34 ヴィンターハルター侯爵邸③
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それから週が明けて最初の日。わたしは数日ぶりにキース様の執務室にいた。
お茶会の日から数日は侯爵家がなにかとバタバタとしたらしく、登城すらしていないとルーク兄様が言っていた。
その期間わたしは図書室で勉強をしていたのだけれど、キース様に声をかけられ、こうしていつもの勉強会が開催される運びとなったのだ。
静かな部屋に、羽根ペンが紙の上を滑る音だけが響いている。
「リリーベル様」
ふと、隣から優しい声が届く。
「先ほどから随分と真剣なご様子ですが、そろそろ休憩になさってはいかがですか?」
「……あっ、はい。すみません、つい夢中になってしまって」
顔を上げると、キース様が紅茶を淹れてくださっていた。いつの間に、と驚くよりも先に、湯気の立ちのぼる香りに、少しだけ肩の力が抜ける。
勉強会も何回も開催されているうちになれてきて、キース様はなぜか紅茶まで淹れてくださるようになった。すごい。
「ありがとうございます、キース様」
恭しく差し出されたカップを受け取り、口をつけようとした時、ふと思い出した。
「そういえば……。先日のお茶会のことですが。何かわかりましたか……?」
わたしはおそるおそる尋ねる。
あのときポットの中身を確認したキース様は、その毒についての見解を述べていた。わたしが着ていたドレスも回収され、調査をすると仰っていたのだ。
(エーファ様の健康に問題がなくてよかったけれど……)
それでもモヤモヤとしたものが心に残る。だって夢のあれは、偶然などではなかったはずなのだ。
誰かがエーファ様の健康を害しようと企んでいたことは明らかだ。
「ええ」
キース様は落ち着いた仕草で自分の紅茶に砂糖を入れながら、静かに頷いた。
「使用されていたのは、あのとき言ったとおり、エルダーフラワーという花が原料のブレンドでした。香りや効能自体は優れていますが――」
「問題は、葉や未熟な実を使ってしまった場合、ですよね」
わたしが言うと、キース様の金の瞳がわずかに細められた。
「……そうです」
先日の一幕が気になって、わたしも調べていた。
エルダーフラワーは、正しく扱えば優れた効能をもつ素敵な植物だ。でも、間違えると毒になる。本当に、薬も毒も扱い方次第ということ。
思い出すのは、前世と今世で調べたハーブの数々。眠れぬ夜にこっそり本を読み漁った記憶が、あの夢と共にわたしの中に積もっている。
「リリーベル様。あれは、わざとなのではありませんか?」
キース様がふいに呟くように言った。
顔を上げると、彼はカップを手にしながら、こちらをじっと見つめていた。
「……何のことでしょう?」
「リリーベル様が、あの場で紅茶をこぼされたことです。おかげで、エーファもあのお茶を口にすることはありませんでした」
ドキッ、と胸の奥が跳ねた。
「ま、まさか。わたしが不器用だっただけです」
へらりと、笑ってごまかした。けれど、視線をそらすことはできなかった。
キース様の目は、まるで何もかもを見透かしているようで、怖いくらいに優しい。
それでも、これでよかったのだ。あのとき、エーファ様がお茶を飲まずに済んだのだから。
「そうですか。ではそういうことにしておきます。殿下がご無事で何よりでした」
「いえ……わたしもせっかくのお茶会を台無しにしてしまって申し訳ありません」
いくら夢で見たとはいえ、やり過ぎじゃないかと思ったり。だけれど、その感謝の言葉で救われたような気持ちになる。
「リリーベル様にはお伝えしておきたいのですが」
「?」
「あのお茶を用意した使用人は、雇われたばかりの新人でした」
「そうなのですね。失敗は誰にでもありますもの」
「侯爵令嬢と王女殿下の身を危険に晒した咎で、すでに処理しています。このたびは本当に申し訳ありませんでした」
「……!」
淡々と話すキース様の言葉に、心臓を掴まれたような気持ちになる。そうだ、わたしには身分がある。
わざとでもそうじゃなくても、毒だったことに変わりはない。
「リリーベル様はお優しいですね」
唇を噛みしめていると、キース様の声が降ってくる。それにどう反応したらいいか分からなくて顔を上げると、なぜだかキース様の方が苦しそうな顔をしているように見えた。
「リリーベル様、この後なにかご用事がありますか?」
切り替えるような声色に、わたしは慌てて顔を上げる。
「いえ、特にありませんが……?」
明日は歴史とマナーの授業があるけれど、確か今日はもう自由時間のはずだ。
そう答えると、キース様は意味深に扉の方を見た。
「リリーベル様、突然のご訪問をお許しくださいませ!」
それから間もなく、ノックもそこそこに現れたのは、淡いミントグリーンのドレスに着替えたエーファ様だった。
両腕には丁寧に包まれたバスケットが抱えられていて、その中からはほのかに甘い香りが漂ってくる。
「先日のお茶会で、私の不手際によりご迷惑をおかけしてしまいましたので……お詫びに参りました!」
「えっ……そんな、お気になさらないでください……!」
思わず立ち上がって慌てて手を振るわたしに、エーファ様はにっこりと笑った。
「いいえ、私が納得できませんの。これは……ほんの気持ちですから」
そう言って、バスケットの中を丁寧に広げて見せてくれる。
ラベンダーの花びらがあしらわれたスコーン、ふんわりとしたシナモンの香り漂う焼き菓子、彩り豊かなサンドイッチ。どれもまるで宝石のように整えられていて、見ているだけで心が浮き立った。
「とても、きれい……」
思わず声に出すと、エーファ様が嬉しそうに頬を染める。
「でしたら……よ、よろしければ、庭園でご一緒にお食事を出来たらと思うのですけれど! まあ、無理にとは言いませんわ」
「ええ、いいのですか⁉ はい。ぜひ、ご一緒させてください!」
エーファ様が、少し早口になりながらも勇気を振り絞ったように言う。
その必死さがなんだか微笑ましくて、思わずわたしは勢いよく頷いていた。
窓の外を見れば、ちょうど陽の光が柔らかく降り注いでいる。風も心地よくて、外で食べるにはぴったりの気候だ。
嬉しさが抑えきれなくて、わたしはぐいっとエーファ様の方へ歩み寄る。
すると、彼女はびっくりしたようにぱちぱちと目を瞬かせて、頬をほんのり赤く染めた。
「……ふ」
そのやりとりを見ていたキース様が、ふいに笑った。
それは、ほんの一瞬だけ見せた――とても柔らかくて、温かい笑み。
無表情が基本のキース様が、そんな風に笑うなんて、わたしは初めて見たかもしれない。
嬉しさと驚きで、わたしの胸は一気に跳ね上がった。
そもそもキース様って、そんなに笑う人じゃないと思っていたのに……あんな風に、優しく笑うなんてずるい。
「どうかしましたか? リリーベル様」
「へ、へいきです! だいじょうぶです! わたし、とっても元気です!!」
語彙力が崩壊しかけたのをなんとか堪えながら、勢いで答える。
キース様が、すこしだけ不思議そうに首を傾げていた。
「それでは、兄様もご一緒してくださいますわよね?」
「……断る理由がないな」
キース様はすぐには笑わなかったけれど、それでもどこか口元がやわらかい。
こうしてわたしたちは、三人で庭園に移動することになった。
*
昼下がりの庭園には、春の香りを含んだ爽やかな風が吹いていた。澄んだ空気とともに、花壇に咲く色とりどりの花々がそよぎ、小さな噴水の水音が穏やかに響いている。
わたしたちは庭園の一角にある東屋に来ていた。
「せっかくの晴れ日ですもの。外での食事も悪くありませんわよね?」
エーファ様がにっこりと笑ってそう言ったのがきっかけだった。
もちろん、わたしも賛成だった。外で食べるごはんはおいしい
もっとも、わたし一人では、こうして王宮の中庭で食事を取る機会はなかっただろうから、やはりキース様とエーファ様のおかげだ。遠足みたいで楽しい!
「やっぱり、とっても美味しそうですね」
テーブルに並べられた品はどれも美しく、プロの料理人が作ったかのようだ。エーファ様の才能をひしひしと感じる。
「では、いただきます!」
花々に囲まれた静かな場所で、三人だけの昼食が始まる……と思ったのだけれど。
「やあ! 随分と楽しそうな食事をしているね」
「るるるっ、ルーク殿下⁉」
なぜだか、ここにルークお兄様がやってきた。
エーファ様はわかりやすく顔を真っ赤にして、キース様はどこか遠い目をしている。
外で見るルーク兄様の顔色は以前よりもずっとよくて、食事療法を続けてくださっていることが見て取れる。
「ずいぶん嬉しそうだね、リリーベル」
どうやらそのことが顔に出てしまっていたらしい。
ルーク兄様に言われて、わたしはハッと頬を押さえた。
「すいません、お兄様の顔色も良くて、こうしてみんなで仲良く食事を囲むのってなんだかとても楽しくて……!」
日差しもぽかぽかで、ごはんもおいしそうで、みんなも楽しそうだ。こんな日がずっと続けばいいなと願ってしまう。
(わたしの死亡フラグは、一体どこに転がっているんだろう)
それだけはまるでわからないが、泉が不思議な夢につながっていることだけは確信していた。だから、これからも毎日あそこで水魔法の特訓をするんだ。
そう決意して前を見たら、三人ともわたしのことをじっと見つめていた。
……なんだろう?
「リリーベル様、ど、どうせ暇でしょうから、わたくしがいつでもこうしてお茶をしてもよろしいですわよ⁉」
「リリーベル、欲しいものがあったらすぐに僕に言うんだよ? なんでも叶えよう」
「勉強はいくらでも付き合います」
「は、はい、ありがとうございます」
三人ともに真面目な顔でそう言われて、わたしは恐縮しながらお礼を言った。
そしてこれから、エーファ様とはちょくちょくお茶をすることになって、なぜだかいつもキース様もいて、お兄様も乱入することが増えたのだった。




