18 観察
「お二人のお茶会が気になりますか?」
不意にそう尋ねられて、わたしは顔を上げる。まだ少し熱いが、気にしている場合ではない。
「はい。マグリット妃殿下の顔色が悪いのが気になりまして……なにか原因がわかればと」
かなり苦しい理由づけかもしれない。でもこれは事実なので、他に答えようもない。
「……ケホッ!」
突然、短く押し殺されたような咳が庭園の空気を裂いた。
わたしはびくりと肩を揺らし、慌てて四阿からそっと身を乗り出すようにして視線を向ける。
そこには――マルグリット妃が、テーブルの縁に片手をつき、苦しげに咳き込んでいる姿があった。
「母上!」
ローラント兄様の慌てた声が響く。傍らにいた侍女がさっと駆け寄るも、彼女の体を支えるには細すぎた。お兄様は立ち上がるなり、細身の母の体を迷いなく抱き上げた。
その手際の早さに、きっと何度もこういうことがあったのだとわかる。
「水を……いや、薬を――!」
お兄様の額には明らかに焦燥の色がにじんでいた。
その腕の中で、マルグリット様はぐったりとしていて、咳をしながらうっすらと目を開いている。吐息は浅く、顔色は驚くほど悪い。唇の端も、わずかに蒼く見えた。
「ローラント兄様……!」
思わず、声が漏れそうになるのを必死で抑え込んだ。隣にいたキース様が、気配を察したようにそっとわたしの手首をとる。
「リリーベル様、落ち着いてください」
「……はい」
喉が詰まるような思いで、わたしはこくんと頷いた。
視線の先で、お兄様はマルグリット様を抱えたまま、侍女たちに何かを指示している。控えていたもう一人の侍女が慌てて建物の方へと走っていき、ローラント兄様はそのまま足早に、妃を連れて庭園の奥へと消えていった。
白いティーカップがさみしげに残されている。
わたしが見た夢は、途中までだった。胸の奥で、ざらつくような不安が広がっていく。
もし、今のが病気の兆候だったとしたら。
もし、このまま放っておいたら……
わたしはぎゅっと拳を握りしめた。
(……絶対に放っておいたりなんてできない)
風が吹いた。冷たいわけではないのに、ぞくりと背筋を撫でるような寒気を覚える。
小説の中で死を迎える彼女が、いずれ死ぬ予定の自分と重なってしまったのかもしれない。
本当に起こり得ることなのだと。
「……大丈夫でしょうか、マルグリット様」
思わず呟いた声は、自分でも驚くほど小さくて震えていた。
わたしの隣で、キース様が静かに息を吐くのがわかった。
「今の様子を見る限り、軽いものではないかもしれませんね」
淡々とした口調。でもその奥にわずかに含まれた不安を、わたしは聞き逃さなかった。
「わたしにも、何かできることがあれば……」
そう口にして、わたしは自分の手を見下ろした。
白くて細い指。剣も振れなければ、魔法だってまだ練習中。誰かを守る力なんて、何ひとつ持っていない。
キース様は少し考えるように目を伏せた。
「それは、リリーベル様が気にすることなのですか?」
「気にします!」
きっぱりと言い切る。
「だって、マルグリット様はローラント兄様の大切な人です。もし、妃殿下に何かあったら……お兄様はずっと後悔すると思うから」
それは、原作小説で知っている結末。
マルグリットが亡くなり、正妃との医療格差に苦しんだローラント兄様は、長くその思いを抱えていた。
その軋轢を、今のうちに取り除いておきたいと身勝手にも願ってしまう。
「……ふむ」
キース様は、何か考え込むように顎に手を当てた。
「確かに、マルグリット妃殿下が最近体調を崩されたという話は私の耳にも届いています。聞いています。だが……王宮の医師が診ているはずでは?」
「そう思います。でも、他にも理由があるのかもしれません。わたしの知識はまだまだ足りないです。それでも、できることをやりたい」
その理由を突き止めれば、救えるかもしれない。悲しい未来をひとつ変えることで、わたしの未来も変わりそうな気がする。
キース様はわたしの言葉に、しばらく沈黙していた。
やがて小さく息をつき、わたしを見つめる。
「リリーベル様は変わられましたね」
「えっ?」
「以前のリリーベル様なら、王宮の問題など気にもしなかったでしょう」
心臓がドキッと跳ねる。
それはリリーベルの中にわたしという前世の記憶が呼び覚まされたからに他ならないし、さらにナレ死の運命を変えようともがいている。
(……どう返したらいいの?)
何も答えることができずにわたしが戸惑っていると、キース様はクスリと小さく笑った。
「ですが、面白いですね。王宮の医師たちが分からなかったものを、私たちが解き明かすのも」
「それって……?」
キース様の意図するところがわからず、わたしは首を傾げる。
『私たち』というのは、わたしとキース様を指しているのだろうか。
「私の方でも調べましょう。リリーベル様のお望みであれば、協力いたします」
思わず、わたしは言葉を失った。彼がこの申し出をしてくれた理由はわかっている。侯爵の命令だもの。
あの庭園で聞いた言葉が、耳の奥で蘇る。
『もっと王女に取り入れ』
『気に入られるように努めろ』
そういう言葉が並んでいた。
(……そうよね)
わたしの病状を心配してくれていたのも、勉強に付き合ってくれるようになったのも、すべては『わたしに気に入られるため』。
キース様は、心から手を貸そうとしているわけじゃない。
(本当は、断ったほうがいいのかもしれない)
侯爵の思惑通りに動くのも癪だし、そもそも、キース様がどこまで本気で協力してくれるつもりなのかもわからない。
けれど――今は、時間がない。
マグリット様の体調がどんどん悪化してしまえば、間に合わなくなるかもしれない。原因がわかる前に手遅れになってしまったら、未来は変えられない。
感染症が流行するまであと二年あるのに、すでに体調を崩しているなんて想定外だった。
その原因についてわたし一人で調べるには限界がある。
(優秀な人の力は、借りられるときに借りるべきだわ)
キース様は賢く、判断も早い。
「いいのですか?」
気づけば、わたしはそう問いかけていた。
キース様は、小さく目を細める。
「はい」
「ありがとうございます。キース様」
その言葉に、わたしは思わず笑みを浮かべた。
例え命令でそばにいるだけだったとしても、今はそれでいい。キース様の助けがあれば、できることはきっと増える。
――絶対に、諦めない。
そう心の中で誓いながら、わたしは庭園の風に揺れる草花を見つめた。
***
部屋に戻ったわたしは、そっと扉を閉めてベッドの縁に腰を下ろした。
窓から射し込む陽光は柔らかく、どこか春の昼下がりらしい穏やかさをたたえていたけれど、胸の奥に残っているのは、言葉にできないざわつきだった。
――あの光景。マルグリット妃が咳き込み、ローラント兄様に抱きかかえられて席を立つ姿。
(夢と同じだった)
信じたくないけれど、確信めいたものがあった。
夢の中で起きた出来事が、現実に起きた。
静かな庭園、お茶会の様子、妃殿下の咳き込み、ローラント兄様の驚いた表情――夢の中で見たすべてが現実に重なっていた。
夢で見たあの光景は、ただの幻想でも空想でもないのかもしれない。だって小説にはそこまで書いていない。
「でも、普通の夢を見るときもあるんだよね……夢を全然覚えていなくて朝になるときもあるし」
鮮明な夢といつもの夢。なにか違うのだろうか。
それでも、あの夢は少し先の未来を見せてくれているのだと感じる。
(もしかしたら……わたしのことも分かるのかも知れない)
小説に描かれていない死の原因を、夢で見ることができるのだとしたら。
「夢を見る条件みたいなものも解き明かす必要があるってことね。よおし、絶対に見つけてみせるんだから!」
ようやく見つけた小さな糸口だ。
マグリット妃の体調不良の原因と、夢の発動条件。
ナレ死回避のために、まずはこれを解決していこうと決めた。




