閑話 グーテンベルグ国王
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重い扉が閉じられる音が、はっきりと響く。
机を挟んで向かい合うのは、グーテンベルグ国王とヴィンターハルター侯爵だった。
侯爵は背筋を正し、いつもどおり涼やかな表情を浮かべているが、指先にはわずかな緊張が滲んでいるようにも見える。
国王は書類に目を落としたまま、しばし言葉を発さない。
紙をめくる音だけが、静かな室内に落ちる。
「……第一王女に関するあの計画についてだが」
やがて、低い声が響いた。
侯爵の視線がわずかに上がる。
「再度考え直すつもりだ。卿には伝えておこうと思ってな」
その一言で、空気が変わった。
侯爵は一瞬、言葉を失い――すぐに、困惑を隠した微笑を浮かべる。
「……なぜ、でございましょうか」
丁寧な口調。
しかし、その奥にある焦りは明らかだった。
「隣国王への王女の輿入れは、現在最善の国策かと。今さら計画を見直す理由が、私には理解できません」
国王は視線を上げ、侯爵を正面から見た。
「理解できぬか」
「はい。恐れ多くも陛下。国益を考えれば、これ以上に合理的な選択はありません。軍事的緊張の緩和、医療と薬学の交流、同盟の強化。隣国と縁をつなぐことによりすべてが揃っております」
「隣国の王女がヴィンターハルター家に降嫁することも含めて、全て都合が良いと?」
「……それは、まだ固まっておりませんが」
侯爵は一瞬、言葉に詰まった。
いつもの柔和な笑みがわずかに歪み、視線が揺れる。
言い終えたあと、空気が重く沈んだ。
国王は椅子の背に深く身を預け、しばし黙考する。その沈黙が、侯爵にはひどく長く感じられた。
「隣国エーデルラントの王家とは随分親しくしているように感じられたが。前回も子息がエスコートをしていたであろう」
低く、感情を削ぎ落とした声。
「……外交とは、常に段階を踏むものでございます」
侯爵は慎重に言葉を選んだ。
だが国王の視線は、逃げ場を与えない。
指先で机を軽く叩く音が、執務室に響く。
「そうだな。私もそう思う。強いて言うならば、あの時とは状況が変わったのだ」
国王は淡々と告げた。机に向けられていた視線を上げ、侯爵を正面から捉える。その目には、すでに結論があった。
「あの時は他に選択肢がなかった。国を保つために、王女を外交の駒とする判断もやむを得なかった」
一拍置く。
「だが今は違う。第一王女は東部で結果を出した。混乱の中で前に立ち、民の信を得た。それは、想定していなかった変化だ」
国王の声は低く、揺れない。
「外交は相手国を見る前に、自国を見るものだ。今の王女を、ただ隣国へ渡す判断が本当に国益か。現時点で、隣国王への輿入れは最善ではない。国民の反発もあるだろう。ルークも許さないだろうな」
「それは……!」
侯爵は言葉を失い、ただ頭を垂れるしかなかった。
国王は短く息を吐き、視線を侯爵から外した。
「それと――子息にも礼を言いたい。連れて参れ」
その言葉に、侯爵の肩がわずかに強張る。
「……恐れながら、謹慎中の身でございますが」
「承知している。だからこそだ」
国王は淡々と言い切った。
「東部での働きは事実だ。王家として、功を認めぬ理由はない」
机上の書類に指先を置き、言葉を続ける。
侯爵の視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……承りました」
深く頭を下げる侯爵を前に、国王はそれ以上何も告げない。すでに必要なことは言い切ったという態度だった。
重い足音が、執務室の床を打つ。
扉の前で一度だけ立ち止まり、形式どおりに一礼をしてから、侯爵は外へと出て行った。
重い沈黙が落ちる。
やがて国王は書類に視線を戻す。
第一王女、リリーベル。
妃が不貞を働いたとして、捨ておいた王女。
政略の駒となるならば、それが最も良いと思っていた。
だからこそ、悪名高い隣国王の元に嫁がせようと言われても心は動かなかった。そう、少し前までは。
東部行きを決めたリリーベルの瞳には、確かに妃の面影があった。
あの人も、同じように前を見据える目をしていた。誰かのために踏みとどまり、逃げずに立ち続けるときの、あの静かな強さ。
国王は無意識のうちに視線を伏せる。
そこには、長いあいだ見ないようにしてきた現実が横たわっている気がした。
不貞を疑い、確かめることもなく距離を置いた。
王としての立場を理由に、感情から目を背けた結果、妃とは二度と向き合えないまま今生の別れとなった。その選択が正しかったのかどうか、答えを出さないまま今日まで来てしまった。
国王は小さく息を吐き、机上の書類へと意識を戻す。
ルークを通じて提出された報告書には、東部で発生した感染症についての詳細な考察が記されていた。
発生の経緯、土地の特性、公衆衛生の不備――どれもが具体的で、単なる事後報告ではない。原因を見極め、次を防ぐための視点でまとめられている。
国王の視線は、自然と文末へと向かった。
そこに添えられた名前を見て、ほんのわずかに眉が動く。
「……キース・ヴィンターハルター、か」
報告書は、今回の感染症の発生にエーデルラントの関与を疑う言葉で締められていた。
前回の夜会で、隣国王ヴォルフラムがリリーベルを「下見」に訪れていたことは把握している。
その態度が好意と打算の入り混じったものであったことも。
だが、話はまだ成立していない。
こちらから「王女を差し出す」という最終の意思表示をしていない以上、隣国王は表立って動かないだろう。
あの男は、自ら求めることよりも、相手が差し出した形を好む。王としての体面と支配の均衡、その両方を守るために。
(ふん、好色王め)
国王は便箋を引き寄せ、筆を取る。
断りの文面は、あくまで穏やかに。時期尚早であること、国内事情を理由とし、関係を損なわぬよう礼は尽くす。それ以上の含みは持たせない。
書き進めながら、ふと、胸の奥に沈んでいた思いが顔を出す。
あの時、妃のことを信じることができたら、なにか変わっていたのだろうか。
『陛下。あくまで“噂”ではございますが……第一王女殿下のご出生について、不審な点がございます』
低く、慎重で、いかにも主君を思うような声音だった。
『王家の血統は、国の根幹に関わります。万が一があってからでは、取り返しがつきません。疑いのあるまま情を優先なさるのは、王として危うい選択かと存じます』
断定はしない。
証拠も示さない。
ただ、疑念だけを、静かに置いていく。
『調べる価値はございますが……陛下がご決断なされぬのであれば、これ以上は申し上げません』
そう言って一歩引いた、親友のその姿勢が――結果的にもっとも残酷だった。
全てを親友のせいにするつもりはない。その意見を元に、怒りで頭が沸騰してしまったのは己の未熟さだ。
それでも、調べることは出来なかった愚かさも。
書簡を書き終え、静かに封をする。
国王は背もたれに身を預け、しばし目を閉じた。
あらゆる事実を、国王はようやく正面から受け止めつつあった。
あけましておめでとうございます!
いつも読んでくださり嬉しいです。本当に…!(誤字脱字は本当に申し訳ありません)
完結目指してがんばりますーーー!!!!




