小異国恋歌~龍神の華~
ホギャー!
渡り廊下にまで聞こえてくる、元気な声。それはもちろん、居ても立ってもいられなくてその部屋の前をずっと行ったり来たりしていた、彼の耳にも届いた。女官が呼びに来てくれるまで待とうとも思ったが、我慢しきれなくなって、その部屋の戸を勢いよく押し開ける……。
「生まれたのかっ?」
女官の一人が、彼に非難めいた視線を向けた。
「お静かに。はい、たった今……。王子様のご誕生です。おめでとうございます」
「王子……」
つまり、彼の息子だ。そのまま、寝台の上に疲れ切って横になっている母親、彼の妻と、その横に寝かされている赤ん坊に視線を当てる。彼の足が、ゆるりと動いた。緊張でどことなくおぼつかない足取りで、そちらに歩く……。
「あ、柳鏡……」
彼女が、弱々しく微笑んだ。その隣で、たった今この世に送り出されたばかりの赤ん坊が、スヤスヤと寝息を立てている……。
「男の子……だって……」
「ああ、聞いた……」
息子に向けられるその目からは、緊張の色が窺える。
「ほら、お父様でしょ?抱いてあげて……。一番、譲ってあげるから……」
恐る恐る、手を伸ばす……。そして、その指が柔らかいものに触れた。彼の動きは、限りなくぎこちない……。
「もう、忘れちゃった? 教えてあげたじゃない……。足の間から手を入れて、その手で赤ちゃんの頭を支えるの。それを反対の腕に載せて安定させて、そっちの腕を外側に持っていって、自分の体とその腕で赤ちゃんを支えるの……」
「あ、ああ……」
自分の腕で触れたら、壊れてしまいそうだ。それでも彼女に言われた通りにそっと抱き上げる……。
「こうか……?」
「うん、上手……。柳鏡も、立派なお父様だね……」
彼の心にその時あったのは、不思議な感動……。柔らかくて、小さくて。それでも、自分と同じような形をしている、自分の子……。彼女が横になっている寝台に、自分も腰掛ける。彼女が、柔らかく微笑んだ。
「あんた、具合は……?」
「ちょっと疲れちゃったけど、大丈夫だよ……。男の子なら天連って、柳鏡、言ってたよね……?」
「ああ……」
「お父様に素敵な名前をつけてもらえて良かったね、天連……」
二人で、小さなその顔を見つめる。その面差しは、父親そっくりだ……。
「柳鏡そっくりだね……」
「ああ、そうだな……」
「私から生まれたのに……」
母親が、そう不満気に口を尖らせた。そんな彼女に、笑いかける。
「なんだよ、焼き餅か……?」
「別に……」
あきらかに見え見えの嘘をつく。出産を手伝った女官や産婆は、静かに部屋を後にした。室内には、三人だけが残された。
「あんた、少し休めよ。ついてるから……」
「本当は、出産にもついていてくれるって言ってたじゃない……」
再び、彼女が不満気な顔をする。彼が、苦笑してそれに答えた。
「邪魔だから出て行けって、追い出されたんだよ。今度こそ、ついてるから……」
彼女は幸せそうにニコリと微笑むと、そのままスゥーっと眠りの世界に引き込まれていった。
二十一歳、六月十八日。今日から日記をつけてみることにした。……いや、日記じゃねえな。毎日とか面倒くせえし。気が向いた時だけつける。お、我ながら良い案だな。それなら面倒でもないし。
今日、子供が生まれた。俺の、息子。正直言うまで、抱いて見るまで自分が親になったっていう実感がなかった。景華の方は動いた、とか楽しそうに言ってたから、そうでもないだろうけど……。でも、あの瞬間に実感した。あの感動は、多分一生忘れられないな……。赤ん坊は、怖かった。小さくてふにゃふにゃで、抱き上げる時に壊れるかと思った。そのくせちゃんと人間の形してるんだから、すごいよな。景華から生まれたっていうのが、本当に信じられない位だ。いくら赤ん坊が小さくたって、あの小さな体から生まれて来たっていうのが嘘みたいだ。……相当きつかったと思う。……どっちも。
彼がそう記した文字は、やはり読めない程汚い……。それでも、あの瞬間の感動を何かに形として残しておきたい……。そう考えた彼が思いついた手段が、景華が毎日つけているという日記帳だった。彼女の新しい日記帳は、彼は未だに見つけられていない……。字の練習にもなるというから、ちょうどいいかもしれない……。そうも思った彼は、たまに日記をつけてみることに決めた。
それから、五か月が経過した。彼女はすっかり回復し、かなり前から公務に戻っていた。その細い腕に、子供を抱きながら……。
「陛下、やはり乳母を探された方が……。お疲れではありませんか?」
そう景華に訊ねたのは、天連の祖父にあたる龍連瑛、柳鏡の父親だった。彼も孫は非常にかわいいのだが、やはりその母親が一国の女王ならば、乳母に育てられても仕方ないと思っていた。
「私もそれは考えましたが、自分の子ですから、自分で育てたいんです。公務に支障が出ないようにしますから……」
連瑛の不安気な瞳が、親子の姿に向けられる。彼女に公務に支障をきたさないようにという意思はあっても、やはり休んでもらわなければ困る。
「それに、一日交替で柳鏡が面倒を見てくれているんです。信じられますか? 彼、この子をおんぶしながら近衛隊の仕事である城内の見回りをしてくれているんですよ」
連瑛も、それには驚いた。まさか、自分の息子がそんなことをしているとは……。
「それに……」
彼女の言葉が続くようなので、連瑛はまた話を聞く姿勢を整えた。
「それに天連が夜泣きしたら、柳鏡があやしてくれるんです。私には寝てろ、って言って。本当ですよ?昨日も……」
ギャーッ!オギャーッ!
夜中、赤ん坊は急に火がついたように泣き出した。公務で疲れてはいるが自分の子を放っておく訳にもいかず、重い頭で起き上がろうとしたその時だった。
「いい、あんたは寝てろ」
隣にいた彼がそう言って起き上がり、そっとその息子を抱き上げた。その様子から、子供には大分なれたようだ。そのまま自分の羽織でくるんでやって、渡り廊下に出て行く……。外は寒いが快晴で、雲一つない。戸が閉められたが、まだその泣き声は聞こえていた。そして、あの彼が信じられない程優しく息子に語りかけている声も……。
「ほら天連、月だぞ……。あまり泣いたら、お母様が困るからな……」
その言葉に、苦笑が漏れる。赤ん坊は泣くのが仕事なのだから、それはどうしようもないことなのだ。それなのにそんなことを言って聞かせる彼が、なんともおかしい……。やがてどの位経ったのだろうか、天連が再び寝付いたらしく、彼が戻って来た。息子をそっと彼用の寝台に戻してから、彼女の隣に戻って来る。
「天連、寝たの……?」
半分寝かかっていた彼女は、辛うじて彼にそう訊ねた。
「ああ、さっきな……」
「柳鏡も、すっかりお父様だね。私より天連をあやすの、上手かも……」
寝台の隣に入ってから、彼の腕が上掛けの布団を掛け直してくれたのがわかった。
「アホなことばっかり言ってないで寝ろ。あんた、明日閣議だろ?」
「うん、おやすみ……」
最後に彼女に残ったのは、大きな手がその頭を撫でてくれた感覚だった。
二十一歳、十一月二十日。今日は、父上に褒められた。なんでも、真面目に天連の世話をしているのが偉い、とか……。自分の子だから当たり前じゃないのかと思ったけど、言わなかった。父上は、母さんに任せっきりだったらしい……。仕方ないよな、俺と母さんの他に、父上には家庭があったんだから……。まあ、褒められたんだから悪いことはしてないだろ。……天連の世話は、正直言って楽しい。かわいいしな。なんでも、父上は俺に子供が育てられるのか不安で仕方なかったらしい。それで、景華に乳母を探すように言おうかとも思っていたらしかった。自分の子供信用しろよな。まあ、いいか。また何かあったら書くことにするか。おしまい。
相変わらずの、汚い、一生懸命な文字……。彼の気ままな日記帳は、今度はいつつけられるのだろうか……。
こんにちは、霜月璃音です。只今連載中の異国恋歌~風空の姫~の後書きに書かせていただきましたが、これは異国恋歌~龍神の華~のおまけです。
このお話を書いた理由は一つ、あの柳鏡に子育てなんてできるのだろうか、と私が不安になってしまったためです。きちんと頑張ってくれているようなので、良かったです。読者の皆様、お気に召したでしょうか?
またまた最後になってしまいましたが、ここまでお読み下さった皆様、本当にどうもありがとうございした。