31 あたたかな庭園④
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「リリーベルか。入りなさい」
昼下がりの穏やかな陽光が窓辺に差し込み、王宮の執務室を照らしている。
ルーク兄様の執務室を訪れる時はいつも緊張する。きちんと整えられた机の上には、やはり書類がびっしりと積まれていた。
「今日はどうしたんだい? また欲しいものでもあるのかな?」
わたしと同じ青い瞳が、探るようにこちらを見ている。その澄んだ威圧感だけで、足がその場に縫い止められたように動かなくなるような錯覚を覚える。
あの日、勉強のお願いを断られた日のことが頭によぎる。でも今になって思えば、ルーク兄様の判断は正しかったし、今は毎日新しいことを学ぶことができてとても充実していると思う。
「お忙しいところ申し訳ありません、お兄様にお話ししたいことがあります」
兄様は書類から顔を上げ、わたしを静かに見つめた。
穏やかなまなざし。だけど、あの疲れた影は、まだ完全には消えていない。
「ルークお兄様、最近とてもお疲れではありませんか?」
「そんなことはないよ。疲れて見えるかい?」
微笑みながら問い返すルーク兄様。はっきり言って見えます。
何度も夜更かしを繰り返したような青白い顔色、少しやつれた頬。体力には自信があるはずなのに、明らかに無理をしているのが分かる。
「僭越ながら睡眠と食事の面を見直した方がいいかと思います」
「食事だって?」
ルーク兄様の眉が微かに上がる。まさかわたしがこんな話をしに来るとは思っていなかったらしい。
「はい。わたしは医学や薬学について勉強しているのですが、食事と健康には密接な関係があると知りました」
そう言って、わたしは準備してきた食事改善の提案書を広げた。
最近、エーファ様やキース様と一緒に考えた内容を簡単にまとめたものだ。 そこには、疲労回復に効果的な食材や、摂取すべき栄養素の一覧などが記されている。
「……ほう?」
ルーク兄様は書類を一瞥し、すぐに視線を戻してきた。
「お前がこんなことに興味を持つとは思わなかったよ。マルグリット妃の件も、お前が進言して食事を改善したのだったね」
やはりお兄様の耳には全て届いているようだ。
マルグリット妃の食事療法──小麦の除去食はとても上手くいっているとローラント兄様から聞いている。
これまでどうしてそこに考えが至らなかったのか、わたしの中ではまだ疑問が残る部分ではある。
けれど……とにかく今までマルグリット妃のアレルギーが見逃されていたことは事実で、彼女の体調が戻ったこともまた事実だ。わたしは怯むことなく、そろいの青い瞳を兄に向けた。
「食事は人体にとってとても重要です。お兄様は治癒魔法をお使いになりますが、ご自身体を癒すためには、しっかりと休養と栄養を取らないといけません」
そう伝えると、ルーク兄様は考え込むように指を組んだ。
「それは分かるが……食事まで気を遣う余裕はないな。王宮の料理人が用意してくれるもので十分だよ」
「ですが、お兄様の食事は基本的に軽食とお茶だけです。それでは、体力が回復しないのも当然です!」
わたしは少し声を強めた。ここで引き下がるわけにはいかない。
無理をする人はいつも『大丈夫』だというのだ。
それで倒れる人を、かつて見たことがある。睡眠を削ることが命を削ることだとわかってもらうには、ここで折れるわけにはいかない。
「キースから聞いたのかな?」
ルーク兄様が苦笑する。
わたしにはキース様というスパイがいるので、お兄様の食事状況を把握することができた。まあキース様は侯爵のスパイなので、二重スパイということになる。
わたしはちょっとだけ遠い目をしながら、エーファ様と一緒に考えたメニューを兄様に指し示した。
「例えばこのメニューをご覧ください。疲労回復に良い食材を中心に考えました。ビタミン豊富な果物や、消化に良いスープなどを取り入れるだけでも、随分と変わるはずです」
「ふうん……」
ルーク兄様はまたしても沈黙する。それでも、報告書を手に取ってくれた。
最初は渋い顔をしていたが、次第に興味を示し始めたのが分かった。よし、もうひと押しだ。
「お兄様が健康になれば、仕事の効率も上がりますし、治癒魔法の精度も向上すると思います。それに……」
「それに?」
「ルークお兄様が健やかでいてくださる方が国民も安心なさるのではないでしょうか。もちろん、わたしもそっちが嬉しいです」
ルーク兄様の指先が僅かに揺らいだ。
――今だ。わたしは身を乗り出し、まっすぐルーク兄様を見上げた。
「お願いです、ルークお兄様。一週間だけでいいので、わたしたちが考えた食事を試してみていただけませんか? それから、睡眠もしっかり取ってください」
「わたしたち?」
「え、ええと……キース様と、エーファ様と、わたしで考えてみました」
「そうか。キースはそちら側か。エーファ嬢まで関わっているとはね」
「皆、ルーク兄様には元気でいてほしいのです」
じっと見つめるわたしを前に、ルーク兄様は苦笑した。
「……お前も、なかなか強引になったものだね」
「え?」
「以前のリリーベルなら、僕に何かを頼もうとすらしなかった」
そう言われて、わたしは内心ドキリとする。
そう、以前のリリーベルなら、王宮での生活の中で存在を消し、誰にも頼らずにひっそりと過ごしていただろう。
だけど、今は違う。生きるためには行動をしなければならない。そして、体調を崩しそうな人をみすみす放っておけない。病気のつらさを、わたしは知っているから。
「……先日のわたしの体調不良も、栄養不足が大きく寄与していたと思います。身にしみて分かったので、お兄様には健康でいてほしいのです」
本当は前世の記憶が大きいのだけれど、お兄様にはそう伝えることにした。
リリーベルが風邪をこじらせたことは事実だもの。
じっと兄様の紫水晶のような瞳を見つめていると、観念したようにふっと微笑んだ。
「……いいだろう、リリーベル。お前の考えた食事を試してみよう」
「本当ですか⁉」
思わず顔を輝かせる。 ルーク兄様は小さく笑った。
「ただし、一週間だけだよ?」
「はいっ! ありがとうございます、お兄様!」
思わず身を乗り出したわたしに、ルーク兄様が微笑を浮かべる。
「しかし……」
「?」
ルーク兄様の表情がふっと変わった。
「リリーベル、君はどうして治癒魔法についてそんなに詳しいんだい?」
その瞬間、わたしの背筋がゾクリと冷たくなった。
「……え?」
「まるで、何かを知っているような話しぶりだね」
ルーク兄様は柔らかく微笑んでいる。
だけど、その目は笑っていなかった。じっとわたしの瞳を覗き込んでくるその表情は、まるでわたしの奥深くにあるものを見透かそうとするかのような鋭さを孕んでいた。
「そ、それは……」
「リリーベル、お前は一体、何を知っているんだい?」
――ルーク兄様の暗黒微笑に、わたしは思わず硬直してしまった。深く息を吐き、わたしはなんとか震える声を押し殺した。
「……すべて、本で学びました!」
嘘は言っていない。本当の事だもの。その本が、前世のものというだけ。
何とか言葉を絞り出すと、ルーク兄様はしばらくわたしを見つめていたが、やがてふっと微笑んだ。
「そうか、本でね」
あくまで穏やかに返すルーク兄様。しかし、その声色はどこか含みがあるように聞こえた。 だけど、それ以上は追及されなかった。
「では、食事の手配を頼もう」
そう言って書類に視線を戻したルーク兄様の態度に、わたしはようやく安堵の息をつく。 ……もしかして、少し怪しまれた? そんな考えが頭をよぎったけれど、今は深く考えないことにした。
「はいっ! よろしくお願いいたします、お兄様!」
とにかく、提案は受け入れてもらえた。 それだけで今は十分だ。
――こうして、ルーク兄様への食事改善計画は、無事に動き出したのだった。




