23 わたしの居場所
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目を開けた瞬間、最初に浮かんだ感想はとても単純だった。
(うーん、すっきりした!)
頭の中にかかっていた靄が、きれいに晴れている。
体も軽くて、久しぶりにぐっすり眠れた朝の感覚そのものだった。
ゆっくり瞬きをして、天井を見上げる。
見慣れた離宮の寝室。朝の光がやわらかく差し込んでいて、カーテンがわずかに揺れている。
(そうだった、戻ってきたんだ)
東部から帰ってきたんだった。あれ、そういえばその後どうしたんだっけ?
ルーク兄様たちに報告にいく予定だったけれど、その記憶がない。
起きあがろうと身じろぎしたところで、視界の端が慌ただしく動いた。
ばたばたと足音が近づき、視界に侍女たちの顔が飛び込んでくる。ロザリナとベルネだ。
「り、リリーベル殿下……?」
「お目覚めですか⁉︎」
信じられないものを見るような目で覗き込まれて、わたしは少しだけ首を傾げる。
(そんなに驚くことかな……?)
ふたりの驚き方に逆にびっくりしつつ、朝の挨拶をしようと思って口を開く。
「……おは、よ」
声が、出なかった。
正確には、出たけれど掠れてひどく頼りない音になってしまった。
思わず自分の喉に手を当てる。喉がひり、とする感覚に、ようやく異変を自覚した。
その様子を見て、ロザリナがはっと息を吸った。
「ベルネ!」
「は、はいっ!」
名前を呼ばれたベルネは、反射的に返事をすると、そのまま踵を返す。
「リリーベル殿下がお目覚めです! 早く、王子殿下がたにお伝えして!」
「はい!!」
ぱたぱたと音を立てて、ベルネが廊下へ飛び出していく。
その背中をぼんやり見送りながら、わたしはもう一度、喉にそっと手を当てた。
すると、すぐそばに控えていたロザリナが、静かに前へ出る。
「リリーベル殿下、こちらを」
差し出されたのは、薄く色づいた水の入ったグラスだった。
近づけられた瞬間、ふわりと爽やかな柑橘の香りが鼻先をくすぐる。喉の奥まで、すっと風が通り抜けるような清涼感。
(いい香り……)
ロザリナに支えられながら、わたしはゆっくりと口をつけた。
冷たすぎない水が、乾いていた喉を優しく潤していく。
香りと一緒に、身体の内側へ染み渡っていく感覚がはっきりと分かった。
ロザリナは安堵したように微笑み、グラスを受け取る。
「無理をなさらず、少しずつで大丈夫ですよ」
その声を聞きながら、わたしは静かに頷いた。
喉の違和感はまだ残っているけれど、さっきよりずっと楽だ。
「ありがとう、ロザリナ」
喉が潤い、今度はきちんと声が出た。
ほっとして、ふわりと微笑んでみせると――ロザリナが、泣き出しそうな顔をした。
いつもは仕事に真剣で、背筋の伸びた凛とした表情ばかり見てきたから、胸が少しきゅっとなる。
「お加減はいかがでしょうか。気持ち悪いところなどはありませんか。お身体は毎日、清拭させていただいていましたが……」
「まいにち?」
「はい」
思わず聞き返してしまう。清拭。つまり、眠っている間、身体を拭いてもらっていたということだ。
確かに、入院していたときはしてもらったことがあるけど……。
「あの、ロザリナ。わたしって、どのくらい眠っていたのかな?」
恐る恐る尋ねると、ロザリナは一瞬だけ言葉を選ぶように視線を伏せ、それから静かに告げた。
「三日間でございます」
「……えっ?」
間の抜けた声が漏れた。
言われてみれば、身体はすっきりしているのに、どこか芯が重い。頭も少し、ぼんやりしている気がする。
まさか、そんなに眠っていたなんて……!
三日間眠っていたと言われたせいか、無性にお風呂に入りたくなってくる。
「リリーベル殿下、まずはお医者さまの診察を――」
ロザリナが言いかけたとき。
廊下の向こうから、明らかに慌ただしい足音が響いてきた。
「いらっしゃいましたわ」
ロザリナがはっと顔を上げて扉の方へと急ぐ。
扉の向こうで、声がする。わたしにも分かった。
聞き覚えのある、低く落ち着いた声。
――キース様だ。
まだちゃんと頭が回っていないのに、不思議とそれだけはすぐに分かった。
扉が開く気配を感じながら、わたしはベッドの上で、少しだけ背筋を伸ばした。
「リリーベル様」
そこに立っていたキース様は、ひどく切なそうな顔をしていた。
その表情を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
掠れないように気をつけて声をかける。
「こ、こんにちは、キース様」
間の抜けた挨拶だったかもしれない。
けれど彼は何も言わず、すぐにこちらへ歩み寄ってきた。
「……よかった」
低く、抑えた声。
次の瞬間、手を取られていた。
驚く間もなく、キース様は真剣な顔でベッドのそばに膝をつく。
「少し、失礼します。……脈は正常ですね。少し速いですが」
指先が手首に触れているせいで脈がもっと早くなってきた気がしてきた。
けれどキース様はまるで気づいていない様子で、今度は額に手を当ててきた。
ひやりとした感触に、内心ひい、と声が出る。
「熱もなさそうですね。倦怠感などはありませんか」
淡々とした声に、少しだけ安心する。
やがて手が離れ、キース様はわたしの顔をじっと見つめた。
「は、はい、まだ少し頭がぼおっとしますが、それ以外は元気です!」
「本当に、目が覚めてよかった」
ぽつりと落とされた言葉が、胸に沁みる。
「ご心配をおかけしてしまって申し訳ありません。城に戻ってきたところまでは覚えているのですが」
「……そうですね。その後倒れられてから、リリーベル様はずっとお目覚めになりませんでした」
切実な声に、わたしはまたキース様を見た。
いつもより髪が乱れていて、目の下には隈が見える。息を切らしてまで、急いでわたしのことを見にきてくれたのだと思うと、心配をかけた立場だというのに嬉しくなってしまう。
東部で一緒に過ごした時間は、かけがえのないものだった。二人で色々と相談をして、決断をして、必死に初動をこなした。
キース様がすごく煌めいて見える。元々そうだったけれど、それよりももっと眩しくて、心臓が嬉しいと言っている。
じっと見つめ合っていると、胸の奥がじんわりと温かくなってきた。
戻ってきたんだ、という実感が、ようやく追いついてくる。
そのとき。
ばたん、と少し勢いよく扉が開いた。
「「リリー!」」
一番に飛び込んできたのは、ローラント兄様だった。
続いて、少し遅れてルーク兄様の姿が見える。
「目を覚ましたと聞いて……っ」
「無茶をするなと言っただろう!」
ほっとした顔と、怒った顔が同時に向けられて、わたしは思わず目を瞬かせた。
ええとええと、なんて言うんだっけ。
「た、ただいま戻りました!」
言ってから、少しおかしいと気づく。
この状況で言う挨拶じゃなかったかもしれない。
勢いよく詰め寄ってきていたローラント兄様と、叱責の言葉を続けようとしていたルーク兄様が、まるで時間を止められたみたいに固まった。
ほんの一拍。
部屋の空気が、妙に静まり返る。
静まり返っていた空気の中で、先に動いたのはルーク兄様だった。
ベッドの脇まで歩み寄り、わたしの顔をじっと確かめるように見つめてから、ゆっくりと言う。
「……おかえり、リリー」
その声は低くて、穏やかで。
叱責や言いたいことを全部飲み込んだような響きだった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
続いて、ローラント兄様がわたしの頭にぽん、と手を置く。
いつもより少しだけ、優しい力で。
「よく頑張ったな、リリー」
短い言葉なのに、不思議と涙が出そうになる。
頑張ったと言われるのが、こんなにも救いになるなんて思わなかった。
「……ありが、とうございます」
そう答えた声が、少し震えたのを自覚する。
ローラント兄様は気づいたらしく、苦笑いを浮かべた。
「ほら、泣くな。戻ってきたばかりだろ」
ルーク兄様も、肩をすくめて微笑む。
「無事でよかった。病ではないのだろう? キース」
「はい。肺炎の兆候はありませんので、過労と思われます」
「そうか。それは何よりだ」
ルーク兄様はキース様からの報告に、はっきりと安堵の色を浮かべて頷いた。
その様子を見て、ようやく胸の奥に溜まっていた力が抜ける。
(……帰ってきたんだなあ)
東部で張りつめ続けていた糸が、音もなくほどけていく。
必死に踏ん張っていた足が、ようやく地面に下ろされたような感覚だった。
ここは、離宮。
わたしの部屋で、わたしの居場所。
そっと視線を上げると、すぐ近くにキース様がいた。
片膝をついたまま、必要以上に近づかず、けれど確かに寄り添う距離で、静かに見守っている。
その少し後ろでは、ローラント兄様が明るく笑い、ルーク兄様が腕を組む。そしてロザリナたちが控えめに様子をうかがっていた。
(なんだか、この光景をずっと見ていたいな)
今はただ、ここで息を整えればいい。
確かに帰ってきたのだと、心からそう思えた。




