10 原作のヒロイン②
移動したのは、孤児院の一角にある薬草の保管庫。
薄暗い部屋には、わたしが調合して納めた乾燥薬草が棚にずらりと並んでいる。
すうっと鼻をかすめる香りが心地好くて、ここに来ると心が落ち着く。
「以前、心配していただいていた……母の容体のことなんですけれど」
アデリナは胸の前でそっと両手を重ねた。
その緑の瞳には希望が宿っている。
「もうすっかり良くなりました! リリー様が特別な治療について提案してくださったおかげです。本当にありがとうございます」
アデリナは深々と頭を下げる。
原作の始まりはアデリナの母親の死去から始まる悲劇だ。ポルシェ子爵家に来た継母と義妹によって、アデリナは辛酸を舐めることになるんだもの。
(……未来が変わったのかしら)
子爵夫人が快方に向かっていることは以前キース様から聞いて知っていた。それでもやはり、こうしてアデリナ本人から聞くことで実感が大きくなる。
思わず胸に手を当てた。
言葉より先に、こみ上げる嬉しさが体を震わせる。
「それは、本当によかったです。わたし……」
声が少しかすれた。涙が滲むのをごまかすように唇を噛む。
「お役に立てていたなら……こんなに嬉しいことはありません」
「ふふ。リリー様はとてもお優しいですね」
そう言ってアデリナが微笑む。
その笑みが、柔らかな日だまりみたいに優しくて。何か変えることができたということが、嬉しくて。わたしは胸がいっぱいになってしまった。
「それでですね、元気になった母は子爵領に戻るって言っていたんです」
「それは良かったですね」
確か子爵領は東部の方だった。そこまで元気になっているなら、とても喜ばしいわ。
そう安堵した矢先。
「父を殴るそうです」
「…………へ?」
「浮気者って、一発お見舞いするつもりみたいで。あはは」
にっこり、太陽のような笑顔で言い放つアデリナ。
わたしは間の抜けた声しか出せなかった。
「え、えっと……大丈夫……なんですか……?」
「大丈夫です。母は腕っぷしが強いので!」
(そういう心配じゃないと思うんだけど……!?)
あまりに屈託なく笑うものだから、全力でつっこむこともできず、わたしはただ目をぱちぱちさせるばかりだ。
(そうよね、あんなに大きな義妹がいるんだもの。浮気はもっと前から行われていたはずね)
エリスと呼ばれていたアデリナの義妹。不貞の子であれば、もう生まれているし育っている。うん。
アデリナのお母様が元気になったことで、彼女が浮気の事実を知った後の展開が変わったのかもしれない。きっと病床に伏していた彼女は、夫を殴ることはできなかったはずだもの。
「……詳しくはわからないですが、浮気男を殴ったらスカッとしそうですね」
「リリー様もそう思いますか⁉︎ 私もお母様にはがんばってほしいと思っています。本当なら私も加勢したいくらいですの」
「ええ、滅びてほしいですね」
「本当に。父がそんな人だって分かって良かったです」
わたしとアデリナは、子爵夫人が子爵をぶっ飛ばす様子を想像して、お互いに笑い合った。
小説で読んだようなあの不幸な未来は、アデリナには訪れない。
そんな風に思えて、どこか心が軽くなった気がした。
笑いすぎて頬が熱くなり、しばらくしてようやく呼吸が整ったころ。
「ところで、リリー様」
アデリナが首を傾げた。
「子どもたちも言っていましたが、キース様はどうされたのですか? 前はリリー様にひっついて……いえ、護衛をしていたように思うのですが」
「あ、ええっと……」
その問いかけに、わたしは慌てて視線を逸らす。
途中ごにょごにょとなったところは、よく聞き取れなかった。
「なにかとお忙しいのだと思います。わたしもあまりお会いしていないので」
「そうなのですね」
アデリナさんは、にこにこと柔らかい笑みを浮かべたまま――さらりと言った。
「私、リリー様たちは将来を誓った仲なのかしらと思って見ていたのですけど」
「えっ⁉︎」
間の抜けた声が出た。
笑顔が崩れ、背筋がぴんと伸びる。
「だってキース様って、リリー様を見つめる瞳がとてもお優しいんですもの。他の方とは明らかに違っていて。まるで恋愛小説に出てくる主人公たちだわと思っていましたの」
言葉を重ねるほど、アデリナさんの笑みは明るさに満ちていく。恋愛小説が好きらしい。
「それは違います! キース様にはきちんとした婚約者もいらっしゃいますし――」
わたしは喉がきゅっと詰まるのを感じながら、ぽろりと口にしてしまった。
わたしとの婚約話は正式になくなっているのだし、噂もほとんど正しいと思う。
泉が見せたリリーベルは、キース様との婚約を切望していた。その夢を見て、原作の世界でも隣国の王女とキース様の婚約が噂になったことをわたしは先に知ったのだ。
本当にあれから、城内ではその噂で持ちきりになった。
わざと私に聞かせようとする人たちがいるのも感じる。
「……へえ?」
アデリナさんの笑顔の奥に何か、黒いものが一瞬ちらついた。
般若。前世のあれだ。あのこわいやつ。
そう形容したくなるほど、鋭くて恐ろしい気配が波紋のように広がった。
「まあ……それは意外ですねえ」
でもすぐに、いつもの柔らかな微笑みに戻った。
声は優しいまま。けれど、空気の温度がほんの少し下がったような気がする。
「……父と同類ということかしら……いえきっとなにか事情がおありなのでしょうね、そうでないと」
なにやらアデリナが呟いているが、細かいところは聞き取れない。『父』と聞こえたから子爵の話だろうか。
「アデリナ様?」
「……あっ、ごめんなさい。リリー様の貴重なお時間をいただいてしまって。そろそろ次のお仕事がありますよね」
「えっ、あ……はい! そうですね!」
慌てて立ち上がる。そういう設定だった。そろそろロザリナたちが心配してしまう。
「寒くなる前にまた薬を持って来ますね。アデリナ様もお体に気をつけてください」
「はい。リリー様も、お気をつけて」
アデリナの微笑みに見送られ、わたしは荷物を抱えて早足で孤児院を後にした。




