27 デッドラインが近づいています③
***
わたしはエーファ様と連れ立って、マルグリット妃主催のお茶会に招かれていた。
白磁のカップに注がれた紅茶は淡い琥珀色で、湯気とともにやわらかな香りが立ちのぼる。日差しの入るサロンは明るく、窓辺の花も瑞々しい。席に着いた瞬間、まず目に入ったのは、マルグリット様の表情だ。
(よかった、とってもお元気そう!)
顔色がいい。声にも張りがある。以前のような疲れは見当たらず、ゆったりと背筋を伸ばしてこちらを迎えてくださった。
「今日は来てくれてありがとう。二人とも」
その一言で、胸の緊張がほどけた。自然と笑みがこぼれる。
わたしとエーファ様は顔を見合わせ、小さく頷き合ってから並んで一礼した。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます。マルグリット様」
「お加減が良さそうで、安心いたしました」
エーファ様に続けてそう口にした途端、喉のあたりが詰まる。視界がにじみ、続けようとした言葉が途切れた。慌てて息を整えようとしたものの、こぼれ落ちた涙は止まらない。
「……っ」
自分でも驚くほど、次々に涙が落ちる。静かなサロンの中で、その音さえ聞こえてしまいそうで、余計に焦った。マルグリット様がお元気でいること。それだけでどうしようもなく嬉しい。そう思ったら、自然と涙が止まらなくなってしまったのだ。
きっとお二人は困惑してしまう。そう思うのに、堰を切ったように溢れてしまう。
「リリーベル様?」
エーファ様が小さく名を呼ぶ。その声に応えようとしても、喉が震えてしまう。
すぐそばで足音がして、アデリナが控えめに近づいてきた。
「失礼いたします」
何も言わず、清潔なハンカチを差し出してくれる。動きに無駄はなく、必要以上に踏み込まない距離も心得ていた。その様子を見て、エーファ様の眉がわずかに動く。短く、探るような視線がアデリナに向けられる。
「……見ない顔ですわね」
低く落とされた声に、アデリナは表情を崩さず、静かに一礼した。
「アデリナ・ポルシェと申します。少し前から、侍女としてリリーベル殿下のおそばに務めております。」
それだけ答え、すぐに一歩退く。
「……おそばに。……それにポルシェ家と言ったら」
エーファ様の声が、ほんの少しだけ低くなる。
視線がアデリナへ向けられ、その鋭さにわたしは内心でひやりとした。
「貴女、お兄様が言っていた方ね」
「はい。推薦状を書いていただきました」
淡々と答えるアデリナに、エーファ様は一瞬だけ口元を引き結ぶ。
不満を隠そうともせず、けれど露骨に表に出すほど子どもでもない、そんな表情だった。
「そう」
短く返してから、エーファ様はわたしのほうへ視線を移す。その表情は、どことなくむっとしている。いえ、確実にムッとしている。
「ヴィンターハルター侯爵令嬢は、リリーベル様の最も大切なご友人と聞き及んでおります。私も恩返しができたらと思っていますので、よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げるアデリナの言葉に、エーファ様の眉がぴくりと動いた。
視線が一度、宙を彷徨い、それから小さく咳払いをする。
「……そ、そう。まあ、当然よね。わたくしとリリーベル様は長い付き合いですもの!」
さっきまでの棘は、どこへ行ったのか。
声色は平静を装っているものの、わずかに緩んだ口元がすべてを物語っていた。
ちらりとアデリナを見て、今度は先ほどほどの警戒心はない。むしろ、少しだけ評価を改めたような目つきだった。
二人のやり取りを見守っていたわたしも、ほっと息をつく。
(突然のヒロインと悪役令嬢の邂逅に圧倒されてたけど、なんだか丸く収まりそうでよかった……!)
びっくりしすぎて、頬を伝っていたはずの涙がいつのまにか止まっている。
アデリナが差し出してくれたハンカチを、そっと握り直した。
「マルグリット様、失礼いたしました」
そう言って顔を上げると、マルグリット様は変わらず穏やかな笑みをたたえて、静かに首を振られた。
「いいのよ。無理もないわ」
紅茶のカップを置き、わたしをまっすぐに見つめる。
「わたくしのことで、たくさん心配をかけてしまったのでしょう。あなたがずっと、わたくしの身を案じてくれていたことは、ローラントから聞いているわ」
少しだけ声を和らげて、続けられる。
「優しい子ね。立場や年齢に関係なく、人のことを思えるのは、とても尊いことよ」
そんなふうに言われてしまうと、返す言葉が見つからない。
ただでさえ泣いた直後なのに、また目頭が熱くなりそうで、慌てて背筋を伸ばした。
「い、いえ……そんな……」
すると、視界の端で大きくうなずく気配がある。エーファ様だ。しかも一度ではなく、納得したように何度も。反対側では、アデリナまで真剣な顔で首を縦に振っている。
何かしら、この光景は。
わたしが褒められているだけなのに、二人とも「その通りです」と言わんばかりの様子だ。
思わず視線を泳がせると、マルグリット様がくすりと微笑んだ。
「ふふ。ほら、ご覧なさい。周りの方々も、同じ気持ちのようよ」
その一言で、サロンの空気がさらに柔らぐ。
控えている侍女たちや給仕の方達もみなにこやかで、優しすぎるくらいに温かな雰囲気だ。
ひとりで必死だったあの頃とまるで違う。
「でもね、リリーベル殿下。東部に向かうと聞いたときは、わたくしも心配していたのよ。感染症の只中に、あなたが向かうだなんて」
マルグリット様は、少しだけ表情を引き締める。
視線はやわらかいのに、その声には確かな重みがある。
「あなたは責任感が強すぎるところがあります。どうか、自分のことも大切になさってね」
マルグリット様のその言葉を聞いたら、胸の奥がぎゅうと締め付けられた。
わたしを心配している言葉。上辺ではなく、心からのものだとわかる。
「そうですわ! わたくしも心配していました!」
勢いよく言ったのはエーファ様だった。
胸を張り、いつもの少し強気な口調で続ける。
「無茶をするのは美徳ではありませんもの。リリーベル様は、ご自身が思っている以上に大切な存在なのですからね!」
そう言い切ったあと、ふいと視線を逸らす。けれど耳が、ほんのり赤い。
その様子に、思わず笑いそうになりながら、わたしは深く息を吸った。涙は、もう出てこない。
「ありがとうございます」
一人一人の顔を見て、はっきりと言葉を選ぶ。
「わたし……ちゃんと、自分のことも大事にしますね」
「ええ。あなたの前向きさに救われている者は多くいるのですからね、リリーベル殿下。ローラントも随分と明るくなりました」
「お兄様が?」
「ええ、あの子は昔はわたくしの心配ばかりしていたけれど、あなたやルーク殿下と関わるようになって笑顔がたくさん見られるようになったわ」
マルグリット様は満足そうにうなずき、エーファ様も小さく鼻を鳴らす。
「わたくしのお兄様もですわ。前は何を考えているか分からないところがありましたけれど、今はとてもわかりやすいですわ」
エーファ様の言葉に、マルグリット様も大きく頷く。
「ええそうね。キース様も……ふふふ、リリーベル殿下といる時はとても楽しそうにしていらっしゃるわね」
「マルグリット妃殿下もそう思われますか? あんなに楽しそうなお兄様、わたくしも見たことがありませんでしたの!」
「ええ。ヴィンターハルター侯爵の傀儡かと思っていたけれど、そんなことは無さそうで安心したわ」
その言葉に、わたしは思わずマルグリット様を見た。
傀儡――その響きに、心が小さく跳ねる。
けれど、視線を受け止めたマルグリット様は、いつもどおり穏やかに微笑んでいる。
探るようでも、断じるようでもない。ただ静かで、すべてを承知しているかのような眼差しだった。
(どこまでご存じなのだろう)
胸の内に浮かんだ疑問を、そっと飲み込む。サロンの空気は和やかなままで、誰も言葉を荒らげることはない。
少し間を置いて、わたしは話題を変えようと口を開いた。
「そ、そういえば! ヴィンターハルター侯爵を最近お見かけしないですね」
思い返せば、最後に会ったのは東部へ向かう前のことだ。庭先で、あの人は変わらぬ柔和な笑みを浮かべていた。そして去り際に、軽やかな口調でこう言ったのだ。
『王女もそろそろ成人なさるからには、良いご縁を考えないといけませんね。国益のために』と。
不敵な笑みとともに残されたその言葉が、今も記憶に残っている。
あれ以来、姿を見ていない。
「そうね。最近は、お顔を出されていないわ」
マルグリット様はそれ以上深く踏み込まず、静かに紅茶へ視線を戻した。カップを持ち上げる所作はいつもどおり優雅だ。
エーファ様が、わずかに肩をすくめる。
「お父様は今、王都を離れていらっしゃるの。そのせいでしょう」
「そうなのですね」
「お兄様が当主代理をされているから、侯爵家としては特に問題はありませんわ」
あまりに淡々とした口調に、わたしは内心驚いていた。なんだろう、この感じ。
なにか、風向きが変わったような……。
そんなことを考えていると、マルグリット様がふっと表情を和らげた。
「それよりも、リリーベル殿下。生誕祭の式典で身につけるアクセサリーは、もうお決まりかしら」
「えっ……いえ、まだそこまでは」
すると、エーファ様がすぐに反応する。
「まあ、それはいけませんわ。主役なのですから、早めに詰めておきませんと」
「そうだろうと思ったわ!」
マルグリット様がそう言って、軽く手を叩く。
その合図を待っていたかのように、控えていた侍女たちが素早く動いた。
壁際に控えていた一人が小さく一礼し、別の侍女が奥の扉を開く。ほどなくして、腕いっぱいに抱えられた厚手の冊子や、布で丁寧に包まれた箱が運び込まれてくる。
「こちらは王宮御用達の宝飾工房から届いた新しい意匠のカタログでございます」
「こちらは過去の式典で使用された装身具の一部でございます」
革張りの表紙を持つカタログが何冊も重ねられ、宝石箱の蓋が静かに開かれるたび、柔らかな光を受けて宝石がきらりと瞬いた。
「リリーベル殿下の髪色を考えると、淡い色合いの石が映えそうね」
「式典でしたら少し華やかさも欲しいところではありませんか?」
「あっあの」
「首元はあまり重くしない方が、美しい首周りが際立つものよ」
「……確かに、リリーベル様には重くない方がいいですわね」
マルグリット様とエーファ様は真剣そのもので、けれどどこか楽しそうだ。全然話に入れない。
(こんなふうに、わたしのことを考えてくれているんだ)
白熱した二人の話がいち段落したところで、マルグリット様がこちらを見つめた。
「リリーベル殿下」
「はい」
「みな、あなたに幸せになってほしいのよ」
その声はやわらかく、けれど迷いがなかった。
エーファ様も、少し照れたように視線を逸らしながらうなずく。
「本当に、そうですわ」
その言葉に、胸の内が静かに満たされていくのを感じた。
テーブルに並ぶ宝飾品のきらめきも、先ほどまでの賑やかな議論も、ふっと遠のく。残ったのは、まっすぐ向けられる視線と確かな想いだけだった。
「ありがとうございます」
短く、けれど心を込めてそう返す。
生誕祭は、ここまで生きてきたことを認められ、これから先も生きていくと祝われる場なのだとようやく実感できた気がする。
この場所で、この人たちと、笑っていられる未来を――わたしは、きちんと選び取る。そう静かに心の中で決めながら、もう一度、紅茶に手を伸ばした。




