20 東部ポルシェ領①
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馬車の中は、思いのほか静かだ。
車輪が石畳を踏む規則的な音と、布越しに伝わる微かな揺れだけが、移動していることを教えてくれる。
座面にはふかふかのクッションが敷き詰められていて、とっても快適だ。
ただ、同じ空間にキース様がいるから、気を引き締めないと……!
「東部では、ポルシェ子爵家に滞在することになっています」
向かいに座るキース様が、一生懸命背筋をキープしているわたしに淡々と説明してくれる。
一週間ほどの移動のため、いつもとは違ってかっちりとした上着は羽織っておらず、ベスト姿で腕まくりをしていて、なんだか新鮮だ。
「ポルシェ子爵家って、アデリナ様のご実家ですよね」
「はい。子爵家に滞在することで、領内の状況把握も容易でしょう。全面協力するとの意向です」
尋ねると、さっと答えてくれた。
馬車の揺れに合わせて、膝の上に置いた手がわずかに動く。
今日のわたしは、王女としての装いではない。
髪は自分でできるひとつの三つ編みにして、動きやすさを優先した簡素な仕立ての菫色の淡いワンピースを着ている。
そう、まるで薬師のリリーのような出立だ。
「……きっと、わたしがリリーだとお気づきになりますよね」
「そうですね。確実に」
わたしの問いに、キース様はきっぱりと答えた。アデリナにも夫人にも、わたしはお忍び姿で会っている。リリーベルとしては会ったことはないけれど、この姿は認識しているはずだ。
ほどなくして、馬車は速度を落とす。
外から人の声と、門が開く音が聞こえてきた。
「子爵家に到着しました。リリーベル様、行きましょう」
「……はい」
扉が開かれ、湿った空気とともに視界が開ける。
石造りの門の向こうに広がるのは、落ち着いた佇まいの屋敷だった。派手さはないが、手入れが行き届いているのが一目でわかる。
門前には、すでに人影があった。
(あれは……子爵夫人とアデリナ様、かしら)
夫人の隣には、少し緊張した面持ちのアデリナ様が立っていた。王都にいたはずだけど、彼女も呼ばれているらしい。
キース様にエスコートされながら馬車を降りると、二人はすっと背筋を伸ばした。
「リリーベル王女殿下。この度は、東部までお越しいただき……心より感謝申し上げます」
夫人が丁寧に頭を下げ、アデリナもそれに倣って一礼する。
そして、顔を上げたふたりの視線がぴたりとわたしに釘付けになる。まるで、今ようやく焦点が合ったかのようだ。
「……え?」
「……あの」
アデリナが、小さく瞬きをした。
「リリーベル殿下……ですよね?」
恐る恐る、といった声だった。
視線はわたしのわたしの頭からつま先まで、確認するように流れている。
わたしは一拍置いてから、素直に頷いた。
「はい。わたしが、リリーベルです」
「で、でも……!」
アデリナの声が、思わず裏返る。
「その、薬草を持ってきてくださったリリー様という方に、とてもよく似ていらしゃる気がして」
アデリナ様はそう言いかけて、言葉を失った。
戸惑いと驚きが、そのまま表情に浮かんでいる。
その隣で、夫人がふっと息を吐くように笑った。
「まあ……そうだったのですね。リリーベル殿下」
穏やかな声だった。けれど、その響きはどこか震えていた。
夫人はわたしの顔をじっと見つめ、ゆっくりと一歩、前に出る。
そしてためらいもなく、その場に跪いた。
「リリー様。いえ、リリーベル殿下」
その視線は、まっすぐにわたしへ向けられている。
「殿下の献身が、わたくしの命を救ってくださいました。本当にありがとうございます」
その声音には、取り繕いも、社交辞令もない。心の底からの感謝だけがあった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
わたしは慌てて前に出て、夫人の肩にそっと手を伸ばした。
「やめてください、夫人。お元気になられて良かったです!」
以前聞いた通り、夫人は以前通りの生活に戻れている。早期治療により、後遺症もなく過ごせることがなによりだ。
「わたしが出来ることをしただけです。助かったのなら、それが一番嬉しいです」
それがわたしのすべてだった。おこがましくても、皆に幸せであってほしいと願ってしまう。顔を上げた夫人の瞳は、わずかに潤んでいる。
「ありがとうございます、リリーベル様」
その言葉を、今度はアデリナ様が引き継ぐように続ける。
「本当に……ありがとうございます。母が元気でいてくれることが、どれほど救いか……! リリー様などとお呼びして、本当に不敬で申し訳ありません!」
「それは気にしないでほしいです。わたしがそう言ったのだから、不敬ではありません」
青ざめているアデリナの手をきゅっと握る。
それからわたしはふたりを見つめ、静かに頷いた。
「一緒に、乗り越えましょう。ここから先はもっと多くの人を救うために」
「はい……!」
アデリナが頷くと、夫人も立ち上がる。
「リリーベル王女殿下。できることはなんでもいたします。治療に必要な人手も、物資も、場所も全てわたくしたちに命じてくださいませ」
アデリナも一歩前に出て、同じように頭を下げる。
「私もです、リリーベル殿下。子爵家の娘として、できることは何でもいたします! どうかおそばに置いてください!」
必死で、でもまっすぐな瞳。
その表情を見たとき、胸に確かな手応えを感じた。
「一緒に頑張りましょう」
そう伝えると、ふたりとも早速邸宅の中に案内してくれることになった。
「リリーベル様は、天性のものがありますね」
「……え?」
思わず振り返ると、そこにはいつも通りのキース様が立っていた。
穏やかな表情のまま、涼しい顔をしている。
「今、何かおっしゃいました?」
「いいえ」
きょとんとした顔で首を傾げられる。
「治療薬の準備に入りましょう。時間は貴重ですから」
何事もなかったかのような、完璧な微笑み。
……絶対に、今、なにか言った。
(気のせいじゃないと思うんだけど)
もう教えてくれなさそうだ。わたしも結構キース様のことがわかってきたんだから。
「キース様」
わたしは彼の名前を呼ぶ。それから右手を差し出した。
「……なんでしょうか」
「握手をしてほしいです。これから、一緒にがんばりましょう!」
一瞬ためらったあと、キース様の手が伸びてきて、わたしの手と重なる。ぎゅっと握手をして、私は笑顔で彼を見た。
ここで頑張る。王都には絶対に病を持ち込まない。後悔する人を生まない。
「行きましょう、キース様!」
――ここが、踏ん張りどころだ。
そう、はっきりと実感しながら、わたしは一歩、前へ進んだ。




