23 変化
離宮に到着すると、見慣れた顔が駆け寄ってきた。
「リリーベル様、おかえりなさいませ!」
「お荷物はすでに庭園の方へ運ばれております」
ぱたぱたと音を立てて駆け寄ってきたのは、ベルネ。その後ろを音のない早足でロザリナが颯爽と現れる。
満面の笑みを浮かべて迎えてくれるふたりに、わたしは一瞬、足を止めてしまう。
(……おかえりって、わたしへの言葉?)
そんな風に思ってしまう自分が、少し情けなかった。
だって、ついこの前まで、わたしのことなんて誰も見ていなかったのに。声をかけられることすらほとんどなかったのに。
「……た、ただいま」
ようやく返した声は、少しだけ震えていたかもしれない。けれど、ふたりは気づかないふりをして、いつも通りの明るさで話しかけてくれる。
「私たち、正式にリリーベル様付きの侍女となりました!」
「お部屋は今朝すべて整えさせていただいております。お茶の準備もございますし、お着替えをなさいますか?」
胸の奥がじんわりと温かくなるのに、足元はなんだかふわふわして、現実味がない。
こみあげそうになる感情をごまかすように、わたしは笑ってみせた。
「ありがとう、ベルネ、ロザリナ。少し着替えたら……すぐ、庭園に行くね」
いつものように、でもいつもとは違うような、ふたりの視線と声の温度が、胸の奥にじんと染みた。
*
新しくなった離宮は、まるで別の建物のようだった。
玄関の大理石の床には淡い青の絨毯が敷かれ、壁紙も優しい色合いに張り替えられている。どこか重苦しかった以前の雰囲気が一掃されて、清らかな風が流れ込むような明るさがあった。
新たに設置されたらしいガラス窓からは、薬草園がよく見える。
(よし、がんばろう!)
着替えを終えたわたしは、庭園の奥へと足を進めた。腰には新しいエプロン。落ち着いた生成色の布地に、小さく繊細な草花模様の刺繍があしらわれている。
庭園に出ると、キース様が苗を眺めていた。
今日届いたばかりの苗が、木箱に丁寧に並べられている。そのひとつひとつを、まるで宝石でも見るかのように眺めているキース様の横顔は、いつもよりもずっと柔らかい気がする。
「お待たせしました、キース様!」
声をかけると、キース様がこちらを振り向く。
「リリーベル様……この庭園は、王女殿下ひとりで?」
「はい。わたし、昔から薬草を育てていたみたいで」
「……みたい、ですか?」
「い、いえ! なんでもありません」
慌てて取り繕って、わたしは苗に向かう。
空いているところにどんどん植えていこう。そう思っていると、キース様も隣に座った。
ふたりで並んで、植え替えを始めた。わたしがスコップで穴を掘り、キース様が丁寧に苗を支える。慣れた手つきに、思わず感心してしまう。
「キース様、園芸も得意なんですね」
「……昔、事情があって、薬草園の管理を任されていたことがありますので」
意外すぎる。そんな過去があったんだ、とわたしはこっそり驚いた。小説では一ミリも触れられていない過去を知ってしまったわ。
ひとつ、またひとつと苗を植えていき、作業に集中していたときのことだ。
「ミャァ……ミャア……」
どこかから、鳴き声がする。
わたしは足を止め、あたりを見回す。
「……ネコちゃん?」
しばらく耳を澄ますと、鳴き声の方向が分かった。
視線を上げると、庭の中央にある大きな樹の枝の上に、小さな子猫がうずくまっている。
「えっ! どうしてあんなところに……!」
枝は地面からかなり高い位置にあり、子猫は枝の上で身を小さくして震えている。
「降りられなくなっちゃったの?」
そっと声をかけるが、当然のように返事はない。
どうにかして助けないと……!
でも、木登りはできないし……とあたりを見渡したところでふとひらめいた。
「水魔法でふわっと降ろせないかな?」
出来ることと言ったらこれしかない。
わたしは空に手をかざし、小さな水の膜を作る。
「これでクッションになれば、落ちても痛くないはず……!」
だが、直後にはっと気づいた。
――そういえば、猫って水が苦手だった!!
ネコちゃんはますます怯えて、とてもじゃないが飛び降りてくる気配はない。
「リリーベル様、何をしているんですか……?」
慌てて魔法を解除しようとした時、背後から、低く響く声があった。
驚いて振り向くと、キース様が腕を組んで冷ややかに立っている。
「キース様! ち、違うんです。あの木の上を見てください。あの子が降りられなくなっていて。水の膜を作ったら行けるかと思ったんですけど……」
焦って言い訳めいた言い方になってしまった。
わたしが必死に指差すと、キース様は視線を上げ、木の上の子猫を見つけたらしい。
「……なるほど」
静かな声とともに、キース様はゆっくりと右手を上げた。
指先からすうっと黒い靄のようなものが広がり、それが地面に落ちる影へとすっと溶けてゆく。
空気が一瞬、張り詰めたように感じられた。陽の光が届いていないはずの、木の根元――そこに落ちる影が、まるで命を持ったかのように震えたのだ。
ぐにゃり、と。
黒の海面が波打つように、影がわずかに揺らぐ。
次の瞬間。静かに、滑るように影の中から伸びてきたのは、漆黒の触手のようなものだった。煙のようでいて確かな存在感があり、細くしなやかに、そして流れるような動きで地面を這っていく。
その影は、まるで小さな命を傷つけまいとするように、そっと枝に絡まりながら上昇していく。動きはなめらかで、恐ろしくも美しい。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
黒い触手が音もなく猫のもとに辿り着くと、その小さな体を包み込むように広がった。ふわり、と。
猫は一瞬、身を固くしたものの――その温度のない抱擁に身を預けるように、目を細めはじめた。
黒い触手にそっと包まれたまま、ふわりと宙を舞い、ゆっくりと地上へと降りてくる。
けれど、地面が近づいたその瞬間。
「にゃっ!」
突然、猫がビクリと身を震わせ、前足をばたばたと暴れさせた。まるで我に返ったかのように、黒い触手から飛び出すようにして、一直線にこちらへと飛び込んでくる。
「わっ、きゃっ――!」
わたしは咄嗟に両手を広げて、飛び込んできたもふもふをキャッチした。腕の中で猫がぎゅっと縮こまり、ブルブルと震えている。
その目は、今しがた自分を運んだ影の主――キース様に向いていた。
「……シャーッ!!」
毛を逆立てて威嚇する猫。その怒りと恐怖に満ちた一声に、場の空気が一瞬静まり返る。
キース様は微かに目を伏せた。
「やはり……この魔法は、動物にも好かれるものではありませんね」
いつものように落ち着いた声音だったけれど、その横顔はどこか寂しげで。自嘲めいた薄笑いが、その口元に浮かんでいた。
「すみません。驚かせるつもりはなかったのですが」
猫を守るために誰よりも優しい力を使ったのに、伝わらなかった。
わたしは猫をなだめるように優しく撫でながら、キース様の顔をじっと見つめた。
「……そんなこと、ありません!」
勢いよくそう言い切った。
「キース様の魔法、とてもかっこよかったです。わたし、忍者みたいだって思いました!」
わたしの脳裏にふっと浮かんだのは、かつて大好きだった忍者漫画の登場人物だ。
彼は、影を自在に操る冷静沈着な忍だった。ひねくれているようで、実は仲間想いで、なんだかんだ言いながら必ず助けに来てくれる。そんな彼の技は、いつも静かで、でも確実に敵を捉えていた。
そのときのことを思い出して、わたしはキース様の魔法に、なんだか妙にときめいてしまった。闇魔法、かっこいい!
「ニンジャ、ですか?」
キラキラと目を輝かせるわたしに、キース様がきょとんとした顔をする。
「はい! 忍者っていうのは、影を使って素早く動いたり、敵の目をくらませたりするすっごい戦士なんです! キース様の魔法、すごく忍者っぽくてかっこいいです!」
無邪気に称賛するリリーベルに、キース様は完全に予想外の反応をくらったようだった。
一瞬、何か言いたげに目を伏せたキース様の金の瞳がわずかに揺れて、ふっと表情がやわらぐ。
「……そう言われたのは、初めてです」
それは、ほんの一瞬だけれど――どこか、救われたような笑顔だった。
驚きつつも、わたしは嬉しくなる。
キース様がこんな風に表情を変えることなんて、滅多にないのに。
わたしの腕の中で、猫はようやく落ち着いたように小さく「にゃあ」と鳴いた。けれど、その満足げな様子もほんのひとときで、ふいに身をひらりとひねり、地面に降り立つ。
「あっ」
止める間もなく、子猫はスタスタと茂みの奥へ歩いていってしまった。まるで、最初から何事もなかったかのように。
「行ってしまいましたね」
隣でキース様がそう言うのが聞こえて、わたしは少し肩を落とした。でも、無事に助けられたのなら、それでいい。
「リリーベル様」
キース様がふいに声をかけてきた。振り向いたわたしに向かって、彼は一歩だけ近づいてきて――
「……頬に、土が」
そう言って、そっとわたしの頬に触れた。
指先がほんの一瞬だけ、ぬくもりを伝えてすべっていく。
「っ……」
思わず固まってしまった。わたしの鼓動が、耳の奥でどくん、と大きく跳ねる。
さっき、商人から買った苗を庭園に植えていた時、勢いよく土を掘って泥が跳ねてしまったのだった。
そして、猫の鳴き声を聞いて慌てて駆け寄ったせいで、顔の汚れに気づかないままだったみたいだ。
「……失礼しました」
「い、いえ! ありがとうございます!」
キース様はすぐに手を引き、またいつものように表情を変えず、ほんの少しだけ眉尻を下げる。
そのささやかな気遣いが、逆に心臓に悪い。
(これは嘘の優しさなんだから)
そう自分に言い聞かせると、やっぱり悲しくなってしまった。




