32 見知らぬ場所
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なんてひどい夢だろう。涙がボロボロと頬を伝う。
その感覚で、わたしはハッと目を覚ました。
「……っ」
喉が詰まり、息がうまく吸えなかった。胸が苦しくて、呼吸が浅くなる。夢の中で見た光景が、まだはっきりと脳裏に残っている。
わたしは、知ってしまった。
あの泉の前に立っていた、もう一人のリリーベル。彼女の死の理由を。
胸が締めつけられ、涙が止まらなくなる。ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を拭う余裕もなく、わたしはただ瞬きを繰り返した。
涙でにじんでいた視界が、ゆっくりと落ち着いていく。最初は揺れに合わせて輪郭が溶けるように曖昧だったのに、何度か瞬きをするうちに、少しずつ形を結び始めた。
天井は低く、布張りで、見覚えのある離宮の寝室とはまるで違う。壁際には小さな窓があり、厚手のカーテンが揺れを抑えるように留められている。外の景色はほとんど見えず、わずかな隙間から夜の闇が流れてくるだけだった。
(あれ……? ここ、どこだろう)
そう思ったとき、また身体が揺れた。今度ははっきりと分かる。前後に、規則正しく続く動きだ。床から伝わる振動が、足先までかすかに響いている。
わたしは息を整えながら、ゆっくりと上体を起こした。すると、座面の感触が柔らかく沈み、同時に革の匂いが鼻をかすめる。
馬車だ。
なぜだかまるでわからないけれど、わたしは馬車に乗っている……?
状況を確かめようとして、反射的に身体を動かそうとした。その途端、手首に走った違和感に息を詰める。
「……え」
思わず視線を落とすと、両手が前でまとめられ、固く縛られていた。布越しでも分かるほど、きっちりと力を込めて結ばれている。引けば引くほど食い込み、ほどける気配はない。
(なに、これ)
頭の中が一気に白くなる。夢の続きなのか、それともまだ覚めきっていないのか。そう思いたくて、何度か指を動かしてみるけれど、現実は変わらなかった。
胸が早鐘を打ち始める。
答えの出ない疑問ばかりが浮かび、喉がひくりと鳴った。そのときだった。
向かいの座席で、影がゆっくりと動いた。
暗がりに溶けていた人影が、身体を起こす。衣擦れの音が小さく響き、わずかな灯りに照らされて、顔の輪郭が浮かび上がった。
「あら、ようやく目が覚めたのね」
その声は落ち着いていて、驚くほど穏やかだった。まるで、こちらが混乱していることなど最初から分かっていて、それを気にも留めていないかのような調子だ。
わたしは息を詰め、縛られた手に力を込めたまま、その人物を見つめ返す。
「アーデルハイド王女殿下……?」
この場所にいるはずがない、隣国の王女がそこにいた。
どうして、この人がここに……?
全然理解が追いつかない。
豪奢な外套に身を包み、馬車の揺れにも微動だにしない姿勢で、こちらを見下ろしている。その瞳は澄んでいるはずなのに、冷たく光っていた。
わたしはどうやら、馬車の床に転がされているみたいだ。
「ここは、どこですか」
わたしは喉を鳴らし、必死に言葉を探した。さきほどまで見ていた夢があまりにも生々しく、その余韻で頭がうまく働かない。なんとか上体を起こすので精一杯だ。
昨夜はわたしの生誕を祝う式典で、とても温かく華やかだった。泉で少し心を落ち着かせた後、いつものようにロザリナたちに就寝の挨拶をして、わたしは寝台に向かったはずだ。
いつもとは違う香の匂いがして、少し不思議に思ったことを覚えている。そっと自分の身体を確認する。確かに、昨晩身につけた夜着だ。
アーデルハイド王女は、わたしを見下ろして小さく笑う。
「あなたに説明する必要はないわ。ただ、取引の場だと思ってくださる?」
取引。その言葉に、胸が強く波打つ。
彼女はゆっくりと足を組み、余裕のある仕草で続けた。
「正直言って、あなたの存在がすっごく邪魔なの。わたくしの計画が何一つ上手くいかないわ。せっかく侯爵家を手に入れることができるところだったのに!」
アーデルハイド王女の声には、苛立ちが隠されていなかった。長い間、思いどおりにいかなかった不満を、そのままぶつけてくるような響きだった。
「わたくしはね、ちゃんと筋道を立てていたのよ」
王女は指先で外套の縁を軽くなぞりながら、つまらなさそうに息を吐く。
「グーテンベルグの侯爵家と婚姻で関係を固めて、次に我が国に有利な条件を引き出す。その流れは完璧だったのに全部ダメになったわ、あなたのせいで。綺麗な物は全部、わたくしの物なのに」
アーデルハイドはにっこりと笑っている。その瞳には底知れぬおそろしさがあった。
それに、グーテンベルグの侯爵家というのは、これまでのことから考えてキース様のことを指していると分かる。
昨日の夜会で、アーデルハイド殿下はローラント兄様にエスコートされていた。それでも、途中で気分が悪くなったと中座されてしまったと聞いた。
「あなたの計画は知りませんが、だからといってこうした行動を起こしてどうなるのでしょう。離宮には人がいたはずで……そうです、彼女たちは⁉︎」
わたしはハッと息を呑む。
「侍女たちは、どうなったのですか」




