27 第一王子の生誕祭④
そんなとき、「おい、リリーベル!」と。朗らかなよく通る声が響いた。
ぱっと顔を上げると、すぐ先にローラント兄様の姿があった。鮮やかな赤髪が、煌めくシャンデリアの光に照らされている。
お兄様はわたしに向かって片手を大きく振っていた。
「こっちに来てくれないか!」
気取った貴族たちの空気をものともせず、まるで小さな妹を呼ぶような無邪気さだった。
その姿に、思わず口元が緩んだ。なんだかほっとする。
わたしは小さくドレスの裾を持ち上げ、キース様にちらりと視線を向ける。
彼は無言で頷き、静かに歩調を合わせてくれた。
「ローラント兄様、ごきげんよう」
「ああ、リリーベル。息災か? 今夜は母上も一緒なんだ」
ローラント兄様のもとに歩み寄ると、彼の隣には、上品な微笑みをたたえた女性がいた。
赤髪をふわりと纏めたマルグリット妃は、柔らかな色合いのドレスに身を包み、控えめながらも王族らしい気品を纏っていた。
わたしは慌ててスカートの裾を持ち上げ、礼をする。
「マルグリット様、お目にかかれて光栄です。リリーベルです」
こうしてしっかりと対面するのは初めて。
緊張しながら名乗ると、マルグリット様はふわりと微笑んでくれた。
「ごきげんよう、リリーベル殿下。ルーク殿下にも、あなたにも、なかなかお会いする機会がなくて申し訳ありません」
その声は驚くほど優しかった。
だけど、その表情の奥に、かすかな疲れと痛みを見た気がする。夢の中で見た、あの儚い影が重なるけれど、お茶会の時よりもずっと顔色がいい。
マルグリット妃様は、そっとわたしに微笑みかけた。
「リリーベル殿下……このたびは、本当にありがとうございました」
「えっ……」
思わず間の抜けた声が出る。
戸惑うわたしに、マルグリット様は静かに続ける。
「あなたのおかげで、少しずつ体調が戻ってきているの。食事も、以前よりずっと楽になったわ」
ふんわりとした声。それなのに、はっきりとわたしに向けられる感謝の言葉。
ローラント兄様も、にやりと笑ってわたしを見た。
「なあ、母上もすっかり元気になっただろう? 全部リリーベルのおかげだ」
感謝の言葉に顔がかっと熱くなる。
「お前が手配してくれた米粉、だったか? それのおかげで、母上は焼き菓子を楽しめている。本当にありがとう」
「あっ、それは、キース様にもご助言いただいたもので……」
わたしだけでは、小麦の代替品である米粉を入手することも流通ルートを見つけることも不可能だった。それは全部、キース様が解決してくれたことだ。
そう思ってちらりとキース様の方を見ると、やっぱり無表情だった。
「全てリリーベル殿下がお考えになったことです」
「で、でも、あれはキース様が……!」
「ははは! 二人ともありがとう!」
譲り合うわたしとキース様を見て、ローラント兄様が豪快に笑う。以前あったときよりも、体つきががっしりしているような気がする。
なんだか腕周りがパツパツだ。
(まさか、筋肉食をお伝えしてこの短期間で……? 一体どんなトレーニングをしたの)
わたしは筋肉のすごさを改めて思い知る。
そして、このやり取りが周囲の耳にも届いてしまったらしく、会場の一角が妙なざわめきに包まれた。
周囲の視線が、またわたしに集中する。
第一王女でありながら、これまでほとんど誰にも注目されなかった存在――そのリリーベルに、今、明確に妃から感謝の言葉が贈られたのだ。
「リリーベル様……だって?」
「まさか、あの……?」
「第一王女殿下が、第二妃様を……?」
ちらちらと、周囲の貴族たちがこちらを盗み見ているのがわかって、顔が引きつる。
「リリーベル様」
ふわりと、マルグリット様がわたしに微笑みかける。
「これから困ったことがあったら、いつでもわたくしに相談くださいね」
「……はい! ありがとうございます!」
わたしは目を細めて、深く頭を下げた。
こんなふうに、誰かに庇護される感覚なんて、久しぶりだ。
マルグリット妃様は落ち着いていて控えめな方だと聞いていたけれど、実際に接してみるとその柔らかさと聡明さに心がじんとする。
(これでなにか、変わったのかな?)
マルグリット妃の死の運命が変わって、幸せな結末になっているといいのだけど。
ローラント兄様とマルグリット妃の元にも挨拶客が詰めかけてきて、わたしはそっとその場を離れた。
ほう、と小さく息をつく。
初めての夜会。さすがに、ちょっとだけ疲れた。
慣れない人の波、華やかな場の空気。意識して堂々と振る舞ってはいたけれど、やっぱり体は正直だったみたい。
「リリーベル様、少し風に当たりますか?」
キース様にそう言われ、バルコニーを指し示される。わかってしまうほど、疲れた顔をしてしまったらしい。
わたしはそっとキース様に目配せし、小さく告げる。
「ありがとうございます。そうします」
「ええ、では」
キース様がうなずきかけた、そのときだった。
――ふらり。
視界の端で、小さな人影が揺らぐ。
(え……?)
振り向くと、エーファ様がふらりとよろめき、そのままその場にうずくまってしまっていた。
その場にいた貴族たちも、一瞬ざわめき、しかし誰もすぐには手を伸ばさなかった。こういう場で、うかつに手を出すことがはばかられるのだろう。
「エーファ様!」
わたしは反射的に駆け寄った。そんなこと言ってられない! 目の前に苦しそうな人がいるのに、見て見ぬふりなんてできない。なにか、できることがあるはず。
エーファ様の顔色は青ざめていて、呼吸も浅い。
慌てて肩を支えると、驚いたようにエーファ様がこちらを見上げた。
「……リリーベル、様?」
か細い声。
今にも倒れ込みそうな身体を、わたしは必死に支える。
「無理なさらないで。すぐに休みましょう」
そう囁くと、エーファ様は小さくこくんと頷く。
「エーファ、身体をこちらに」
キース様は、手慣れた様子でエーファ様を支え直すと、そのまま軽々と抱き上げた。
「リリーベル様。途中退席となること、お許しください」
「は、はい……! 全然大丈夫ですので! エーファ様、はやく良くなりますように」
低く抑えた声でわたしに一言断りを入れたキース様は、静かに会釈すると、そのままエーファ様を抱きかかえたまま夜会の喧騒を抜け、素早く会場を後にしたのだった。




