閑話 第一王子・ルークの独り言
王宮の書斎には、整然と並べられた書類の束と、磨き上げられた木製の机。大きな窓からは黄金色に染まった陽光が差し込み、重厚なカーテンの端を揺らしている。
午後の執務がひと段落し、ようやく書類の山の一角に目処が立った頃。
静まり返った執務室の中で、僕──ルークはふとペンを置いた。
窓の外では陽光が傾き、庭園の花々がそよ風に揺れている
(離宮の工事は順調だろうか?)
ふと、ひと月ほど前に見たある光景が頭をよぎる。
きっかけは、キースからの何気ない一言だった。
『ルーク殿下。王女殿下の離宮について、一度ご確認いただけませんか?』
普段あまり進言をしない彼が、わざわざ言葉を選びながらそう言ってきたのだ。
どうやら、リリーベルが泉に落ち、それをキースが助けたのだという。それから数日が経っていたが、その時僕にはその報告が上がってきてはいなかった。
気になって、昼の合間に足を運んでみた。
そして、愕然とした。
傷んだ床材、冷え切った室内、年代物の家具と寝具――
侍女の話によれば、長年、物資の補充すらまともにされていなかったらしい。そしてその侍女も、世話をほとんど放棄していたことが窺えた。
リリーベルは、あんな環境で何年も、たったひとりで暮らしていたのだ。
(よく、あれで何も言わなかったものだ……)
訪ねた日のリリーベルは、ルークに対して恨み言を言うでもなく、治癒魔法をかけたことに対して感謝の言葉を述べた。
そのあと客室に一旦移してからも、新たに派遣した侍女たちから聞くのはリリーベルの冷遇された境遇だけだ。
世話をしないだけにとどまらず、肉体的にも虐待を受けていたらしい。痛々しい痣が彼女の身体にあったと新しくつけた侍女たちは伏し目がちに報告してくれた。
それから、僕はリリーベルという妹を改めて意識し始めた。
そして、会話を交わしたのが幼い頃の記憶しかないことに愕然とする。
元来物静かで、何を考えているのかわからない子だと思っていたが、それは我々が知ろうとしなかっただけなのかもしれない。
──リリーベルのことを、少し前に父にも報告した。
『父上。……リリーベルの境遇について、ご存知だったのですか?』
そう問いかけたのは、ある日の政務の合間だった。応接室には重苦しい空気が満ちる。王である父は窓の外を見ながら茶を口にしていた。
しばらくの沈黙のあと、父はカップを静かにソーサーに戻し、何かを言いかけて──ふと、その視線を逸らした。
「お前の髪は……マリアベルと同じ金色だな。瞳の色も、僕と同じ青だ」
「……はい。それがどうかしましたか」
マリアベルとは、母の事だ。すでに亡くなっているこの国の王妃。
僕の言葉に、父は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「アレは、違う」
その一言に、僕は言葉を失った。
アレ――そう呼ぶことで、リリーベルを家族の輪から明確に外している。血のつながりを否定する意図は、あまりに露骨だった。
「そのような噂はどこから来たのでしょうか。出所も不明な、信憑性のない話でしょう。それで見ないふりをしていたのですか」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。だが父は怒ることもなく、ただ静かに息を吐いた。
「信じるかどうかではない。……この話は、ここで終わりだ」
立ち上がった父上は、僕の返答を聞くことなく、重厚なマントを翻して部屋を出て行こうとする。
僕は背筋を伸ばし、はっきりとした声で告げた。
「でしたら、勝手にさせていただきます。僕は……妹は、王女として、もっと大切に育てられているものだと思っていました」
離宮に行って会えなくなった母と妹。母は病気で亡くなってしまったが、妹は離宮から戻ってくることはなかった。忙しかった。自分も。それが彼女への言い訳にすらならないことは分かっている。
ただ、もっと早くに知っていれば、妹を救い出すことが出来たはずだった。
「勝手にしろ」
父の背中は一瞬だけ止まり、そして何も言わずに部屋を出ていった。
王としての判断なのか、父親としての偏見なのか。僕には、あの背中が何を語っていたのか、最後までわからなかった。
ただ、父上の中になにかの確執があるのは確実で。
ただ言質は取れたので、妹の環境を少しでも良くしたいと思ってはいるのだが、何分関わり方が分からずにいる。
「医学を学びたい、と言われたときにもっとちゃんと話を聞くべきだったかな……」
思わずそうぼやいてしまう。以前執務室を訪ねてきたリリーベルの要望を、つっぱねたのは他でもない僕だ。医学や薬学が学びたいと言われて、不釣り合いだと思って言葉を濁した。
「今頃、薬草園の手入れでもしているのだろうか」
つい独りごちてしまうのは、これまで影の薄かった妹が最近気になって仕方ないからなのだろう。
庭園で薬草を育てる姿が目撃され、図書室では熱心に医学書を読みふけっていたと侍女たちが噂していた。知識を求めて自ら学ぼうとしている。たまたま図書室に居合わせたキースが彼女の教師となったと聞いて、また驚いた。
そして、宝石やドレスでも買い与えようかと呼んだ席で、彼女が選んだのは種子や苗、それから園芸グッズ──
「ふむ……」
僕は椅子にもたれ、額に指を当てた。彼女に、何が起きたのか。
まるで、別人が宿ったかのような変化だ。もっとも、あの変化が悪い方向でないことは明白であり、王家の一員として喜ぶべきことなのだが
「……ただの偶然か?」
直感的に、彼女の中に「芯の強さ」が芽生えたのだと感じる。
それは、我がグーテンベルグ王国の未来にとって、確かに良い兆しではあるが。
それでもやはり、もっと早く知りたかったと思う。髪色も瞳の色も違うが、彼女は妹だ。
小さな小さな手で、幼い僕の人差し指をぎゅっと掴んだあの子のことを、これまで顧みなかった自分を強く恥じた。




