03 もうすぐ十七歳③
胸の奥が落ち着かないまま、わたしはルーク兄様の執務室の前に立っていた。
(深呼吸、深呼吸。きっとただの連絡事項よ)
こつん、と扉をノックすると、すぐに中から声が返ってくる。
「入りなさい」
扉を開けると、整然と整えられた室内に、澄んだ紅茶の香りが漂っていた。
窓辺の光を受けた木製の机は磨き込まれて艶やかで、壁際にはずらりと書類棚が並んでいる。
そして、部屋の中央にはルーク兄様。
机に向かっていた手を止め、ゆっくりとこちらへ向き直る。
「来たか、リリーベル」
「ルーク兄様、おはようございます。お呼びとのことで、失礼いたします」
緊張で固くなった声。
わたしはスカートの裾をそっとつまみ、丁寧に一礼した。
そのすぐ側にはキース様が控えている。
「リリーベル様、おはようございます」
「おはようございます!」
静かな声で丁寧に頭を下げられ、思わず慌てて会釈を返した。
「そこに座りなさい」
ルーク兄様が小さく目配せをしながら、応接用の長椅子を指し示した。
深い紺色の布張りが施された長椅子は、背筋が自然と伸びてしまうような品格を漂わせている。
「はい」
促されるままに、そっと腰を落とす。座面はほどよく柔らかく、それでいて身体を包み込むような安心感がある。けれど、空気は一切ほぐれない。
中央の机のところにはルーク兄様がいて、キース様がその隣に立ったまま、真っ直ぐにこちらを見ている。
二人とも眉ひとつ動かさず、ぴくりとも笑わない。
朝の光さえ張り詰めて見えるほど、室内には厳かな緊張が満ちていた。
(え、ええと……何、この重厚な雰囲気……? 重大な報告かな……?)
もしかしたら、生死に関わるようなことかもしれない。
両手を膝でぎゅっと組み、呼吸を整える。ルーク兄様は視線を逸らさぬまま、静かに口を開いた。
打ち解けられたと思っていたけど、気のせいだったかもしれない。
あまりにも緊迫した空気に手元を見つめながら息を整えると、視界の端でキース様とルーク兄様が目配せを交わすのが見えた。
キース様がテーブル脇の小さなベルを指で軽く叩く。
リィンという澄んだ音が、水面に落ちる石のように室内全体へ広がった。
「「失礼致します!」」
数秒後、扉が開き、次々と給仕が入ってくる。
その手に抱えられていたのは、タワー型のお皿だった。
五色に輝くフィナンシェ、果実の詰まったタルト、煌めく砂糖をまとったクッキー、香り豊かなパウンドケーキ、チョコレートの盛り合わせ。
呆然と目を瞬いていると、給仕たちは手際よく並べ終わり、静かに退出していった。扉が閉まると、部屋の中には甘い香りだけが残される。
「あ、あの……ルーク兄様……?」
恐る恐る視線を上げると、兄様はごく自然な顔つきで頷いた。
「好きなものを食べなさい」
真剣な空気のままお菓子に囲まれる状況に、思考が完全に停止する。
前もこんなことがあったような気がする。どういうことか、ルークお兄様にはわたしが小さい子にでも見えているのかもしれない。
十五歳になるまで全くと言っていいほど関わりのなかったルーク兄様とは、徐々に距離を縮められているとは思うものの。なんだかお菓子を勧められることが多い気がする。
「はい……いただきます……?」
「ルーク殿下。リリーベル様もおひとりでは食べにくいのでは。同席されてはいかがですか」
「そうだな。ではキースも座りなさい」
なぜだか、三人でテーブルを囲む形になってしまった。
向かいにルーク兄様、隣にキース様。目の前には、小山のように盛られた焼き菓子の塔。
(まあ、いいか。せっかくだし食べようっと!)
頭の中が追いつかないまま、わたしはフィナンシェをひとつ摘まんだ。
ここは考えても仕方がない。
口の中でしっとりと溶けていくバターとアーモンドの香りが、緊張で鈍っていた感覚を溶かしてくれた。続いて、果実の甘酸っぱい香りが広がるタルト、香ばしいパウンドケーキ。どれも丁寧に作られている。
「宮廷菓子職人の新作だそうだ」
「そうだったんですね……! 本当に美味しいです」
ルーク兄様の言葉に、自然と頬が緩む。
「そういえば、エーファ様のお菓子も久しぶりに食べたいですね。あのレモンケーキが忘れられなくて」
キース様の妹であるエーファ様はツンデレ令嬢でとてもかわいらしく、お菓子作りも得意なのだ。
物語では悪役令嬢として出てくるのだけれど、接してみたらただ少し癖が強いだけで、とても素敵な方だった。
「エーファはリリーベル様がお望みと聞けば、すぐに作って持ってきそうですね」
「ふふふ、とってもお優しいですものね」
キース様の穏やかな声に、わたしは小さく頷いた。
テーブルの上には甘い香りが満ちていて、ほんの少しだけ張り詰めていた空気が緩む。よくわからないが、お菓子パーティーに呼ばれたのかもしれない。
そのとき、ルーク兄様がわずかに目を細めた。
「本題の前に。ローラントがリリーと呼んでいると聞いたが」
「えっ、はい」
不意に名前を呼ばれて、肩がぴくりと跳ねた。
「ならば、僕もそう呼んでもいいだろう?」
静かに、けれど揺るぎない声音だった。柔らかな笑みを向けられているのは、本当にわたしで合っているのだろうか。
喉の奥が熱くなって、言葉を返すまで、ほんの一瞬だけ間が空いた。
「もちろんです! わたしも……兄様たちがそう呼んでくれたら嬉しいです」
そう口にした瞬間、ふわりと胸の奥が温かく満たされる。
不安ばかりだった毎日が、やわらかくほどけていくような感覚だった。
ルーク兄様も、わずかに表情を和らげたように見えた。




