閑話 第一王子・ルークの独り言②
執務室で政務をこなしていると、扉を三度ノックする音がした。
「どうぞ」
告げると、重厚な扉が開き、漆黒の髪をなびかせながら一人の青年が入ってくる。
「ルーク殿下。失礼いたします」
「やあ、キース。リリーベルとの勉強会は終わったのかな?」
僕の親友にして、現在リリーベルの勉学の手助けまでしている青年。
そこに立っていたのは、漆黒の髪に金色の瞳を持つ男――キース・ティム・ヴィンターハルターだった。
「はい」
「リリーベルは元気にしている?」
「今日も熱心に薬草や病気について学んでいました。特に感染症に興味があるようです」
「感染症? 不思議な子だね」
そう会話を交わしながら、彼の来訪に僕は内心でほんの少しだけ期待するものがあった。――彼が、妹に対して何を思っているのか。
(さて、それを少し探ってみるとしよう)
いつもの定位置、斜め前の席に腰掛けたキースは、書庫に摘まれた書類を冷静に処理していく。
僕が騎士団で汗を流している時間、元は書類仕事をしていたキースはその時間をリリーベルとの勉強に充てている。
もしそれで仕事が遅れるなら少し考えてもらうところだが、本人もそうならないように配慮をしているのか、以前よりも逆に仕事の効率が上がるという謎の効果を生み出していた。
キースがそんな風だから、対抗して私もどんどんと仕事を捌こうとしてしまうというさらなる相乗効果まで。
全く、リリーベルには驚かされてばかりだ。
「……この視察計画書、第三候補地の水源が不安定だな。代案を――」
「すでに代案は作成しております。こちらです」
迷いなく差し出された紙に目を通しながら、私は思わず苦笑する。
「本当に、お前は仕事が早いな、キース」
「当然です」
返ってくるのはいつも通りの無機質な声。だが、ふとその声に、わずかな間が混ざった。
私は視線を上げずに、そっと様子を窺う。キースは手元の書類を整えながら、何か言おうとして――やはり躊躇したように口を閉ざした。
「……何か、気になることでもあるのか?」
軽く問いかけた私に、キースは一拍置いてから答える。
「近頃の王女殿下のご様子について、少々……殿下の見解を伺いたく思いまして」
「ほう。キース、お前がそんな話題を持ち出すとは珍しいな」
私は軽く目を細めて、彼の顔を観察する。
整った顔立ち、感情を抑えた金の瞳は、やはり何を考えているのか読みにくい。
「やはり、おかしいと感じているのか?」
キースは頷く。
「はい。以前の王女殿下とは、まるで別人のようです。……良い意味で、ですが」
「同感だな。まるで殻を破ったかのように、行動的になった」
おとなしく、言われるがままの存在だった妹が、今では自ら勉学を望み、薬草を育て、医術まで学ぼうとしている。
その変化は、傍で見ていても目を見張るものがある。
生への意欲と強い活力を感じるのだ。
「……なぜだと思う?」
「正直、わかりません。ですが、何かを知っているような印象を受けました」
キースは、ゆっくりとそう口にした。
(ふむ。これは、面白くなってきたぞ)
私は手を止めて彼に向き直る。
「感染症について、特別に興味がある様子です。この国には大規模な感染症はまだ起こっていない。それでも彼女は、その原因や解決法を日々模索しているように感じます」
「……それはまた、意外な」
「ええ。正直、驚きました。以前の殿下からは、想像し難い変化です」
書類の角を指先で揃えながら、キースは真剣な面持ちで続ける。
「まるで……特定の目的を持って行動しているような印象を受けました。しかも、それが非常に強い動機に基づいているように思える」
「……ほう」
僕は目を細めた。
どうやらキースも、あの妹の変化に戸惑っているらしい。
ヴィンターハルター侯爵は、人当たりも柔らかく、常識人で、貴族派閥の中で群を抜いて支持されている。だが、私はあの笑顔の裏側を訝しんでいる。
ああいう一見柔和な印象の人間が、腹に正反対の気持ちを抱えていることが往々にしてある。そう、私のように。
キースは確かに優秀で、実力で僕の友人枠と補佐枠に上りあがった。だが、彼には感情らしきものを感じたことがない。
淡々と業務をこなし、それなりに会話をして帰って行く。
正直、掴み所のない友人だと思う。
しかし、その距離感が僕には逆に心地よかった。必要以上に踏み込まず、余計なことを言わない。そんなキースを気に入っているのだ。
「やれやれ。リリーベルの変化に、二人揃って動揺しているとは。あの子も、なかなかの策士かもな」
そう言ってみると、そこでようやく、キースがほんの少しだけ、眉根を緩めた。
「それは……わかりませんが。ですが、放っておくととても危なっかしい気がします。あの方の真意を、知っておきたいと思ったのです」
「ふむ」
私は頷いて、にやりと笑った。
「それはつまり、お前が妹のことが気になって仕方がない、ということだな」
「……」
「否定しないのか?」
「しても、意味がないでしょう。確かにそういう側面はあるかもしれません」
その素っ気ない返答に、私は静かに笑った。
確かに、リリーベルは妙な先回りをすることが多い。
第二妃の病状に最初に気付き、適切な食事療法まで提案したことは私の耳にも入っている。謎の不調が続き、塞ぎがちになっていたマルグリット妃が快方に向かっているそうだ。
聞けばリリーベルは『アレルギー』という症状にやたら詳しく、ローラントにも身体作りに必要な栄養についてのアドバイスをしたらしい。
長く離宮でひとりだったはずなのに、王宮医師団でも解決できなかったことを発見したといういびつさが気になる。
――リリーベルが変わった。
それに心を動かされている男が、目の前にいる。
(これは、政略の道具にしておくには惜しい変化だな)
僕はそんなことを思いながら、机の引き出しから一通の書簡を取り出した。
「今度の誕生日会の件だが。リリーベルも出席させるつもりだ」
「はい」
「当日は、キースがリリーベルをエスコートするのか?」
「そのつもりです」
「ほう」
思わず声が漏れる。即答だった。
政略なのかどうか判断がつきかねるが、少なくともキースの行動はわかった。
「ドレスはこちらで手配済みです。彼女が好みそうなものを──多少調べました」
「ふうん、そうか」
思わず声が漏れる。二度目だ。
口元が勝手に笑ってしまいそうになるのを、ぐっと堪える。
(おやおや。これは……ただの政略ではないかもしれないね?)
これまで令嬢たちに群がられても顔色ひとつ変えなかった男が、こうして先回りしてドレスを選ぶだなんて。
「まさか、黄色のドレスじゃないよね?」
「それは……」
やけに歯切れの悪い回答だ。パートナーと装飾の色を合わせるのは社交界ではよくあることだ。
婚約者同士、お互いの瞳の色のドレスや装飾品を身につける。それぞれ自分の物だと示す意図があるとか。
キースが顔を上げると、私はにこやかに微笑んでみせた。
「仲良くしてやってくれ。私の可愛い妹だからな」
「承知しました」
淡々とした返事。だが、その瞳の奥に確かに微かな熱が宿っている。
彼の視線の揺れ、かすかな指の動き――そういう細かな部分に今までにない動揺が見え隠れしているような気がする。
「お前は昔からリリーベルの婚約者候補だったが……妹を悲しませるようなことだけはしないでくれよ?」
淡々とした口調で言いながら、私は穏やかに笑った。妙な動きはするなと釘を刺すつもりで。
妹の変化だけでなく、友人の変化、それから僕の変化も――それはなかなか興味深いものだ。




