14 翡翠色のドレス④
ルーク兄様の執務室に通されると、置かれた書類の山がまず目に入った。重い紙の匂い、羽ペンが滑る乾いた音。そのすべてが、この国の行く末を形づくっているのだと思うと少し背筋が伸びる。
毎回思うのだけれど、いつも書類がタワーみたいになっている。
「おや戻ったのか、キース。それにリリーも」
兄様はすぐに仕事の手を止めた。その瞳が興味深そうにわたしたちを見ている。少し楽しそうなのは……ええっと、気のせいかな?
「ルーク兄様、お忙しいところ申し訳ありません。急ぎの用で調べ物をしているところでキース様にお会いして、一緒に来てしまいました」
「そうなのか。それはちょうど良かったね、キース」
「ちょうど……?」
「……」
兄様はキース様に向かって、なにやら意味深な笑みを浮かべている。
キース様は、相変わらず冷静そのものだ。眉一つ動かしていない。
(えっ、えっ? なにがちょうど良かったの?)
置いていかれるのは困るので、わたしは慌てて本題に入る。
「ルーク兄様。南部産の新しい染料について、調べたいことがあるのです」
そう告げた途端、ルーク兄様の眼差しがわずかに鋭くなった。
「あの新染料について? リリー、何か気になることでもあるのかい」
「はい。その……毒性についてです」
「毒性?」
兄様の眉が少しだけ上がる。
普段のわたしなら躊躇したかもしれない。だが、いまは迷っている暇なんてない。
「ドレスの染料にもし有害な成分が含まれていた場合、着用者の健康を損ねます。その……そういった書物を読んだことがあるのと、マルグリット妃の体調不良が気にかかってしまって」
わたしはなんとか焦りを口にする。全ては仮定だ。
でも、原作の開始の時にはマルグリット妃もわたしもその場にいない。不穏な芽は早急に対処したいのだ。
「健康被害が出るほどの毒か……。だが、今まで問題は報告されていないよ。孔雀石には毒性はないと検査済みだ」
ルーク兄様が困ったように眉を下げる。
その優しい反応が逆に、喉をきゅっと詰まらせる。
(それでも……!)
足が震えても、この場で退いてはいけない。
深く息を吸い込んだ瞬間――
「確かに染料自体の安全性は確認しました。しかし……本当に、今流通しているすべての品が孔雀石由来の染料を用いているのでしょうか」
静かに、しかし鋭い声が横から差し込んだ。
キース様だった。
「どういう意味だ?」
「南部の染料生産が、ここ数ヶ月で爆発的に増加しています」
キース様は淡々と机上の資料を一部抜き取り、ルーク兄様の前へ置いた。
「孔雀石の産出量の伸びと比較したところ……不自然な差があるように思います」
ルーク兄様の表情から、冗談めいた色が完全に消える。
「つまり?」
「孔雀石だけで、この生産量は説明できないということです」
キース様のその冷静な指摘は、確かな疑念として机上に落ちた。
わたしは拳をぎゅっと握りしめる。言うなら、今だ。
「あの、ルーク兄様。孔雀石の染料に別の薬品が混ぜられている可能性は考えられないでしょうか。もし有毒なものだったら健康被害が国中に蔓延してしまいます」
本物を別のもので薄めて数量を増やす。そういう手法は現代でも聞いたことがある。とても単純だけれど、手っ取り早い手法だ。
「リリーベル殿下のお話を聞く限り、まず最初に染料に触れる織物職人にすでに害が及んでいる可能性があるかと。私も職人の推移が気にかかっていたので、調査をする価値はあります」
わたしの言葉に、キース様も重ねてくれる。
有害なものが知らずに身近なものに使われていたことは前世でもあったもの。昔の体温計とか、建物の素材とか。
静寂が部屋を支配する。
ルーク兄様の瞳が、ゆっくりとわたしとキース様を見渡した。
「……南部の染工房を調査する。染料の再確認も。マルグリット妃殿下にも診察を受けてもらい、当該ドレスについてもお借りして調べた方がいいね。迅速に手配しよう」
重く真剣な声。その言葉は、確かな前進だった。
(ルーク兄様、わたしの話を聞いてくれるの……?)
胸の奥がじんわりと熱くなる。
もしかしたら、全てわたしの杞憂で、本当は有害なものなんてないかもしれないのに。
「そうしたら、お前のこれまでの不安は少しは解消されるか? リリー」
ルーク兄様のやわらかな笑み。わたしの言葉は決して軽視されていない。そんな空気が伝わってくる。その優しさに、喉がきゅっと締めつけられる。
言葉が出てこないわたしに、兄様は静かに続ける。
「……次がもしあるなら、ちゃんと耳を傾けようと思っていた」
その言葉が、優しく沁みる。
兄様も、あの時のことを気にしてくれていたのだと知った。
そして気づいたときには、身体が動いていた。
「ルーク兄様っ……!」
勢いよく抱きついてしまう。
「リ、リリー?」
「ありがとう、ルーク兄様……っ」
胸元に顔を押し付けて、思いきりしがみつく。
「……わたしの話を聞いてくれて、本当に……ありがとうございます……っ!」
また否定されると思っていた。世間知らずの王女の言葉なんで、誰にも届かないと思っていた。
少し間があって、そっと頭に手が置かれる。
「リリーが何かのためにずっと頑張っているのは、見ていたからね」
その一言が、涙よりも先に胸に染みていく。
「今後の対応も急がなくてはならないな」
ルーク兄様が、そっとわたしの肩を離してくれる。
涙の粒がこぼれそうになるのを慌てて目元で受け止めた。
「実はこの織物事業は、次の貴族会議で国を挙げて推し進める議題として上程される予定だった。グーテンブルク・グリーンとして大々的に」
ルーク兄様の声はいつもの次期国王としての、確かな響きに戻っている。
「もし、事業の発表の後にその有害性が発覚したとしたらどうなるだろうね?」
その問いは、向かいにいるキース様に向けられている。
「そうですね。王家の信用は地に堕ちて、推進を主導する立場にあるルーク殿下は何かしらの責任を問われることになるかと」
「だろうねえ」
淡々と告げられた事実。そこに、重く恐ろしい結末が透けて見えた。
(もし誰も気づけなかったら……)
お腹がすっと冷えていく感じがして、わたしは思わず手を重ねてしまった。
「リリーベル殿下のおかげで事前に手を打つことができますね」
「ああ。違う染料が同じルートで流通している可能性は考えなかったな……僕ももっと精進しなければね」
ルーク兄様とキース様は、いつもの調子なのかさくさくと話を進めていく。
二人の中では有害性については『ある』方向で話が進んでいる。
「まあその場合、父が知らなかったはずがありませんが」
「はは、彼が認めるわけがないだろうね。頭が痛いな」
二人の視線が険呑な光を帯びている。
(ええと、この場合は二人はヴィンターハルター侯爵の話をしているのかな?)
キース様は特にこわい顔をしている。怒っているような、そんな顔。
「ともかく、妃殿下の診察は急ぐ。マルグリット殿下の体調を、このまま放置はできない。リリー、対処としては早い方がいいんだろう?」
「は、はい。早期であれば皮膚や臓器へのダメージは少ないかと」
「うーん、今から行こうかな。ちょうど手すきだ」
ルーク兄様が立ち上がる。その決意は、迷いを一かけらも含んでいない。
兄様の治癒魔法は特別な力だ。けれどすべての病を癒せるわけではない。
(確か、小説では末期症状の病や欠損については対応できなかったはず)
それで、治癒魔法を持ちながらも大勢の人を救えなかったことに苦悩してしまうのだ。
「マルグリット妃殿下になにかあったら、弟が悲しんでしまうからね」
短い言葉だった。けれどその中には兄弟としての想いが、確かに存在している。
ローラント兄様とは確執があった。だけれど、それぞれと交流するようになってふたりの距離も縮まったように思う。
「さあ、急ごう」
「はい、ルーク兄様!」
その言葉の重さに、わたしも強くうなずいた。




