19 会議室②
重い扉の向こうから、低く押し殺したような声が漏れていた。
王宮の会議室。普段なら、わたしが近づくことすら許されない場所だ。
扉の前に立つと、詰めていた兵が一歩前に出る。
「現在、会議中です。関係者以外の入室は――」
その言葉が終わる前に、わたしは一歩、踏み出した。息をゆっくりと整える。
(大丈夫。こわくない)
背筋を伸ばし、顎をわずかに上げる。
いつもの遠慮がちな態度は、意識的に切り捨てた。
「わたしを、誰だと思っているのですか?」
自分でも驚くほど、声が澄んでいた。
冷たく、静かで、上から。
いつもと違うわたしの態度に、騎士が目を瞬かせる。
「え……あ、いえ、その……」
「そこをどきなさい。貴方と話している時間も惜しいのです」
言い切った。
その圧に、騎士は完全に戸惑っている。どう対応していいかわからない、という顔をしている。
「王女殿下を通しなさい」
そのとき、低くよく通る声が背後から響いた。
騎士がはっとそちらを向く。
「ヴ、ヴィンターハルター侯爵子息……!」
キース様は、感情の読めない表情のまま立っていた。その眼差しには、明確な意志が宿っている。
「リリーベル王女殿下が入室を望まれている。止める理由はない」
「し、しかし……」
「責任は私が負う。貴方は自らの任を果たしたと思っていい」
それだけで十分だった。騎士は慌てて一歩退き、深く頭を下げる。
「し、失礼いたしました……! どうぞ、リリーベル殿下」
扉が、ゆっくりと開かれる。
長机の周りに並ぶ貴族たちの視線が、一斉にこちらへ向いた。羽根ペンが止まり、椅子が軋む音がやけに大きく響く。
「――リリーベル、どうしてここに」
ルーク兄様が立ち上がる。
その声には驚きと焦りが混じっている。
「ここはお前のような者が来る場所ではない。警備兵は何をしている」
父と目が合う。真っ直ぐ目が合ったのはいつふりだろうか。
確かに、ルーク兄様と似ている。
冷たく切り捨てるような言葉に萎縮しそうになりながらも、足に力を込めた。
「お話があります」
「聞く価値などない」
にべもない返答に、場の空気がさらに張り詰めたときだった。
「まあまあ、陛下」
やわらかく、しかしどこかねっとりとした声が割って入る。
ヴィンターハルター侯爵が、穏やかな笑みを浮かべて手を広げた。
「王女殿下がわざわざ足を運ばれたのです。何かお話があるのでしょう。少しばかり耳を傾けて差し上げても、よろしいのでは?」
その言い方は丁寧だった。
だが、完全に子ども扱いだ。
(侮られている気はするけど、これはチャンスだわ)
強引にここまで来ないと、きっともうこの先進言をする機会はないと思っていた。どんな形であれ、ヴィンターハルター侯爵が流れを作ってくれたことをありがたく思わないと。
お父様から目を離さずにいると、わずかに眉をひそめたあとに小さく嘆息した。
「……用件を言え」
「っ、はい!」
発言が認められ、わたしは一度、深く息を吸った。
背後に、静かに立つキース様の気配を感じる。それに、ルーク兄様もずっと心配そうに見てくれているのを感じる。
「東部で、感染症が発生したという報告を偶然耳にしました」
はっきりと告げると、ざわり、と空気が揺れた。
「王都まで報告が来たということは、すでに東部では大勢の方々が罹患しているのではないですか」
「……そうだとしても、お前に何の関係が」
「初期症状の段階で封じなければ、感染は一気に広がります」
お父様に、真正面から言葉を投げる。
貴族たちの視線が、値踏みするようにわたしをなぞる。
ヴィンターハルター侯爵が、わざとらしく首を傾げた。
「ですが王女殿下、医師団もすでに動いておりますし……お若い殿下が心配なさることではありませんよ?」
微笑みながら、突き放す。
——ここだ。
わたしは机の端まで進み、胸の前で握りしめた手に力を込める。
「わたしも、東部に行きます。医師団に入れてください」
自分でも驚くほど、声はよく通った。
ぐらつきそうになる膝を、必死に支える。
「待て、リリーベル」
ルーク兄様の声が鋭くなる。
「ここはお前が出る場所じゃない」
わたしは一度だけ兄様を見て、それから――正面へ視線を移した。
突き放しているわけではなく、本当に心配してくれているとわかる。悲痛そうなその顔を見ているだけで、わたしは泣きそうになってしまった。
お父様が、先ほどと変わらぬ表情でわたしを見下ろしている。
「王女であるわたしが東部に行くことで、民の士気が上がり、王家が国民を見捨てていないということを示すことができます」
言葉を選ぶ暇はない。伝えたいことだけを真っ直ぐに。わたしはそこに行かなければならない。
「なんと……」
「確か、殿下は薬草にお詳しいとか……」
「いやしかし……」
会議室に貴族たちのざわめきが走る。
わたしは続けた。
「お父様やルーク兄様、ローラント兄様の御身では動けません。だったら、わたしがお役に立てるのではないかと思いました」
「しかしリリーベル。それはあまりにも危険だ」
ルーク兄様が苦悶の表情を浮かべている。
お父様は黙り、冷えた瞳でわたしを測るように見た。貴族たちもざわめいている。
「志は立派ですが」
ヴィンターハルター侯爵は、ゆっくりと言葉を選ぶように間を置いた。
口元には、薄く張りついた笑み。
「普段、離宮にお籠もりになっている王女殿下に何ができるのでしょう?」
やわらかな口調。
だが、その声音にははっきりとした嘲りが混じっていた。
「医療の現場に繊細な殿下が耐えられるとは、とてもとても――」
言葉の途中で、わざとらしく首を振る。
「失礼ながら、理想論で現場は救えません」
ヴィンターハルター侯爵の冷ややかな視線が、わたしを刺す。
くすり、と小さな笑い声が漏れた。同調するように、何人かの貴族が視線を逸らす。
正論だとわかる。
それでも、わたしは東部に行かなければならない。せめて最初の一週間だけでも。
「僭越ながら、発言をお許しください」
キース様が、スッとわたしの前に出た。
揺るがない背中に庇われる形になる。
「リリーベル殿下は、この病への所見があります。効果のある貴重な薬草を育て、一年以上に渡り日々研究をしていました」
その言葉に、ざわめきが一段大きくなる。
「……なんと……!」
「王女が、研究を……?」
「離宮で、そんなことを……?」
貴族たちが顔を見合わせる。
驚きと疑念が混ざった声が飛び交う中、キース様は淡々と続ける。
「先に病の兆候のあった東部出身者に治療を施し、完治までさせています」
空気が、変わった。
それは疑いが消えたというより、無視できないという流れに変わる感覚だった。
お父様が微かに目を細める。
ルーク兄様は息を止めたように、わたしを見ている。
わたしはキース様の隣に立ち、お父様だけを見据えた。
「お母様が離宮に残してくださった薬草園で、ずっと勉強をしてきました。わたしは、ただ守られるだけの王女ではありません」
言葉は静かに、けれど揺れない。
「せめて東部での治療体制が整うまでの期間でいいので、行かせてください。今なら、助けられます」
会議室の誰かが、また息を呑んだ。
わたしはお父様だけをしっかりと見据える。
その瞬間、わずかに空気が変わった気がした。ほんの一瞬だけれど、お父様の表情が歪んだのだ。
(……なんだろう?)
怒りでも、冷淡さでもない。
わたしにはうまく言葉にできない、けれど確かに迷いのようなもの。
すぐに先ほどまでの威厳ある王の顔に戻ったけれど、それでも違和感は拭えなかった。
「……いいだろう」
低く、しかしはっきりとした父の声が会議室に落ちた。
「強制はしない。王女自らが望むのであれば、止める理由はない」
それは、突き放すようでいて――どこか自分に言い聞かせるような声音にも聞こえた。
なぜだろう。
その横顔を見ていると、胸の奥がわずかにざわつく。
答えは分からないけれど、父の決断の裏に、わたしの知らない何かがあった気がした。
「父上!」
即座に、ルーク兄様が声を荒げる。
「リリーベルはまだ成人前の王族です。そんな危険な場所へ行かせるなど私は反対です!」
兄様の言葉は、まぎれもなくわたしを案じてのものだった。
それが分かるからこそ、胸がちくりと痛む。
だが、父は視線すら動かさず、淡々と言い放った。
「リリーベル本人が行くと言っている。それだけの話だ」
その隣で、ヴィンターハルター侯爵が口角をわずかに上げる。
「そうですな。王女殿下の高潔なお志。止め立てする理由はありません。むしろ、王家が国民を見捨てていないという象徴になるでしょうから」
わたしの命も、安全も、彼らの中では秤にかける対象でしかない。
国益になるなら差し出しても構わないと思っている。それを今回は利用させてもらった。
「確かにそうですなあ」
「王女殿下が向かわれるのであれば、領民も安心するでしょう」
「これは英断かと」
他の貴族たちも、次々と賛同の声を上げる。
会議室の空気は、いつの間にかわたしの派遣を前提として動き始めていた。
(決まった、んだ)
思わず、小さく息を吐く。
緊張で固まっていた胸が、ほんの少しだけ緩んだ。
その瞬間、視線を感じた。ルーク兄様だ。
怒りを押し殺したような、けれど明らかに納得していない顔で、真っ直ぐこちらを見ている。
守れなかった悔しさと、止められなかった怒り。
全部が混ざった表情に、胸が締めつけられる。
(ごめんなさい、ルーク兄様)
わたしは、心の中で小さく頭を下げた。
それでも、行くしかない。
「私も王女殿下に随行いたします」
(えっ?)
キース様の静かな声が、会議室に響いた。
一斉に視線が集まる。わたしも含めて。
そして、最初に反応したのはヴィンターハルター侯爵だった。
「……何を言っている、キース」
ぴしりとした声。
「お前が行く必要はない。これは王女殿下の単独行動なのだ」
「父上の意見は聞いていません」
侯爵の声を遮るように、キース様が迷いなく言い、会議室が凍りつく。
(えええええ……?)
わたしは思わず目を見開いた。
今まで、父親である侯爵に対して、こんなふうに正面から言葉を返す姿を見たことがなかったからだ。
ヴィンターハルター侯爵の顔色が、目に見えて変わる。
先ほどまで浮かべていた柔和な笑みは影も形もなく、頬の筋肉がこわばり、口元が不自然に引き結ばれていた。
「……キース、お前は嫡男としての自覚を持ちなさい」
低く、怒りを孕んだ声。
理性の皮一枚の下で、苛立ちが煮え立っているのが、遠目にも分かる。
けれど、キース様は一歩も引かなかった。
「貴族として、国のために働くのです。それ以上に、どんな意味がありますか」
淡々とした声。
けれど、その一言には一切の迷いがなかった。
「我が侯爵家は医療に長けています。その知識と人脈が、今まさに必要とされている。今この力を使わずに、いつ使うのですか?」
「……っ」
静寂が会議室に落ちる。侯爵家嫡男が、当主である父に正面から異を唱える。
誰もが想定していなかった光景だ。
ヴィンターハルター侯爵の怒りに歪んだ表情と、予想外の反論に対する動揺。
口を開きかけて――けれど、声にならない。
(……びっくり、した)
思わず見上げると、キース様と目が合った。
一瞬だけ、鋭さを帯びていた金の瞳が、ふっと和らぐ。
そして、柔らかく微笑まれる。
「ご一緒いたします、リリーベル様」
「……あ、ありがとうございます……!」
声が少しだけ、弾んでしまった。自覚した瞬間、頬が熱くなる。
侯爵に反発してよかったのかとか、わたしのことは役目で見張ってるだけじゃなかったのかとか、考えることは色々あるけれど。
「よい。では決まりだ」
お父様の低く、揺るぎのない声が会議室に落ちる。
「リリーベルは東部へ向かう。随行として――ヴィンターハルター侯爵子息、キースを正式に命じる」




