22 東部ポルシェ領③
ふと、胸に小さな疑問が浮かんだ。
(そういえば……ポルシェ子爵は?)
領主であるはずの人物の姿を、この三日間、一度も見ていない。
忙しさに紛れて見落としていただけかと思ったが、どう考えても不自然だった。
「子爵令嬢には、リリーベル様と共に薬草の管理をするように指示をしておきます。ではリリーベル様、またのちほど報告に参ります」
「行ってらっしゃいませ、キース様。どうかお気をつけて!」
忙しそうなキース様に、わたしは疑問を引っ込めて手を振る。
なんだかちょっと、家族みたいな感じがしてほっこりしてしまう。
忙しそうに踵を返したキース様の背に向かって、わたしは大きく手を振った。
――ぴたり。
ほんの一拍、キース様の足取りが止まる。
背中越しでもわかるほど、動きがわずかにぎこちなくなった。
「……」
返事はない。
けれど、肩がほんの少しだけ強張ったのが見えた。まるで、思いがけない一撃を受けたかのように。
(……どうしたんだろう?)
首をかしげている間に、キース様は何事もなかったかのように歩き出す。けれどその歩幅は、先ほどよりも微妙に乱れている。
わたしが考え込んでいると、遠ざかる背中の向こうで、キース様が軽く咳払いをしたのが聞こえた。
*
しばらくして、少し上擦った声が背後からかかった。
「リ、リリーベル様……!」
振り返ると、そこに立っていたのはアデリナだった。
両手を胸の前で組み、背筋を伸ばしているけれど、その表情は明らかに緊張している。キース様が呼んできてくれたみたいだ。
「アデリナ様は水魔法がお使いになれると伺いました。お手伝いをしてもらってもいいですか?」
そう言って、わたしは苗床を指し示しながら、ゆっくりと説明を進める。
アデリナは真剣な表情で頷き、何度も確認するように復唱してくれる。元々しっかりした子だ。孤児院で子どもたちのお世話をする彼女を、見てきたもの。
「この薬草がこの地に根付けば、発症から治癒までの期間が早くなります。アデリナ様、よろしくお願いしますね」
「はい、お任せください、リリーベル様!」
アデリナは一歩前に出て、きゅっと拳を握った。
その声には迷いがなく、背筋もぴんと伸びている。
「必ず、この薬草を根付かせてみせます。ここで倒れる人を、これ以上増やしたくありませんから」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
わたしは小さく微笑んで、もう一度苗床に視線を落とした。
そうしたら、胸の奥に引っかかっていた違和感が顔を出した。
(……やっぱり、気になるなあ)
わたしは少しだけ言葉を選んでから、アデリナを見る。
「アデリナ様……ひとつ、お聞きしてもいいですか?」
「はい。なんでしょうか?」
「この三日間、領地のことを把握しようとしていて……どうしても、ポルシェ子爵のお姿を見かけないような気がしたのですが」
一瞬だけ、空気が止まった。
「もしかして、ご病気なのでしょうか」
恐る恐る投げた問いだった。
けれどアデリナは、驚くほどあっさりと、そして明るく首を振った。
「いいえ!」
ぱっと花が咲くような笑顔。
「お父様はですね、感染症が広がっていると聞いた途端、王都に行ってしまったそうです」
「王都にですか?」
「ええ。こちらは危険だから、と。入れ替わりになったみたいです」
さらりと告げられた言葉に、思わず息を呑む。
「今は、愛人の家に身を寄せているんじゃないでしょうか」
あっけらかんと語られる内容に、わたしは目を丸くする。
確かに、アデリナを虐げる後妻と義理の妹の存在は小説では必須だから、もうすでに彼女たちがいることは当たり前なのだけど……!
けれどアデリナは、少しも俯かない。
「ですから、領地のことは母とわたしと、皆でやることになったのです。本当に、お母様を助けてくださりありがとうございます」
アデリナの明るいその声は、強がりでも虚勢でもなかった。
覚悟を決めた人の、静かな強さだった。
わたしは思わず、彼女の手をそっと取る。
もし原作どおりなら――この先、彼女の母は病に倒れ、領地は混乱し、のうのうと戻ってきた父とその周囲が好き勝手をする。
そんな未来が、ありありと浮かんでしまったから。
(……そんな結末、絶対にありえない)
わたしは思わず、アデリナの手を取った。両手で、ぎゅっと包む。
「大丈夫です、アデリナ様」
「え……?」
「きっとうまくいきます。いえ、うまくいかせましょう。わたしたちで」
言葉にすると、不思議と力が宿る気がした。
アデリナは一瞬きょとんとして、それから唇を噛みしめる。
「……はい」
泣きそうなのに、笑おうとしている。
目尻に滲んだものをこらえながら、彼女は小さく、でも確かに頷いた。
「ありがとうございます、リリーベル様……」
その表情は、泣き笑いだった。領主の娘としての責任と、不安と、恐怖と。
それでも前を向こうとする強さが、そこにあった。
わたしはもう一度、彼女の手を握り返す。
(ひとりじゃない)
その想いが、少しでも伝わればいい。
それから、二週間。
期限が来るその日まで、わたしたちは毎日、精魂尽き果てるほどに働いた。
夜明け前から動き、薬草を煎じ、苗を管理し、隔離区画を整え、症状を記録し、回復の兆しに小さく喜び、悪化に歯を食いしばる。
誰もが疲弊していた。
それでも、立ち止まる者はいなかった。
***
――そして、わたしは王都へ戻ってきた。
離宮の門が見えたところで、ようやく胸の奥に張り詰めていたものが、ふっと緩んだ気がした。
(ちゃんと、できたかなあ)
役目は果たしたと、そう思える。
東部の状況は落ち着き、治療体制も整った。アデリナはセレーネ草の栽培に専念し、あとは交代の医療団と現地の人たちに任せても大丈夫だと、そう判断できた。
馬車から降りて次の一歩を踏み出そうとしたら、足元が揺れた。
「あ……れ……?」
視界が傾く。身体が、自分のものではなくなる感覚。全く足に力が入らない。
「リリーベル様!」
強い腕が、わたしを抱き止めた。
衝撃はなく、代わりに感じたのは、確かな体温と、聞き慣れた声。
「……キース、さ……ま」
名前を呼んだつもりだったけれど、きちんと声になっていたかは分からない。
それでも、彼の顔がすごく泣きそうに見えて。わたしは安心させようとにこりと微笑んだ。
「だい、じょぶ……です。まだ、しなない、はず……で」
「リリーベル様、もう喋らないでください」
キース様はわたしを抱き上げる。
身体は重いけれど、不思議と心は軽かった。
前もこんなことがあったなあ。
そう思いながら、どんどん意識が沈んでいく。キース様が叫んでいる気がするけれど、もう聞こえないや。
(……ちゃんと、変えられたよね)
原作の中では、間に合わなかった未来。
誰かの死を前提に、物語が進んでいった結末。
どうか目覚めた時、良い日が来ていますように。
わたしはそう思いながら、キース様に身を委ねた。




