンダントが触れているあたりから、微かな熱が走った気がした。
この感覚は知っている。魔力だ。
(それに、この魔力は)
わたしは知っている。何度も近くで見たもの。
アーデルハイドは、わたしの小さな反応など気にも留めず、足にかける力を強める。ぐっと靴が皮膚に食い込み、ぎりぎりと踏みしめられる。




