26 デッドラインが近づいています②
それから数日が経ち、用務の合間を縫って訪れた図書館は相変わらず静かだった。
高い天井まで伸びる書架の間を歩くたび、紙とインクの匂いがほのかに混じる。ここに来ると、気持ちが落ち着く。
「アデリナもここで好きな本を選んでいいわよ。仕事の合間にでも読めたらいいでしょう?」
振り向いてそう言うと、アデリナは一瞬きょとんとした顔をしてから、ぱっと表情を明るくした。
「よろしいのですか? ありがとうございます! 実はお城の書架に興味があって」
「そうでしょう。ポルシェ家にも立派な書庫があったもの」
わたしはしばらく過ごしたあのお屋敷に思いを馳せる。
屋敷の中央には大きなライブラリーがあり、そこにさまざまな種類の本が置かれていた。旅行記が多かったように思う。
「母の趣味なんです。なので私も幼い頃からよく本を読んでいました。ああ、こんなにたくさんの本があると目が迷ってしまいます」
嬉しそうに背表紙を眺める様子は、東部で見ていた彼女と変わらない。素直で前向きなところは、
それでも、わたしの半歩後ろを保つ距離感や、視線が常に周囲をなぞっているところは、しっかり侍女だった。
(ちゃんと切り替えているのね)
感心しつつ、わたしもいつもの棚に手を伸ばす。薬学書と、最近は歴史書もよく読むようにしている。
「リリーベル様」
聞き慣れた声がして振り返ると、キース様が書架の間から姿を現した。視線が合った瞬間、わずかに表情が和らぐ。
「キース様。お仕事の調べ物ですか?」
「ええ。少し確認したい資料がありまして。お会いできて嬉しいです」
そう言いながら、自然にこちらへ歩み寄ってくる。気づけば、距離が近い。近すぎる、気がする。
「その本は、最近入った写本ですね。注釈が丁寧で、リリーベル様に向いていると思います」
「そうなのですね。ありがとうございます。借りてみます」
わたしの手元を覗き込みながら、低い声でそう言われる。肩が触れそうなほどの距離に、思わず息を止めた。
(……やっぱり、近くないかしら?)
確かにキース様とは東部への移動の間も寝食を共にした仲ではあるのだけど、あの時はわたしも必死だったから気にならなかったけど。
顔を上げると、キース様は何でもないことのように微笑んでいる。けれど、その様子を、アデリナがじっと見ていた。
本を選んでいるふりをしながら、視線は確実にこちらを捉えている。位置取りも、わたしとキース様を正面から見渡せる場所だ。
(すごい顔をしてる……アデリナったら)
この前あんな話をしたからだろうか。とってもキース様を警戒している。
小型犬が威嚇しているような可愛らしいものだけど。
気づいた瞬間、なんとも言えない気持ちになる。頼もしいような、少し気恥ずかしいような。
「アデリナ、何か良さそうな本は見つかった?」
声をかけると、彼女ははっとしたようにこちらを向いた。さっきまでの鋭い視線はきれいに消えていて、切り替えの早さに思わず感心してしまう。
「はい、ありました! こちらにします」
そう言って差し出されたのは、思った以上に分厚い一冊だった。
「訴訟に関する記録集です。判例も多くて、読み応えがありそうなので」
「ずいぶん実務的ね」
「やっぱり何事も法律の知識が必要だと思ったのです。もしもの時に隙間を突くこともできますし」
なんだかものすごく感情が乗った声だ。きっと離縁の関係で色々あったのだろうと勝手に推察してしまう。でもまあ、合法的に解決するのは良いことだ。
「それと……ヴィンターハルター様」
アデリナは背筋を伸ばし、静かにキース様に向き直った。
「我が家のことだけでなく、こうして仕える場を用意してくださったこと、心より感謝しております。侍女として、この身の務めを果たすことでお返しいたします」
言い切ってから、丁寧に一礼する。
決意は十分に伝わるが、声色は落ち着いていて、無理な力は入っていなかった。
「いえ。あなたの働きが評価された結果です」
キース様は淡々と答えながらも、どこか穏やかな表情だった。
アデリナは顔を上げ、にこりと笑う。そのまま、さらりととんでもないことを口にした。
「ですので、リリーベル様に近づく不審な方や余計な虫については、契約通り、私がすべて排除しますね」
「排除……?」
聞き返すより早く、キース様が小さく咳払いをした。
「ほどほどにお願いします」
「承知しました。節度をもって対処いたします!」
こちらも即答だ。
節度って、何だろう。
わたしの知らないところで、キース様とアデリナが何かを共有しているような気がして、少しだけ落ち着かない。首を傾げていると、その視線に気づいたのか、キース様がこちらを見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
「リリーベル様が安心して過ごせるよう、周囲の整理を進めています。あなたの憂いを取り除くためならば、何でもいたします」
そう言って、静かに頭を下げられる。思わず背筋が伸びた。
「名残惜しいですが、ここで失礼いたします」
丁寧な一礼のあと、踵を返して去っていく。その横顔に向けられた視線が、なぜだか甘やかだった気がして、わたしは戸惑いを隠せなかった。
視線を戻すと、アデリナがにこにこと微笑んでいる。何も言わないのに、何かを見透かされているようで、わたしは小さく息を吐いた。
気を取り直して、書架に向かう。指先で背表紙をなぞりながら、読む本を選ぶ。こうしていると、いつもの調子に戻れる。
(本当に、キース様もお忙しそうだわ)
小説とは少しずつ違う方向に進んでいる気はしても、確証は持てない。となるとやはり、誕生日を越えないことにはわたしは安心できないのだと言う結論に達した。
なので今は、無事に生誕の式典を迎えることだけを考える。
離宮の周りには警備の騎士が増えた気もするし、わたしも気合を入れないと。
「……うーん、どう考えてもそうとしか思えないんだけれど……」
わたしの後ろでアデリナがぽつりと呟いた言葉も、悶々と考え事をするわたしの耳にはまるで届かなかったのだった。




