36 正ヒロインを探せ②
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ひっそりとした裏通りに、古びた教会の陰を借りて、わたしとキース様は身を潜めていた。
緊張に汗ばむ手をぎゅっと握りしめながら、わたしは建物の正面扉を見つめる。
錆びた鉄製の門扉。蔦の絡まる壁面。
風に揺れる掲げ札には、「聖エレーナ孤児院」とかすれた文字が浮かんでいる。
「リリーベル様。……こうして物陰に隠れるのは、何か理由があるのですか?」
「しっ、もうすぐです!」
思わず口をとがらせて、キース様を制した。
彼は横で腕を組み、わたしの隣に立ったまま、微妙に困ったような、そしてやや訝しげな表情を浮かべていた。そりゃそうですよね。
でも、今日だけはどうしても見ておきたかった。小説のヒロインであるアデリナが、よく訪れていた場所。
本当にここに来るのかも、何時に来るのかもわからない賭け。それでも、実在する孤児院に緊張が高まる。
(この辺りに来るはず……あっ!)
胸の奥が、跳ねた。
通りの先から、控えめな茶色の髪に、薄緑のワンピースを来た若い女性が歩いてきた。両手に小さな包みを抱え、一歩一歩、大切そうに踏みしめてくる。
「アデリナだわ……!」
わたしは小声で叫んでしまっていた。
挿絵で見た姿にそっくり。いや、それよりは少し幼いが、可憐で庇護欲をそそるような愛らしさを遠目でも感じる。それでも、そこにヒロインがいる。
ルーク兄様たちだっているのだから当たり前なのだけれど、やっぱり不思議な気持ちになってじわじわと感動が巻き起こる。
キース様が静かにまばたきをして、彼女に視線を向けた。
「……あの女性と面識がおありですか?」
「い、いえ……わたしは……ただの、ちょっと……勝手に知っています」
わかっている。ぜんっぜん説明になってない。
離宮にこもって暮らしていたわたしが、子爵令嬢と面識があるはずもない。
扉を叩く音が小さく響き、年配の修道女が姿を見せた。アデリナが何かを手渡し、修道女は少女に頭を下げて、微笑む。
優しい空気。静かなやり取り。わたしの心の奥で、何かがじんわりと熱くなった。
「リリーベル様。……あのご令嬢に会うために抜け出したのですか」
「……はい。大切な方なので」
「そうですか」
ようやく絞り出した答えは、キース様の疑念をぬぐうにはあまりにも弱々しかったかもしれない。
でも彼は、それ以上なにも問わなかった。ただ少しだけ視線を落として、腕を組んだまま、アデリナの後ろ姿をじっと見ている。
視線は静かで、どこか鋭い。考え込むように片手を口元に当てている様子は、いつもの冷静な彼そのものだった。
(……やっぱり、アデリナのことが気になるのかな)
だって、あの子が小説の正ヒロインなんだもの。
誰もが思わず目を惹かれるような雰囲気を持っていて、たしかに、あれだけの存在感なら……。
今の彼女は仮面舞踏会にも出ておらず、王子と恋にも落ちていない。母親を亡くしておらず、継母と義妹が家に入り込んでもいない。
わたしは、そっと胸元に手を当てた。わたしの行動が彼女の運命も変えてしまうかもしれない。
(それでも、わたしは……)
孤児院の前に立つ。
目の前の扉は、古びているけれど丁寧に磨かれていて、きっと子どもたちが一生懸命に手入れしているのだとわかった。意を決してノックすると、コン、コン、と小さな音が響いた。
すぐに中から足音がして、古びた扉がきしむ音を立てながらゆっくり開く。
そこに現れたのは、アデリナだった。
整った可憐な顔立ちと、やわらかなまなざし――間違いなくわたしはヒロインと対峙している。
「この孤児院に何かご用でしょうか?」
穏やかな声に、思わず胸が跳ねる。
「あのっ……急にすみません。わたし、王都で薬草の勉強をしているリリーベ……リリーと言います。最近、余剰分が出るようになったので、もし必要としていただける場所があれば……と思って」
わたしは抱えていた籠を少し持ち上げるようにして見せた。
するとアデリナは、驚いたように目を見開いたあと、ぱっと表情をほころばせる。
「リリー様。私はアデリナと言います。薬草をいただけるなんて本当に、ありがたいですわ。最近、風邪をひく子も多くて。あまり備蓄がなくて困っていたところなんです」
「よかった……」
自然と、肩の力が抜けた。
緊張で固まっていた笑顔も、ようやく素直なものに変わる。
「リリー様とそのお連れ様。どうぞ、お入りください。こちらでお預かりしますわ」
その所作のひとつひとつが、どこか育ちの良さを感じさせる。
(……さすがヒロイン。品があるし、優しい)
子どもたちが遊ぶ中庭を通り抜けながら、わたしはふと、アデリナの手が子どもたちの頭にそっと添えられるのを見た。
その優しさがあまりにも自然で、胸がきゅっとなる。
(……この人なら、王子様たちの心を動かすのも、わかる気がする)
その聖母のごとき優しさで、やさぐれた王子ふたりの心を溶かすのだ。さすがである。
「こちらが、薬草をしまっている棚です。乾燥剤も少しあって……でも、数はあまりなくて」
「そうなんですね。今回お持ちした分は消毒用と咳止め、それと湿布にも使えるものを交ぜてあります」
そう言って、わたしは木箱の蓋を開け、包みの中身を一つずつ見せながら説明した。
アデリナは真剣な顔でうなずき、メモのようなものを取り出して書き込んでいく。
「薬草に詳しい方がこうして来てくださるなんて……ありがたいことですわ。母が昔は少し薬の心得があったのですが、最近は体調がすぐれなくて」
「……お母様のご体調、ですか?」
さりげなく尋ねると、アデリナはペンの動きを止めて、小さくため息をついた。
「ええ。あまり食欲がなくて、少し熱っぽい日が続いていますの。無理をして出歩くと咳も出ますし……ずっと気になっていて」
胸の奥がざわつく。小説の中で亡くなったアデリナの母。彼女の死因は感染症だと明記されていた。
急がなければ。今ならまだ、間に合うかもしれない。
「それに、少し変な話なのですが……」
アデリナはなにか思い出すように、言葉を絞り出す。
「変、ですか?」
「ええ。最近、母の部屋に入ると……なんとなく、花の香りがするんですの。ほんのり甘くて、まるでお菓子か、薬草のような……。咳き込んだときに、ふっと香るような感じで」
「……!」
わたしは思わず息を呑んだ。
(花のような甘い香り……それも、喉の奥から。それって……!)
それは、ごく稀にしか現れないが、ある特定の感染症に見られる兆候だった。
この国ではほとんど知られていない。けれど、少し前にキース様が取り寄せてくれた隣国の医学書に、はっきりと記されていた記述。
真菌由来の肺疾患――『グリス肺炎』。
喉から放たれる甘い香りが、初期症状として観察されることがある。
書中でも「香りの花」と揶揄されるほど、独特な発症サインだ。
(まさか……こんなかたちで)
胸の奥がざわめく。夢と現実、そして医学の知識が線でつながった感覚がした。
隣を見れば、控えていたキース様が静かに歩み寄ってくる。
そして、わたしと視線が合った瞬間、わずかに目を見開いた。
一緒に学んでいた彼も。きっと、同じことに気づいたのだ。
「アデリナ様。よければ、この咳止めの包みをお渡しします。それと、症状が続くようなら、お医者様にも早めに相談されたほうがいいかと」
「まあ……ありがとうございます。助かります」
アデリナが微笑んで頭を下げるのを見て、思わず頬が緩む。
「それじゃあ、今日はそろそろ……あっ」
くるりと身を返したところで、声が飛んできた。
「ねえ、ねえお姉ちゃん、いっしょにあそぼ!」
無邪気な声と共に、小さな手がわたしの袖を引いた。
気がつけば、何人かの子どもたちがわたしのまわりに集まっている。
「ねえ、さっきの白い葉っぱの話、もっとききたい! このまえせきでねむれなかったの!」
「わたしも、おくちにあまいおくすりがいい!」
どうやら、アデリナに説明していた薬の話を子供たちも聞いていたらしい。
「ちょ、ちょっと待って、みんな……!」
わたしがあたふたしていると、アデリナが笑いながら言った。
「ふふ、ここの子たちは薬草に興味津々なんですの。きっと、リリー様の説明が楽しかったんですわ」
「そ、そうなんですか……?」
視線を向けると、キラキラした目がいくつもこちらを見ている。
わたしは思わず笑ってしまった。
「じゃあ……少しだけ、お話しますね。咳が出たときに効く薬草にはね……」
「お姉ちゃん、これなあに? お鼻にかいだら、くしゅんってなる!」
「これはね、ペパーミントって言って――あ、あんまり近づけると、目にしみるかも!」
「もっと草の話して〜!」
くるくる回る小さな手と、大きな目。
リリーベルとして、子どもたちとこうして笑い合うのは初めてで、くすぐったいようなあたたかさが胸の中に残った。
けれど、帰り際はやってくる。
「みんな、さようなら。お薬の話、今度もしに来るね」
「やくそくー!」
手を振る子たちに見送られながら、わたしは門を出た。その隣には、何も言わずついてきていたキース様がいる。通りに出ると、午後の陽射しが石畳に反射して、まばゆい光を跳ね返していた。
角を曲がれば、乗合馬車が出る広場まではもうすぐだ。




