16 泉の幻②
なんだか息苦しくて、はっと目を覚ました。
寝室の天蓋、暗闇に溶け込むカーテン。
なのに胸の奥がざわつき、呼吸が浅い。
「……ララ?」
胸の上に感じていたはずの温もりがない。
わたしはまぶたをこすりながら身を起こす。
そのとき、窓の方で小さな音がする。
(外に出ちゃったのかな……)
夜はわたしのそばから離れないのに。どうしたんだろう。
そっと寝間着の裾を整えたわたしは外套を手に取り、小さく息を吐いた。
寝室の扉を開け、廊下へ出た。
昼間は賑やかなこの場所も、今はランプの明かりだけが静かに揺れている。
夜露の降りた石畳はひんやりとしているのに、不思議と寒さを感じない。それに人の気配もない。
ララの姿はどこにも見当たらないのに、迷いなく歩が進む。
庭へ続く扉を開くと、夜の空気が肌をすべる。
草の匂い、冷たい風、月光。
そして——
「ララ?」
薬草園の方角から、かすかに猫の鳴き声がする。
何度も来慣れているはずの薬草園なのに、夜はどこか幻想的だ。
泉が月明かりに照らされて、淡く光っている。
昼間よりずっと穏やかで美しい。まるでわたしを誘うように。
(ララはどこかな……あ、あんなところに)
泉のほとりで、ララが尻尾をふわりと揺らしていた。
何かを待つように、泉の底をじっと覗き込んでいる。
「ララ。泉はこわいんじゃなかったの? そこは危ないよ」
そっと抱き上げると、ララは「にゃぁ」と短く鳴いた。
安心したのか、わたしの腕の中で目を細めている。
ララの体温に胸が落ち着きを取り戻していく。泉の光は、水面をゆらりと揺らしながら、まるで呼吸をしているみたい。
「……」
気づけば、わたしは泉へと引き寄せられるように歩みを進めていた。
そっと指先を泉へ伸ばす。水面は凪いだまま、わたしを静かに待っているかのようだ。
呼吸を整え、意識を集中させる。
すう、と。指先から淡い光がほどけ、月の光のように白い糸となって水面へと落ちた。
指先の感覚が、泉にほどけていく。温度も輪郭も曖昧になり、境界が溶けていく。
自分の魔力が泉そのものと溶け合ってしまいそうなそんな感覚に、背中がぞくりと震えた。
——次の瞬間。
『どうしてお前が生まれた? 汚らわしい娘め』
頭の中に、直接怒声が聞こえた。
こんな言葉、知らない。知らないはずなのに、胸の奥がぎゅっと痛むほど、知っている声。
『せめて国のために嫁ぐんだな』
嫌だ。聞きたくない。
『感染症の特効薬? 君の意見をそのまま鵜呑みには出来ない。本当にそんな薬草に価値があるのかい?』
『……この薬は僕の名で公表させてもらうよ』
冷たく切り捨てる言葉。どうしてそんなことを言うの。わたしが一生懸命つくった薬なのに。
『どうしてもっと早く薬を作れなかったんだ! そのせいで母上は……!』
息が詰まるような、責める声。
胸が、苦しい。足元が崩れていくような感覚に襲われる。
『あなたみたいにみすぼらしい方が義姉になるなんて、ありえませんわ』
耳を塞ぎたいのに、声は頭の内側から響いてくる。
『申し訳ありません、リリーベル様。もうここには来ません』
誰も、わたしのそばにいない。
「っ、やめて……!」
ばっ、と泉から手を振り払う。
水音が夜の静寂に冷たく弾けた。
はっとして見回せば、そこは静謐な夜の庭園。
だけど、心臓だけが、まだ暴れるように痛い。
——わたしは何を見たのだろう。
胸が激しく上下している。喉が焼けるみたいに渇いて、呼吸がうまくできない。
「……っは、はぁ、は……っ」
ガタガタと震える指先を見つめていると、
「ニャ……?」
腕の中で、ララが心配そうに鳴いた。
その温もりに、はっと我に返る。いつのまにか、ぎゅうぎゅうと抱きしめてしまっていた。
「ララ……ごめんね。びっくりしたよね……」
謝ってから力をゆるめると、小さな体がわたしの胸元でふわりと動いた。
柔らかくて、あたたかくて、確かな命の重み。
それでも震えはすぐには止まってくれない。
(大丈夫。わたしは……ちゃんとできてる、はずだもの)
それでもなぜか、涙がこぼれ落ちた。
どうしようもなく悲しい。
(あんな言葉、全部嘘よ。兄様たちも、エーファ様も、キース様も……あんな言葉をわたしには言ったことはないじゃない)
なんとか自分にそう言い聞かせる。
なのに、耳の奥ではまだあの冷たい声が渦巻いている。
心臓が痛いくらいに早く打っていて、どうしようもない焦燥感に駆られる。
わたしは言われていない言葉。それでも、こうして聞こえた言葉。
(もしかして、あれは全部リリーベルが言われたことなのかな)
これまでの夢のことを思えば、そうとしか思えない。
あんな世界に、彼女はいたのね。
変えようともがいていた原作の世界は、リリーベルに一つも優しくない。
声を上げても、頑張っても、何ひとつ報われない世界に彼女はいた。
「……戻ろうか、ララ」
「にゃ」
そう声に出すと、ララが小さく喉を鳴らした。
夜風がそっと頬を撫でる。
それはまるで、落ち着けと囁いているようで。わたしは不思議な感覚のまま、離宮に戻ったのだった。




