02 お兄様
視線を上げると、薄暗い天井が目に映った。
豪華なシャンデリアはなく、代わりに煤けたランプが天井の隅にぶら下がっている。重たそうなカーテンはきちんと閉められておらず、わずかに差し込む光が室内の様子をぼんやりと照らす。
顔を横に向けてみたら壁紙は古びたもので、端が少し剥がれかけているのがわかる。
ベッドだって、王女のものにしては驚くほど質素だ。毛布は薄く、シーツにはわずかにしみが浮いていた。さらに視線を巡らせると、部屋の隅には小さなクローゼットと、机と椅子がぽつんと置かれている。
机の上には埃がうっすら積もっていて、誰も使っていないことがすぐにわかる。
(これが……王女の部屋なの?)
絵本や物語の幸せな王女様の部屋からはとてもかけ離れている。
わたしはごくりと唾を飲み込んだ。どこか冷たく湿った空気が肌にまとわりついてくる。まるで、ここだけが時間に取り残されたようだった。
(ナレ死で退場するリリーベルが、そもそもこんな風に冷遇されていたなんて聞いていないんですけど!)
挿絵のリリーベルは確かに少し儚げだった。今思えば半分見切れていた気もする。
(ヒロインは報われてハッピーエンドになるというのに、リリーベルの幸せはどこにもなかったってこと……?)
そんなの、おかしい。わたしの心は荒ぶり続ける。
そういえば。泉に落ちたときの記憶で、リリーベルは諦めたような気がする。
水の中で手足を動かすのをやめ、すっと目を閉じたのだ。
この世に未練がないのかもしれない。どうしてだろう、まだ十五歳なのに。
(でも……わたしは生きたい……前世の分も、ちゃんと)
やりたいことがたくさんあったのに、病であっさりと死んでしまった。
それなのに、またしてもあっさりと死んでしまう王女になってしまうなんて。
(ううん、今からでも何かできるはず! 今世は絶対に死にたくない)
そう強く決意する。そして、リリーベルの運命を変えることで、ちゃんとリリーベルとしても幸せを掴みたい。
「はあ、はあ、……まずは、熱を下げなきゃ……」
まずはこの風邪を治さないことには対策の立てようもない。
熱が下がったら、食事くらいは要求しても問題ないよね。魔法だって練習したら上手くなるかもしれない。
「ぜったい、まけないんだから……」
息も絶え絶えにそう決意したとき、扉の向こうから足音が近づいてくるのが聞こえた。
「……で……ます」
話し声も聞こえる。それに、足音がいくつかあることから、侍女が一人で来たわけではなさそうだ。
聞き耳を立てていると、足音は部屋の前でピタリと止まる。
「申し訳ありません、殿下がた。お部屋の中はまだ整っておらず……」
「『まだ』とはどういう意味かな?」
侍女らしき声に、冷ややかな声音の男性が問い返している。
「リ、リリーベル様はお休みになっております。高熱で意識も朦朧とされていて、きちんとしたお支度も整っておりませんし、お見せするのは少々憚られます……」
「何を言っている。僕はその妹の容態を確かめるために来たんだ。扉を開けなさい」
「ですが……!」
聞き覚えのある侍女の声は、必死に食い下がっているように思えた。
(今、殿下って言ったよね……?)
殿下という敬称がつくとしたら、王子である兄たちどちらかだ。
つまり扉の向こうには兄が来ている。なぜなのかはまるでわからないけれど。
「でしたら、準備を整えるお時間を少しいただければと……! 姫様の身支度をいたします」
侍女はなんとか、お兄様をこの部屋にいれないようにしようとしているみたい。
やはり先程の少量の水では喉は潤わなかったようで、また渇きに襲われる。
(なぜお兄様が……? せめてもう一度、お水を……)
そう思ってわたしはなんとか水差しを掴もうとする。
「あっ!」
だけれど、熱のせいでそれを上手く掴むことができなかった。
水差しは手から滑り落ち、床にぶつかってガシャンと大きな音が出てしまった。
その瞬間、扉が迷いなく開かれた。
そこにはいつも意地悪をしてくる侍女のエマと共に、ルーク兄様たちが立っている。
「……リリーベル、これは……」
ルーク兄様の青い瞳が、微かに揺れる。
彼らがこうしてわたしの部屋を訪れるのは、初めてだった。そうリリーベルの記憶が告げている。
幼い頃から一緒に過ごす時間は少なく、形式的な会話を交わすことがほとんどだったようだ。
お兄様は驚いた顔をして、部屋の様子を素早く観察している。
わたしは汗に濡れた髪をあわてて手ぐしで整えて、乱れた上掛けをとんとんと手でならした。少しでも整えておこうと思ったのだけれど、ルーク兄様の眉は余計訝しげに歪められただけだった。
「この部屋に、このリリーベルの姿。これは、一体どういうことだ?」
低く響く声は、いつもの穏やかな口調とは異なっている。
わたしはパチパチと瞬きをしながら、その人を眺めた。
ルーク・デリック・グーテンベルグ。
この国の王太子であり、金髪碧眼のまさに絵に描いたような王子様がそこにいる。
その端正な容姿と聡明な頭脳、誠実な人柄で国民の信頼を集めているが、リリーベルとは決して近しい兄妹とは言えなかった。
(ええと。ルーク兄様の立ち位置は……)
小説におけるヒーローの一人。
王太子という重責を担いつつ、いつもは笑顔で執務をこなす完ぺき人間。
でもその実、心安らげる場所を探していて、心優しいヒロインと出会って溺愛していくというキャラクターだ。正統派でとてもいい。
ぼおっとしながらそんなことを考えていると、お兄様の隣に立つ人物に目を奪われた。
(兄様のご友人のキース様だわ……ん、キース様って、あれ……?)
濡れ羽色の髪に黄金の瞳をもち、張り詰めたような冷たい雰囲気を纏う彼は、まるで闇夜の王のようだ。というか、実際にそんな描写があったような気がする。
そしてその二つ名の通り、このキース・ティム・ヴィンターハルター侯爵子息は、同小説での悪役ポジションであることを思い出した。
(……でも、わたしの推しだったんだよなぁ)
わたしはキース様をじっと見つめる。
ルーク兄様と友人である彼が、敵対するほどに闇落ちしてしまうのは、一体何故だったっけ。わたしは必死に小説のことを思い出す。
キース様はヴィンターハルター侯爵家の嫡男。それで、小説では妹をないがしろにする王子たちに憤って政敵として暗躍し、破滅の道をたどるというキャラクターだった気がする。
(ちょっと待って、だったらキース様の妹のエーファ様が悪役令嬢ということなの……かな?)
悪役令息の妹なので、もちろん(?)悪役令嬢である。そしてそのエーファ様はお兄様たちの婚約者候補筆頭だった気がする。
そうだ、お兄様たちがヒロインを見初めた後、なんやかんやと嫌がらせを繰り返したせいで、最後には家門ごと断罪されてしまうんだよね。
まあ、リリーベルの死後の話なのだけど。
「……どうかされましたか?」
「……っ!」
あんまりにも見過ぎていたからか、今のキース様の表情は、冷酷というよりは苛立ちをはらんでいるような気がして思わず目をそらしてしまった。こ、こわい。