11 お勉強会
「……ふむ」
納得したのかしないのか、キース様は視線を本へと戻す。
「あ、あの! キース様は、よくこうした本を読まれるのですか?」
これ以上動機を聞かれるとぼろがでそうだったわたしは、反対に質問してみることにした。
それに、キース様の説明は簡潔でわかりやすい。彼自身もこの分野に精通しているようだった。
「ええ。もともと、父が領地での医療環境にも関与していましたので」
「まあ。立派な御方ですね」
キース様のお父さんということは、ヴィンターハルター侯爵その人だ。
(そういえば、小説ではヴィンターハルター侯爵家は最後に断罪されちゃうんだっけ……?)
悪役令嬢と悪役令息、それから家門もろとも罪に問われていたような気がする。
「……ありがとうございます。では、続けましょうか」
彼はさらりとそう言い、手元の医学書を開く。
その分厚い医学書のなかに、希望の種が詰まっているような気がする。
「よろしくお願いします。キース様」
「はい。では次は――」
キース様の執務室には、緊張感と心が和らぐような静けさがあった。
わたしはそっとキース様の横顔を盗み見る。美しく尊い。
(やっぱり……なんだか他の方と違う気がする)
侍女たちに初めて会ったときの嫌悪感や、ルーク兄様を見たときの威圧されるような感覚がリリーベルの中にない。
もしかしたら彼女にとっても、キース様はそこまで警戒しないでいい存在だったのかもしれない。なぜかは分からないけれど。
「リリーベル様?」
「あっ、すいません!」
考え事をしていたわたしは、慌てて目の前の本に目を通す。
どういう仕組みかはわからないが、この国の言葉はちゃんと読める。この前自分で書いたメモも、日本語ではないようなのに勝手にすらすらと書けていた。ありがたい。
それからしばらく、キース様からお借りした薬草図鑑を興味深く眺めていると、鐘の音が三回ほど鳴った。お昼の少し前を知らせる音だ。
「リリーベル様」
キース様に呼ばれて、わたしは顔を上げる。
「この時間、リリーベル様はお時間が空いておられるのですか?」
「は、はい、毎日暇です……」
ずっと手厚い看護を受けているだけだし、王女としての執務のようなものもない。
正直に答えながら、わたしは思わず首を傾げる。
キース様は目線を本から少し逸らし、静かに言葉を重ねた。
「そうですか。それはちょうどよかった。ルーク殿下はこの時間、剣の稽古をなさるので、私は執務に呼ばれないことが多いのです」
キース様は状況を説明してくれる。
なるほど、だから今日は図書室で会えたのか。
そしてルーク兄様ったら、毎日鍛錬もしているだなんて超人が過ぎる。
「もしよろしければ、この時間を使って、定期的に勉強をご一緒できればと思うのですが、いかがですか?」
さらりとした提案に、わたしの心がぱっと明るくなる。
「はいっ、ぜひお願いいたします! ご迷惑じゃなければ、本当に嬉しいです」
入門編だというこの本も、まだ十分の一も読めていない。まだまだ授業を続けてくれることに感謝の気持ちでいっぱいだ。
「では、明日も同じ時間に図書室でお待ちしております。次からは私の方でも資料を用意しておきますので」
「はいっ! とってもわかりやすい授業だったので、楽しみです。毎日でも受けられそうです」
わたしは思ったままに笑顔でそう伝えた。
本当に分かりやすいし、キース様が優秀なお方だということがすごく伝わってくる。
「……毎日でも構いません。薬学と医学はちょうど専攻していたので」
「えええ!? いいんですか……?」
「はい。リリーベル様がお望みであれば」
キース様はいつもの無表情のままだったけれど、どこかその金の瞳が柔らかく見えた。
(勉強会を毎日……! なんかちょっと、学生っぽい!)
昨日まではずんと落ち込んでいたけれど、一気に楽しい気持ちになる。
「ぜひよろしくお願いします、キース様」
「はい」
こうしてわたしは、キース様との勉強会の機会を得ることが出来た。
それから一週間あまり。
わたしは必死になって医学の勉強に励んでいた。離宮の工事はまだ終わらないらしい。工期はあとひと月ほどだとロザリナが言っていた。ものすごく大々的に改装しているような気がする。
そして、心配していた離宮の本などはわたしが暮らしている客室にきちんと届けられた。古びた園芸道具も全て。
昔からひとりで薬草の手入れをしていたことを告げると、ベルネはぐっと涙ぐんでしまった。ロザリナにいたっては「あの女狐……!」と今まで見たことがないような恐ろしい形相になってしまった。
はじめは緊張していたけれど、今ではすっかりこの場所に通うのが日課になっていた。分厚い医学書のページをめくる音と、隣から聞こえる落ち着いた説明の声。淡い陽光と、静かな空気。すべてが、心地よくて。
「本日の復習です。薬草〈ユルミナ〉と〈ゼルファ〉の違いについて、覚えておられますか?」
「はい。〈ユルミナ〉は解熱作用があって、苦味が強いのが特徴です。〈ゼルファ〉は鎮静効果が高く、香りがあるので、お茶などに混ぜて服用することが多いです」
ぺたりと音を立てて、キース様が教本を閉じる。
「完璧ですね、リリーベル様」
「えへへ……ありがとうございます!」
自然と、口元が緩んでしまう。
こんな風に誰かと勉強するのって、学生時代ぶりかもしれない。
「本日でちょうど七日目ですね。殿下の進歩には目を見張るものがあります。学問の素養があるのでしょう」
「そんな、まだまだです。もっと勉強したいです!」
やる気だけは、誰にも負けない自信がある。
なんせ、死因が分からないのだ。
「そうですか。では少しだけ先に進みましょう」
この前のものよりもさらに分厚い、えんじ色の本をキース様が取り出す。
次は、医学書にとりかかることになるらしい。
言われたページを読む傍らで、眼鏡をかけたキース様は書類のようなものを読み込んでいる。お仕事の合間にこうして相手をしてくださって、本当にありがたい。
そして、十数分後。
「う〜〜……」
そう簡単に行くはずもなかった。医学書は専門的すぎて、付け焼き刃で学ぶにはハードルが高すぎる。
「リリーベル様、休憩ですか?」
頭がパンクしそうになっていたところにキース様から声がかかる。
「はい……」
「まだ今日の分は始まったばかりです。十二頁、人体の構成について」
「はい、がんばります……」
キース様、意外とスパルタである。
社交の神のルーク兄様、武神と崇められるローラント兄様と比較すれば寡黙なイメージが強かったけれど、勉学中には特によくお話をしてくれる。
九割は私への指導だけれど、ぽつりぽつりと普通の会話も増えてきた。
キース様は妹のエーファ様をとても大切にされている。きっとその延長で、私も妹枠にするりと入り込めたのだろう。
「キース様、次のページが終わったら休憩しませんか!? またエーファ様のお話が聞きたいです」
「早すぎます」
挙手をして提案したところ、即行でお断りされてしまった。エーファ様とはあまり接した事は無いけれど、兄妹揃って艶やかな黒髪が美しい。
凛としていて近寄り難いイメージがあったけれど、キース様から聞くエーファ様の話はどこにでもいる愛らしい少女で、とても素敵なのだ。
「ふふふふふ」
「どうしたんですか……」
急にほくそ笑む私に、キース様は呆れてしまっている。
機会があれば、死ぬ前にエーファ様ともお近付きになりたいものだ。
小説世界での脇役王女と悪役令嬢の関係性は分からないけれど、生きている内に色々とやりたい。
「あっ、見てください。この薬草って、わたしの庭園にもありますよ!」
わたしはそう声を上げた。医学書の下の方にサンプルとして載っていた薬草が、離宮の庭園の端っこにあるものによく似ていた。
「それは随分前に絶滅した種で……、本当に……?」
「? ふふ、こうやって見ていると医学も薬草学も好きになれそうです」
「……リリーベル様。今度、庭園にお邪魔しても構いませんか」
「はい、もちろん!」
実物と照合しながらだったら、大変な勉強も少しだけ楽しめそうだ。
なぜだかすっかり考え込んでしまっているキース様を尻目に、私はそんなことを思った。