30 十八歳の誕生日③
「かっ、髪が跳ねていらっしゃったので、直せたらと思って……!」
視線を戻したわたしは、完全に動きが止まってしまったキース様に慌てて言い訳をする。何か注目を浴びるようなことをしてしまったことは間違いない。後でキース様にも怒られてしまうだろう。
「……リリーベル様」
「はっ、はい!」
「お手を」
「はいっ!」
ようやく口を開いたキース様に言われて、わたしは心臓をバクバクさせながら、躾の行き届いたわんこのように急いで左手を差し出した。
それを彼の右手が包み込み、そのまま彼の口許へと運ばれる。
ちゅ、と指先に軽やかに口づけられ、場内はまた俄にざわめいた。
「リリーベル様。ファーストダンスの栄誉を頂いてもいいでしょうか?」
「ひゃい……!」
金の瞳で射抜かれるように見つめられ、噛んだわたしは情けない返事をしてしまった。私が動揺している間に、キース様はさっとその場に膝をつく。
艶やかな黒髪とちょこんとしたつむじが見えてかわいい。このアングルは初である。
視線を上げれば、広間中の注目が集まっている。
期待と好奇が混じった刺すような空気に足がすくみそうになったところで、キース様が立ち上がって隣に立った。
「行きましょう。皆様お待ちかねです」
「は、はい」
差し出された腕に、そっと手を添える。
深呼吸ひとつ。考えるのはやめて、歩くことだけに集中した。
音楽隊の前を横切り、磨かれた床を進むたびに、衣擦れの音が小さく響く。わたしの歩調に合わせてくれているのだとわかる。
そのまま中央へ辿り着く頃には、胸の高鳴りも少し落ち着いていた。
その場で一礼すると、広間は自然と静まる。
「皆の者。本日は、リリーベルの生誕を祝うため、よく集まってくれた」
お父様が一歩前に出て、ゆっくりと手を上げた。
落ち着いた声が広間の奥まで行き渡り、広間は一層静まり返る。
「十八歳という節目は、王家にとっても、国にとっても大きな意味を持つ」
お父様の視線がこちらに向く。厳しさは残っているが、以前に感じたような威圧感はない。気のせいかもしれないけれど。
「今宵は、その節目を祝うと同時に、一つ、語るべきことがある」
短く区切り、言葉を続ける。
「東部において、隣国でかつて民を死の恐怖に陥れた感染症が発生した。現地は混乱し、不安が広がっていた。適切な対処がなされなければ、被害はさらに拡大していただろう」
ざわりと空気が変わる。そのことを知っている者、知らない者。領地の位置によっては情報が届いていないところもあるだろう。
(お父様は、何を言うつもりなのかしら)
意図がわからずに戸惑ってしまう。思わずぐっと手に力がこもってしまい、キース様の腕に負荷をかけてしまった。
「……大丈夫です、リリーベル様」
上から降る柔らかな声に、わたしは小さく頷いた。
お父様の口から語られたのは、東部での対策に尽力したポルシェ家、ヴィンターハルター家の医師団、騎士たちについて。きっと王として彼らを讃えているのだろう。
「その状況下で、医療と薬学の連携を整え、治療体制の構築に尽力した者たちがいる」
お父様の視線が、わたしに向いた。
「このリリーベルも、その一人だ」
それだけ言って、間を置く。
「王女という立場にありながら、現地に赴き、自ら学び、判断し、行動した。その働きは、国として正当に評価されるべきものである。よって今宵は、彼女の生誕を祝うとともに、東部での功績についても、皆と分かち合おうではないか」
そう締めくくり、手を軽く上げた。
言葉が終わるや否や、広間にどっと歓声が広がった。
拍手の音が重なり合い、空気が一気に熱を帯びる。けれど、わたしはその中心に立っているという実感が追いつかず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
なんだろう、これ。白昼夢でも見ているのかな。まさかお父様に祝ってもらえるなんて、思ってもみなかった。
そんなわたしのすぐ隣に、そっと影が差す。
「ほら、リリー」
低く、やわらかな声。ルーク兄様だった。肩に軽く手を置かれ、現実に引き戻される。
「胸を張れ。今日の主役はお前だ」
反対側から、ローラント兄様も顔を覗かせる。
「そうだぞ。よくやった。堂々としていろ」
その言葉に、胸の奥がきゅっと詰まる。
そして、わたしの正面に立つキース様が、静かに微笑んだ。
「リリーベル様の努力が、正当に評価されたのです。誇るべきことですよ」
それだけで、堪えていたものが一気に溢れそうになる。
怖かったこと。苦しかったこと。報われないかもしれないと怯えていた夜。
それらが、今この場で一つに重なって、胸いっぱいに押し寄せてきた。
(……ああ)
わたしは、ちゃんと生きてこられたのだ。
そう思った瞬間、視界が滲んだ。慌てて瞬きをし、背筋を伸ばす。ここで泣くわけにはいかない。
ゆっくりと一歩前へ出て、深く息を吸う。広間のざわめきが、次第に静まっていく。
「……皆様」
声は思ったよりも落ち着いていた。
「本日は、このように温かく迎えていただき、ありがとうございます。身に余るお言葉と拍手に、胸がいっぱいです」
胸に手をあて、真っ直ぐに前を向く。王女として、毅然とした姿であるように。
「東部でのことは、決してわたし一人の功績ではありません。多くの方々が知恵を出し、力を尽くしてくださった結果です。わたしは、その輪の中にいただけでした」
少し間を置き、続ける。
「それでも、もしあの経験が誰かの役に立ち、この国の一助となったのなら……これほど嬉しいことはありません」
視線の先に、お父様の姿がある。
その表情は相変わらず厳格で、けれど先ほどよりもわずかに柔らいで見えた。
「これからも、学ぶことをやめず、与えられた立場に甘えずに歩んでいきたいと思います。どうか、見守っていただけましたら幸いです」
そう締めくくりカーテシーをすると、再び拍手が湧き起こった。
今度は、はっきりと自分に向けられていると分かる。胸が熱くて、少し息が苦しい。けれどその感覚は、恐怖ではなく、確かな実感だった。
十八歳の夜。
わたしは今、この場所に確かに立っていた。




