20 ローラント兄様
――とはいえ。いざとなると、話しかけるタイミングがわからない。
訓練場にいる騎士たちは皆、気迫に満ちていて、そんな中で突然話しかけるのは、どうにも気が引ける。しかも、お兄様は目の前の剣に集中している。
声をかける隙など、どこにもないように思えた。
「――そこまで!」
鋭い掛け声とともに、ローラント兄様が剣を構えたまま動きを止める。
相手の騎士も息を整え、互いに軽く礼を交わすと、周囲の騎士たちが一斉に武器を下ろした。
どうやら、鍛錬が終わったようだった。
「はぁ……やっぱり、殿下の剣さばきはすごいですね」
「流石です、ローラント殿下!」
「さっきの一撃なんて、俺だったら即死でしたよ!」
周囲の騎士たちが感嘆の声を上げる中、ローラント兄様は剣を鞘に納め、軽く肩を回していた。
(……今なら、話しかけられるかも?)
勇気を振り絞り、わたしはそっと近づく。
「……あの」
声が小さ過ぎて、誰にも気付かれない。
こんなことではいけないと、わたしはお腹にギュッと力を入れた。
「あの!!!!!」
今度はバカでかい声が出た。
騎士たちが不思議そうにこっちを見ている。
「……あれ、誰だ?」
「見たことのない令嬢だ」
ざわざわとする騎士のみなさん。そしてリリーベルはやはり認識されていないことを思い知る。悔しくなんてない、絶対に。
もう一度大きな声を出そうと息を吸い込んだとき、ざわめきに気が付いたお兄様の目がこちらを向いた。
ほんの一瞬、驚いたように目を見開いたローラント兄様だったが、すぐに表情を引き締める。
「……まさか、リリーベルか?」
(わ、ちゃんと覚えててくれてる!)
わたしは心の中で小さくガッツポーズをしつつ、できるだけ落ち着いた声を出そうと努めた。
「お疲れさまです、ローラント兄様」
「お前、どうしてこんなところに……」
お兄様は無造作に髪をかきあげ、少しだけ不思議そうにわたしを見た。
それはそうだ。今までわたしは王宮の片隅でひっそりと暮らし、騎士団の訓練場など訪れたことがないのだから。
「少し、お兄様とお話ししたいことがあって来ました!」
お兄様がどんな反応をするか、少しだけ不安になる。
でも、わたしがこれまで避けていたのと同じように、お兄様もわたしと積極的に関わろうとはしてこなかったのだから、どちらかが動かなければ、関係は変わらない。
「……いいだろう。着替えて来るから少し待っていろ」
「はい!」
ローラント兄様は、探るようにわたしの顔をじっと見つめたあと、ゆっくりと頷いた。
騎士たちのところに戻り、鍛練終了を告げている。
(よかった……!)
騎士団の訓練場という慣れない場所での緊張感を抱えつつ、わたしはお兄様と少し距離を縮める第一歩を踏み出した。
訓練を終えたローラント兄様と合流できたけれど、お兄様はわたしを見つめたまましばし黙っている。
うっ、なんだろう。
「……本当に、お前がこんなところに来るとはな。倒れたと聞いた。体調はいいのか?」
訓練場の熱気が残る中、お兄様は汗を拭いながら、少し困惑したような顔をしている。それでも、わたしを心配してくれる言葉に驚いてしまう。
体調を崩したことを知っているのは、ルークお兄様だけじゃなかった。
「あ、ありがとうございます。もう大丈夫です。今日はローラント兄様にお話ししたいことがあって……」
そう言うと、お兄様は片眉を上げる。
「俺と話したいこと? リリーベルが?」
「はい」
お兄様は腕を組みながら、わたしの様子をじっくりと観察するように見ていた。
(……なんだか、ちょっと緊張する)
これまであまり接点のなかったお兄様。
話す機会が少なかったせいか、こうして向き合うとどうしてもぎこちなくなる。
「……まあ、いい。少し歩くか?」
「はい!」
わたしはほっと息をつきながら、お兄様の隣を歩くことになった。
訓練場の端を抜け、王宮の庭園へと続く道を進む。まだ夕陽が残る中、わたしは何度も言葉を探しながら、意を決して口を開いた。
「お兄様は、マルグリット様とお茶をされることが多いのですか?」
お兄様の足が、ぴたりと止まった。
「……なんでそんなことを聞く?」
目が、鋭く細められる。
「実は、西庭園の方を散歩している時に、お見かけしまして……」
嘘じゃないもの。
のぞきに行ったことは伏せて正直に答えると、お兄様はじっとわたしを見た。
まるで、わたしの真意を測るように。
「そうか」
少しだけ険のある声。
それほど、お兄様にとってマルグリット妃は大切な存在なのだと伝わってくる。
わたしは小さく息を吸って、言葉を慎重に選んだ。
「実は、少し前に第二妃様のお姿をお見かけしました。その時、なんとなく、お顔色が優れないように思えたのです」
「………」
「だから、心配になりまして……」
お兄様はしばらく黙っていた。
わたしの言葉を慎重に吟味しているように見える。
急に会いに来た妹が、突然自分の母親の体調を心配しだしたのだ。そう思われても仕方がない。
「……母上は、昔から体が弱い。体調の良し悪しには波がある」
「そうでしたか」
「今も、医師には診てもらっている。ただ……はっきりとした原因はわかっていないらしい」
お兄様の言葉を聞きながら、またこの前の様子が脳裏によぎる。
マルグリット妃の体調が悪化したように見えたのは、菓子を食べた後だ。紅茶を飲みしばらくすると、さらに青白い顔になった。
「あの、お兄様。お茶会にはいつもどんなお菓子が並ぶのです?」
「そうだな。母上が昔からクッキーが好きで、いつも色々な種類のクッキーが並んでいる。あの方は焼き菓子が好きだからな」
「クッキーですか……」
ローラント兄様の言葉を反芻しながら、わたしは胸の奥でざわめく不安を覚えていた。
(クッキーって、たいてい小麦粉と卵、バター……それにナッツが入っていることもある)
わたしの頭の中で、自然とアレルギーに関する知識が浮かび上がってくる。
昔のことを思い出す。前世のわたしは、アレルギー持ちだったから、コンビニでもスーパーでも、パッケージの裏をひっくり返して成分表示を確認するのが癖だった。
(小麦やナッツアレルギーは重い人だと呼吸困難になることもある。じんましんや嘔吐、咳、息切れ……もしかして、これが……?)
現代では、食品表示法のおかげで多くの人が早期に気付くけれど、この世界ではアレルギーの概念そのものが、ほとんど知られていない。
(もしかして、マルグリット様は長年の食生活の中で、後天的に小麦に対してアレルギー反応を起こすようになってしまったんじゃ……?)
想像が、ひやりと現実味を帯びる。
焼き菓子が好きだった人が、体に合わないと知らずにずっと摂り続けてきたら……症状がどんどん悪化するのも当然だ。
わたしは胸の中で、ぐっと拳を握った。
(やっぱり確かめたい。マルグリット様の症状、アレルギーだって仮定すれば、きっと改善できるはず。そうすれば、ローラント兄様だって、もう悲しまなくて済むかもしれない)
そして、わたし自身も、ひとつの命を救えるかもしれない。
「お兄様、マルグリット様のご体調が悪くなるのは、決まってお茶会の後だったりしませんか?」
わたしがそう尋ねると、ローラント兄様はほんの少し眉をひそめた。




