33 ヴィンターハルター侯爵邸②
「さあ、こちらへ。席の用意はもうできていますわ。その前に少し話したいこともありますの!」
そう言いながら、ちらりとわたしの方を見てから、ふいに目をそらす。
エーファ様はわたしをテーブルへと促し、椅子に腰掛けるや否や声をあげた。
「リリーベル様。貴女、わたくしも食事のことに関与していることをルーク様におっしゃいましたの⁉」
「は、はい。みんなで考えたことですから……」
なにかいけなかっただろうか。エーファ様とキース様とみんなで調べて、ちょっと楽しかったことは間違いない。
お兄様はキース様の見張りもあってしっかりと休憩を取るようになったらしく、身体の調子も良くなってきたとわざわざ離宮に訪ねてきて礼を言われた。
休憩時間の菓子のアイディアやレシピはエーファ様のものだ。まさか稀代の悪役令嬢がお菓子作り大好きなツンデレ令嬢だったなんて。
ギャップにもうわたしはやられてしまっている。そして、彼女が悪役になる小説の未来は、やっぱりなにがなんでも潰したいとさらに思っているのだ。
そんなことを思いながらエーファ様を見ると、彼女は怒ったように眉をつり上げている。ワナワナと指がふるえ、なにか言いたいことがたくさんありそうだ。
「ルーク様から、お礼の品が届きましたのよ!」
「お礼、ですか?」
「そうですわ! 『協力に感謝している』って、お手紙もついていましたのよ!」
「まぁ……それは、よかったですね……?」
「本当よ! とんでもないことだわ!」
身構えていたわたしは、その言葉で少し気が抜けてしまった。叱責されるかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
エーファ様の表情は、どこか誇らしげで、でもほんの少し恥ずかしそうだ。うん、とっても嬉しかったんだ。かわいい。
王妃の地位を目指す高飛車なお嬢様──小説ではそう描かれていたエーファ様だが、今はただ、年頃の女の子らしい気持ちを抱えているように見える。
「ルーク兄様のお役に立てたのなら、わたしも嬉しいです」
「……そんなこと言われると、調子が狂いますわ」
素直な気持ちを口にすると、エーファ様は少しだけ目を丸くして、ふいっと視線をそらした。
「せっかくですので、珍しい茶葉を仕入れましたの。お口に合うといいですけれど」
エーファ様が合図をすると、控えていた侍女たちが動き出す。淀みなく紅茶を淹れる様子はさすが侯爵家の侍女と行ったところだ。
そして、わたしは何気なく視線を周囲へと巡らせた。
(キース様はいらっしゃらないのかしら?)
どこかで扉が開く音がしないかと耳を澄ましつつ、テラスの奥や廊下の陰にちらりと視線をやる。
だけど、その姿はどこにも見えない。
わたしの様子に気がついたのか、エーファ様がふふ、と口元に手を当てて笑った。
「お兄様なら、本日は執務のためお席を外していらっしゃいますわ。珍しく、お父様からの言付けも仰せつかっているとかで」
「あっ……そうなのですね。失礼いたしました」
わたしは小さく首を傾げ、少しだけ残念そうに見えたかもしれない。
けれど、そのことを口にするのも気恥ずかしくて、そっと視線を紅茶へ戻した。
銀のポットから注がれた紅茶は、ふわりと甘い香りを立ちのぼらせる。花のような香りもして、とても素敵だ。
けれど、その香りに胸を突かれたわたしは、息を呑んでカップを見つめた。
頭の中に夢で見た光景が浮かんでくる。
侯爵家のお茶会。エーファ様。注がれた紅茶。
紅茶を口にしたエーファ様が咳き込み、苦しみだす――今朝見た夢の光景が、背筋を冷たく這う。
「さあ、冷めないうちに召し上がってくださいませ、リリーベル様」
エーファ様がそう声をかける横を、給仕の侍女が微笑みながら下がっていく。
(あの夢のことはよくわからないけど……でも、やるしかない!)
エーファ様がティーカップに手をかけた、まさにそのとき。
「――あっ!」
わたしは、わざとカップを倒すように手を滑らせた。紅茶の入ったカップがテーブルの縁から飛び、見事にわたしのドレスの裾へと紅茶をぶちまける。
「申し訳ありません、手が滑ってしまって……!」
「まあ、リリーベル様!」
驚いたように顔をあげたエーファ様が、慌てて立ち上がる。紅茶を飲むことなくテーブルに置いてくれた。
その動きに釣られるように侍女たちも騒然となり、テーブル周りが一気に慌ただしくなる。
「王女殿下のお洋服が……っ!」
「替えのお召し物を、急いで!」
わたしは慌てる侍女たちに小さく首を振り、なんでもないような微笑みを浮かべた。
「少し、手元が狂っただけですから大丈夫です」
わざとこぼした上に、火傷をしないように水魔法をこっそりと使ったから大丈夫なのだ。
「リリーベル! 大事はないか?」
ローラント兄様が駆け寄ってきてくれて、怪我の確認をされる。
あああそうだった、この場には兄様もいたんだった。
「大丈夫です! ぬるくなっておりましたので」
そう思って軽く頭を振ったとき、ふわりと視界の奥に黒い影が見えた。扉が開いた気配と共に、見覚えのある長身の人影が現れる。
「リリーベル様!」
低く抑えられた声がわたしの名を呼ぶ。キース様だ。執務中ではなかったの……?
「キース様……?」
そう口に出したときには、すでに彼はわたしの傍にいた。
しゃがみ込んで、紅茶で濡れた裾を確認するキース様の顔は、珍しく表情を強ばらせている。
「お怪我はありませんか?」
「申し訳ありません、マナーがなっていなくて。初めてのお茶会で緊張してしまいました」
そう言ってへらりと笑ってみせると、キース様の金の瞳が細く揺れた。
……あれ、どうして。そんな風に、見つめるんですか。
「この香り……」
ポットの横に添えられていた花びらと、ほんのり甘い香りにキース様の瞳が細められる。眉を寄せ、ポットに近づくと、すっと手を伸ばして蓋を開けた。中からはさらにふわりと花の香りが強く立ち昇る。
「エルダーフラワーか。葉や種の未成熟の部位には、体質によっては毒となる成分が含まれています。エーファ、これを口にしましたか?」
「え……? いえ、まだ口をつけていませんが」
「リリーベル様は?」
キース様に尋ねられて、わたしはブンブンと首を振る。この花の香りがする紅茶に、やはり何か問題があったみたいだ。
こっそりと胸をなで下ろし、それから顔をあげるとキース様と目が合った。
(な、なんでしょう……?)
「リリーベル様、お召し物に紅茶がかかっていたはずです。念のため、すぐに着替えを」
きっぱりとした声に、わたしがぽかんとしていると、キース様はわたしの肩にそっと手を添える。
「エーファ、リリーベル様に付き添ってもらえますか? このドレスも……成分が染み込んでいる可能性があります」
「え、ええ。わかりました。お兄様」
エーファ様はやや顔色を変えながらも、気丈に頷いた。
ふと見ると、わたしのドレスにこぼれた紅茶の染みが、先ほどよりも微かに赤みを帯びているように見えた。
「では、リリーベル様」
キース様がわたしを自然に抱きかかえようとした、その瞬間だった。
「待て」
低く、しかし威厳をもって響く声が、その場の空気をぴたりと凍らせた。
――ローラント兄様だった。
険しい表情のまま一歩進み出た兄様は、キース様の腕に手を添え、静かに制した。
「リリーベルは俺が運ぼう。侯爵子息の手を煩わせることではない」
その言葉に、場が静まり返る。
キース様は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに苦笑して手を引いた。
「……わかりました」
そう言って素直に引き下がるキース様に、兄様は短く頷いた。
そして、わたしの前にしゃがみこむと、柔らかな仕草でわたしを抱き上げる。
「ローラント兄様……?」
思わず戸惑いを隠せずに名を呼ぶと、兄様はわずかに目を細める。
「動けば染みが広がるそうだ。姫を守るのが騎士の務めだ」
それは護衛としての冷静な言葉だった。
だけど、腕の中に伝わる体温は、とても静かで、あたたかかった。
兄様に抱きかかえられたことで、恥ずかしさよりも不思議な安心感が胸に広がる。
(ローラントお兄様とリリーベルに、こんなあたたかな思い出はなかった)
ちらりと見ると、キース様がわたしを見つめながら、ほんの少しだけ、唇を引き結んでいた。
だけど何も言わず、ただ礼儀正しく一礼して、控えに回る。
エーファ様はそんな様子を見ながら、それでも心配そうに眉をつり上げた。
「どちらでも構いませんけれど、こちらに! 急ぎましょう」
「わかった」
わたしはローラント兄様に抱えられたまま、エーファ様の部屋へと運ばれていった。
そしてわたしはエーファ様が見守ってくださる中で彼女のドレスを借りることになり、なんだかとってもソワソワした。
着替えを借りたあと、肌や体調に異常がないことを侯爵家の医師に確認してもらったあと、わたしはローラント兄様と帰路についた。
「……こんなことになるとは」
「はい、ビックリしました。でも、エーファ様が無事で良かったです」
驚いたり心配した顔をさせてしまったけれど、彼女は最後まで夢で見たような青白い顔になることはなかった。それがとても嬉しい。
「……リリーベル、お前は……」
「どうしましたか?」
「いや、なんでもない」
何かを言いかけたようなローラント兄様は、そのまま口を噤んでしまった。




