36.神楽鈴と篳篥の音色。
「空が青いね」
「うん」
──翌日。僕とマニカは、鼎島の山の頂上にある大きな鼎さん──鼎石の祀られた祠に来ていた。午前中ともあって、煌めく海に夏の陽射しが眩しい。
祠と言っても、千と三百年前と何も変わらない。ヒンヤリとした空気が漂う薄暗い洞窟の中。けれども、あの頃と同じ様に。ここからは鼎島と海が一望出来た。潮風が心地良い……。
空と海を見つめたまま……風に靡かせた髪をマニカが耳もとに掻き上げた。相変わらず、満月の様なマニカの瞳には吸い寄せられそうだ。マニカは昨日とは違い、動きやすそうなトレッキング姿で鞄を背負っていた。マニカが帽子の鍔を少しあげてから、僕の方に振り向いた。
「眠れた?」
「え? ……まぁまぁかな? アハハ」
いや。緊張してか興奮してか。なかなか、寝付けなかった。記憶の中の摩尼伽さんや空昉さん、葉由利さんが今にも出て来そうで。
それに──。子どもの姿をした鼎さんが、大屋敷の中を駆け回る姿が目に浮かんで。懐かしい様な寂しい様な……そんな気がして。時々、目を瞑っては想い耽っていた。
けれども、現実では僕一人で。広々とした部屋に布団が敷かれ、寝かされていた。……複雑な想いがした。
そして、マニカとウタコお婆さんは別室で。これにも、複雑な想いがした。同じ屋根の下、マニカが居ると想うと……。もしかしたら、一緒に寝られる?──なんて、想像してた自分が恥ずかしかった。
真夜中には、壁に掛けられた古い振り子時計が、何度もカッチカッチ鳴り響いて。眠れる訳がなかった。刻を告げる度、ボーンボーンと……その時刻の回数分だけ鳴り響いて。僕はその度、目に焼きついていたマニカの寝間着姿が瞼に浮かんで……。やっぱり、眠れる訳がなかった。
──マニカが、背負っていた鞄を洞窟の地面に置いた。中から取り出したのは、鼎神社星夜祭りでも着ていた巫女衣装だ。
「……着替えて来るから。ちょっと待ってて。ツナグくんも……」
「そうだね。僕らしかいないけど……。今日から一週間。鼎さんの奉納のお務めを果たさないとね。着替えて来るよ」
着替えと言うと……。やっぱり僕は、昨日のマニカの寝間着姿を想い出してしまう。お風呂からマニカが上がった時も──。湿り気のある髪が艶々としてて。シャンプーの匂いがして……。それから、少し話をして。
いやいや。僕は過去世では真繋さんであって。自分の子でもあった鼎さんのお誕生日──生誕祭の為に、マニカに呼ばれて鼎島まで来たんだ。けど……。不思議なことに。ウタコお婆さんが言うには、鼎さんは双子。もう一人の子……泉さんのお祝いもすることになっていた。
──しばらく、お互い。誰も居ない洞窟の壁に隠れて。……着替えを済ませた。波の音が静かに聞こえる。
(──ザザーン。……ザザーン)
何か、誰も居ないせいで……。余計にマニカの着替える音とかが耳に響いて。僕は抑えきれない気持ちや、高鳴る胸と──自分の頼りない細い身体を気にしながら……。篳篥の奏者としての着物姿に身をつつんだ。
鼎神社星夜祭りの時の様に、烏帽子の顎紐をキュッと閉める。改めて着てみると、身も心も引き締まる想いがした。着付けは自分で出来る様に、この日の為に練習を重ねておいた。
……ちょうど、その時。マニカが岩壁から、ひょっこり顔を出して僕に声を掛けた。
「着替えられた?」
「う、うん。なんとか。一人で着付け……出来たよ」
「私も! 見て見て! ジャーン!!」
「マニ……カ」
ポカンと口を開けたまま。僕は何も言葉にすることが出来なかった。改めて見る、マニカの巫女装束の姿。朱色の緋袴に白衣。長い黒髪が白地の布で束ねられていて。頭には花簪と呼ばれる金色の冠が、飾られていて──。鼎神社星夜祭りで見たあの時のマニカそのままに……。僕の視線を攫っていった。
嬉しそうな巫女装束姿のマニカが、しばらく僕の目を見つめて。……それから、手を後ろ手に組んだままモジモジと身体を揺らしながら、マニカが話始めた。
「着付け。この日の為に練習してたんだよ? ツナグくんも……似合ってるよ?」
「あ、あぁ……。マニカも、その。似合ってるよ? まるで、摩尼伽さんみたいだな……なんて」
「あ、そうそう! 聞いてよ、ツナグくん! 歴史改変の話っ!!」
そうだ。……気になっていた。マニカの言う〝歴史改変〟の話。
僕の知っている過去世では、真繋さんと摩尼伽さんの子──泉さんは居なかった。歴史改変されたのなら、僕の記憶にも新たに上書きされそうなものだけど……。記憶に残されているのは鼎さんが生きていたこと。それは、たった一度の過去世を生き抜いた真繋さんの記憶。けれども、鼎さんは十二才の時に病に倒れて──。
──マニカが巫女装束の姿のまま静かに。まるで、幽霊みたいにスーッ……と僕に近づいた。お神楽舞いの時の足運びだろうか? 近づいたマニカからは、昨日のシャンプーの香りとか……マニカの良い匂いがして。ドキドキと胸が高鳴る。それを隠すようにして──僕は俯いてマニカに尋ねた。
「……ど、どうして? 僕の記憶には泉さんのことは」
「そうそう。その話なんだけどね? 鼎さんや摩尼伽さん、真繋さんの意識が私たちの意識と接続された時。別次元の世界が生まれちゃったみたいなんだよね」
「べ、別次元っ?! そ、そんな話って……」
「んー。上手く言えないんだけどさ? リセットされて、コンティニューされたみたいな?」
「り、リセットされて、コンティニュー?!! い、一体、どう言う……」
「摩尼伽さんが言ってたよ。鼎石の中で。何故か一度目の過去世の記憶を引き継いだまま……二度目の現世を生きてるって」
「え?! ……そ、そうなのっ?!」
「んー。やっぱり、上手く言えないんだけど。新しい記憶を引き継ぐ為には、今の摩尼伽さんや真繋さんと意識を接続させる必要があるみたい」
「い、今の? ……過去世とか前世の話なんじゃ……」
「過去世や前世のことを覚えてる人なんて、稀でしょ? 忘れちゃう人がほとんど。だから……。ま、詳しい話よりも。見てみて、これ」
「ん? ……氷?」
マニカの差し出した手に、氷の塊があった。一見、何の変哲も無いただの氷。……かと想ってたんだけど。マニカの手の体温で溶けた様な跡が無い。
「何かの石?」
「だと想うでしょ? 違うよ? 名付けて……。ジャジャーン!! 〝時氷〟!!」
「時氷……。何だか、カキ氷みたいだね? って、え? 時? 氷?!」
「そ。時間を凍らせてあるんだよ。これは、摩尼伽さんと私にしか出来ないよ?」
「そ、そうなんだ……。これも、巫女としての力……?」
「そうだね。鼎石をお守りする正当後継者としてのね?」
……何だか凄い話になって来た。これには、世界中の学者さんたちが驚くんじゃないだろうか。いや。口外は禁物。摩尼伽さんやマニカ……この鼎島や鼎石を守る為にも。決して、口にしてはならない真実なんだ。
すると、マニカが僕に更に近づいて来て。僕の右手に何かを握らせた。マニカの柔らかな手が熱くて。……マニカの髪の毛が僕の鼻先に触れた。良い匂いがした。それに、マニカの顔が近くて……。キス顔なんてしていないけれど、それは、もう本当に……近くて。このまま、唇が……なんて想うほど。話す度に、マニカの呼吸するのが感じられた。
「鼎石の中でね」
「……え?」
「手。開けて見て?」
「何……?」
「……秘密」
僕は、そろそろと自分の右手を開けて見た。冷たさも熱さも感じられない塊に……もしや、なんて想ったけれども。驚いたのは、その塊の中に透けてみえる〝中身〟だった。
「こ、これって……」
「うん。薬だよ。私が書いた処方箋もね?」
その透明な塊は──。さっき、マニカが僕に見せてくれた〝時氷〟。そして、その中に見えたのは、未開封のシートに幾つか入ったタブレット状の薬。それと、マニカが僕に渡してくれた白い紙に似た──処方箋。
……袴に施されたポケットの中にも入れてあった。思わず僕は……。保健室でマニカがくれた処方箋に、そっと触れた。
「驚いたでしょ?」
「もしかすると、これ……」
「当たりだよ。ツナグくん。その、もしか。やりとりしてるんだよ? 摩尼伽さんと」
「え?」
「時氷を使ってね?」
ふっ……と、一瞬。僕から離れたマニカが笑った。潮風に靡く髪の毛を掻き上げたマニカの瞳が、キラキラと輝く。着ていた巫女装束の白衣と緋袴も風に揺れていた。マニカの頭の花簪も金に煌めいて。
……眩しい太陽と鼎島が浮かぶ青い空と海を背にして──。風に揺れたマニカのその姿から、僕は視線を外すことが出来なかった。
「私。身体強いのかな? 風邪引いても直ぐ治ってね。この鼎島にもある小さな診療所にも一応行かされるんだけどさ。いっつもお薬を貰っても結局飲まず仕舞い。昔から。でね? 家の冷蔵庫に沢山、お薬が余ってたんだよね」
「そ、そうなんだ。冷蔵庫に……ね」
「でね? 摩尼伽さんと鼎石の中の境界面越しに話してたらさ。どうも、摩尼伽さん……鼎さんを身籠もった時に風邪引いてたみたいでさ?」
「うん……。もしかして?」
「そう。もともと双子だったんだろうね。それが、一回目の歴史改変。症状がウィルス性の風邪と似てるなーって想ったんだけどさ? ズバリ的中っ! 私の推測が当たってね? 時氷の中にお薬と処方箋、閉じ込めて摩尼伽さんに渡したの。時氷は時間を超えられるからさ。お薬飲んだら、良く効いたみたい。で、無事。双子の赤ちゃん……鼎さんと泉さんが生まれたんだって」
「そんなことが……。あったんだね。でも、良かったよ」
「でしょ? で、今が二回目の真っ只中。歴史改変。鼎さんが十二才の時」
「……そ、そうなんだ?! じゃあ、早くしないと……。でも、ウタコお婆さんが言ってたよ? 鼎さんと泉さんは、大人になって……」
「そうそう。そうなんだけどさ? まぁ、よほど酷かったみたいなんだよね。だから……追加分のお薬。余ってたしさ。早く元気になって欲しいじゃない? 鼎さんにはさ? 最初に渡したお薬は飲めたみたいだから、今のままでも充分治ったんだろうけど。心配だからさ。ね?」
そう言ったマニカが、スッ……と。背筋を凜と伸ばして、洞窟の中にある大きな鼎石と向き合った。正座をしてから一礼をして。鼎石の祭壇に置かれていた金の神楽鈴を両の手のひらで丁寧に……掬う様にして手に取った。もう一度マニカが、鼎石へと正座をしたまま頭を下げる。見とれていた僕には構いもせずに……マニカが静かにお神楽を舞い始めた。
僕は、慌てて篳篥を手に取り……途中からだけど、マニカの足運びや神楽鈴を鳴らす手の動きに合わせて、音を奏でた。洞窟の中だからなのか、とても美しく……マニカの神楽鈴の音が鳴り響いた。
(──シャン。シャン。……シャララララン……)
僕も後を追い掛ける様にして篳篥を奏でる。切なげな篳篥の音色が、やがてマニカのお神楽舞いの動きに乗る。頭の金の花簪が煌めいて、マニカの持つ神楽鈴が鳴る度に心が清められる想いがした。
きっと、鼎石の向こう側の世界で。摩尼伽さんも真繋さんも、鼎さんも泉さんも聞いているに違いない。
(──聞こえているかな? 僕の篳篥の音色と、マニカの神楽鈴の音……)
もしかしたらだけど──。お返しに。向こう側の世界で、摩尼伽さんもお神楽を舞ってくれているのかも知れない。真繋さんが篳篥を奏でて。
お神楽舞いの最中は無言のはずのマニカが、お神楽舞いの間奏の合間に篳篥を吹く僕へと振り向いて……少しだけ言葉を口にした。
「滅びなかったよね。この世界。……これで良かったんだよね?」
僕は篳篥の演奏を止めなかった。マニカへの想いを込めて……。鼎さんへの想いを込めて。鼎神社では消えてしまった鼎さんを想うと、少しだけ涙が目に滲んだ。
けれど、もう一度。生まれ変わった鼎さんを想うと……。それが、今度は嬉し涙に変わった。
僕は、マニカの瞳を見つめたまま。何も言わずに、コクリと肯いた。篳篥の演奏はマニカが、「ありがとう」って言った後も止めなかった。
──三日月の様なマニカの唇……。お神楽舞いを再び始めたマニカがニコリと笑った。静かな篳篥の音色とお神楽鈴の音が洞窟の中に鳴り響く。マニカは、この時。鼎神社星夜祭りには歌わなかった祝詞の様な言葉を口ずさんでいた。それは、とても美しく。僕は、一瞬。マニカの歌声を初めて聴いた……マニカとカラオケに行ったあの日のことを想い出していた。
〝時は紙縒て寄り沿うほどに、舞いて戻りて来る来ると。……契れて届き結ばれ紡ぐ──時は通じて鼎の石に〟
僕は篳篥に口づけたまま、音を奏でる。指先に音を感じる。見つめる視線の先には、舞い踊る白と朱色の巫女装束を着たマニカ。その前に佇む巨大な鼎石。黒き石──。
言葉も何も……もの言わぬ鼎石が、鼎島の海と空の太陽の光を吸い込む。
マニカにしか入れない巨大な鼎石が、黒いその鏡面に光を揺蕩わせていた。




