32 ヴィンターハルター侯爵邸①
*
それから一週間が経った。
今日は目を覚ました瞬間から、少しだけそわそわしていた。夢見が悪かったこともあり、今日は早起きをした。なんとエーファ様から直々に侯爵家のお茶会に招待してもらったのだ。
「リリーベル様、お背中を失礼いたしますね」
ロザリナの声は落ち着く。
髪を梳かれる手つきも、着付けの動きも丁寧で、まるで大切な人形に触れるみたいにやさしい。あのエマに仕えてもらっていた頃とは、比べものにならない。
(エマ……あれから一度も顔を見ていない)
お兄様が下した処分の内容を、わたしは問いただす気にはなれなかった。ただ、もうあの人の顔を見なくて済む、それだけで充分だった。
「リリーベル様、とっても素敵です」
ベルネが丁寧にリボンを整えてくれて、ふわりとレースのスカートが揺れた。
白と淡いピンクを基調としたワンピースは、春の柔らかな日差しによく映える。
「これでご準備は完了ですわ、リリーベル様」
「ありがとう、ふたりとも」
鏡に映った自分にそっと微笑みかける。
よし、今日はちゃんとできる。そう胸に言い聞かせて、ドアノブに手をかけた。
(護衛騎士を手配するとルークお兄様が言っていたけれど、護衛がつくなんて初めてでなんだか緊張する)
扉を開けた瞬間、その場にいた人物を見て、わたしもベルネたちも思わず固まった。
「……え?」
廊下に立っていたのは、鍛え抜かれた体に黒い制服を纏った、赤髪の青年。
わたしの異母兄、第二王子ローラント兄様だった。
赤い瞳でまっすぐこちらを見つめると、ローラント兄様は少しだけ咳払いをしてから、無骨な声で言う。
「よう、リリーベル。今日はお前の護衛を任された。よろしくな」
「えっ……ローラント兄様が、ですか……?」
思わず聞き返してしまう。
隣で控えていたベルネも、ロザリナも、目を丸くしていた。
(う、嘘でしょう……!?)
だって、護衛って、騎士とか護衛隊の人がするものじゃないの?
よりにもよって、王子自ら護衛に来てくれるなんて、聞いてない。
戸惑うわたしに、ローラント兄様はむずがゆそうに髪をかき上げた。
「……ルークに命じられた。文句があるならあいつに言え」
「も、文句なんてありません! そんな、滅相もないです!」
慌てて頭を下げる。
ちらりと視線を向けると、ベルネもロザリナもどこか微妙な表情でわたしを見ている。
やはり、ローラント兄様がこの場にいるのはすごくすごーくありえないことなのだとわかる。
実は今朝も夢を見たのだ。でもそこに、ローラント兄様の姿はなかった。
だからこれは、元々の未来にはない展開なのかもしれない。
(でも……待って。そういえば――)
ふと、頭にぴかっと電球が灯った。
(小説で、アデリナの護衛をしていたのって、たしかローラント兄様だった……!)
そうそう、アデリナが心配だからってローラント兄様が護衛を買って出て、でも身分はローラント兄様の方が上だから当然アデリナもすごく戸惑っていたっけ。
小説のローラント王子は寡黙で不器用だけれど、誰よりもアデリナを気にかけていて、ひたむきに守ってくれていた。
最初はぎこちなくても、徐々に打ち解けていって――最終的には、すっごくいい感じになっていたはず。
(やばい、これはめちゃくちゃ尊い展開だわ)
思わず頬がにやけそうになって、あわてて手で押さえた。
いけない、いけない。今はそんな顔している場合じゃない。アデリナではなく、わたしに起きていることなんだから。
そう思うと、次第に顔が落ち着いてきた。
「では……よろしくお願いいたします、ローラント兄様」
「ああ」
短く答えると、ローラント兄様はわたしの一歩前に立ち、警戒するように周囲を見渡している。
まさかの展開にまだ胸をドキドキさせながら、わたしは小走りで兄の横に立った。
*
ヴィンターハルター侯爵邸は、王宮の中でもとりわけ格式高い建物で、少し離れた場所にあるそうだ。
外出するのは初めてだった。こうしてお茶会に招かれるのも初めてで、胸の内に小さな緊張が灯る。
小道を馬車で進みながら、何度も窓の外を眺めた。澄み渡る春の空の下、整えられた庭園の緑が陽に輝いている。
「リリーベル、緊張しているのか?」
ふいに向かいに座るローラント兄様が、わたしに声をかけた。
「あっ、いえ、大丈夫です!」
慌てて背筋を伸ばすと、兄様はふっと小さく息をついた。
「肩に力を入れすぎるな。……ヴィンターハルター侯爵家に行くのなら、なおさらだ」
それは忠告というより、どこかローラント兄様なりの気遣いにも聞こえた。
わたしは胸の内で小さく頷き、自分に言い聞かせる。
(うん、大丈夫。エーファ様は可愛い方だし、キース様もいらっしゃるもの)
執務室で数日一緒に食事の改善案を考えた。その時間はとても楽しくて、なんだか文化祭の準備をする高校生のような気分になったりした。
「……到着したようだな」
やがて、馬車が大きな門の前で止まる。
荘厳な装飾が施された黒い鉄門。その奥に広がるのは、まるで絵画のように手入れされた庭園と、白亜の大邸宅だった。
扉が開かれ、出迎えてくれたのは、落ち着いた制服姿の執事だった。
「ようこそお越しくださいました。リリーベル殿下。……! これはこれはローラント殿下。どうぞこちらへ」
「ああ、すまない。あくまでリリーベルの護衛騎士としてきたのだ。気にしなくていい。リリーベル、手を」
執事にそう断りを入れると、先に馬車を降りたローラント兄様に手を伸ばされた。わたしはその手を借りて降り立つ。それから案内されたのは、陽の光がたっぷり差し込むサンルーム。
壁の一面がガラス張りになっていて、美しい庭園を望める贅沢な造りだった。
先導する執事は終始チラチラとお兄様のことを気にしていて、わたしは心の中で強く頷いた。わかる。わかります。
「リリーベル様」
入室すると、エーファ様が豊かな黒髪を揺らして駆け寄ってきた。
「侯爵家へようこそ。フン、昨日の今日でいらっしゃるなんて、よっぽどお暇ですのね。……お、お会いできて嬉しいですわ」
最後は声が少し小さくなって聞き取りにくい。だが、ちゃんと聞いた。照れ隠しをするような高飛車な笑顔が逆にかわいくて、わたしも自然と顔がほころぶ。
「こちらこそ、お招きいただき光栄です、エーファ様。暇でよかったです、こうしてお茶会ができるんですもの!」
「ま、まあ!」
エーファ様が驚いた顔をする。ツンデレなエーファ様には、まっすぐに嬉しい気持ちを伝えると喜んでもらえることに気付いたので、これでいくことにする。
エーファ様の視線がわたしの後ろへと向けられ――そして、ぴたりと固まる。
「……ええ?」
その視線の先にいるのは、無言で控えているローラント兄様だろう。
きっちりと礼装の剣を腰に下げ、わたしの一歩後ろにぴたりと寄り添う、堂々たる護衛の姿。
「ちょ、ちょっと待ってくださいな……リリーベル様の護衛って……まさか、ローラント殿下ですの……?」
エーファ様が信じられないという顔で目を丸くしている。
「え、えっと……はい」
「ローラント殿下、お席をご用意いたしますわ」
「ああ、お気遣いなく。ヴィンターハルター嬢。護衛なのでここに立っていることにする」
「そ、そうなのですか。わかりましたわ」
戸惑うエーファ様を横目に、わたしはさっと周囲の状況に目を配った。
(──夢で見たものと、同じ景色)
この部屋も、庭園も。初めて来た場所なのに既視感がある。
どうして夢のリリーベルが侯爵家に招かれることになったのかは分からないが、その時のエーファ様はもっと冷たい顔をしていた。
(大丈夫。今日はエーファ様にお招きいただいたただの楽しいひとときのはず……)
わたしはそっと手を握りしめた。
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