30.永遠の如く。
「しっかりしろ! 大丈夫かっ! 真繋!!」
「ん、んん……」
……暖かい。心地良い膝枕の感触。頰に触れる手の温もり。が、瞼が開かぬ。
耳に届いたのは──、摩尼伽の……声。
不覚にも夢の如き摩尼伽の柔らかき良き匂いが、疲弊しきった私の身体と心に沁みていく。
(……いつぶりだろうな。悪くないものだ。まるで母上の様な……)
葉由利を救うべく参ったと言うのに。空昉も倒れて……。力が入らぬ。
いや。私はツナグとともにこの世界ではない何処かに居たのではなかったのか? 夢……であったのか?
……私に触れられた摩尼伽の手と膝の温もりに微睡む。抗い難い。時折、額と頰を撫でられた。
しかし、重く感じられた瞼が次第に開いてゆく。ボンヤリと霞んでいた視界。
そこに──。朧気だった輪郭が徐々に鮮明になる。この様に摩尼伽を間近で見るのは初めてだった。吐息さえも感じられた。
「こ、ここは」
「目が覚めたか、真繋。空昉の〝魂抜き〟の折に倒れたゆえ、何とか結界の外へと運び出したのだが」
霞んでいた摩尼伽の顔が、はっきりと目に映る。
私に向けられた瞳が、慈愛に深く満ちていた。そう感じられた。……それは、夜空に浮かぶ満月の如く。
菩薩の様に色白ながら……整った鼻先に薄くも紅い聡明な唇。まるで、吸い寄せられる様に……。
──と、意識が定まらぬ中。摩尼伽の唇が不意に近づいて来た。ただ私は目を見開き、そして……温かな吐息に埋められた。
「むぐっ?!」
一瞬、刹那の如き刻が永遠に想われた。
暗闇──。頭上と額に触れられた柔らかな感触に包まれる。私の頰に、摩尼伽の温かな両の手が触れ、添えられていた……。摩尼伽の良き匂いに、再び私は目を瞑った。
……静けさの内に、摩尼伽の心の臓の鼓動が打つのを感じる。
そして──。この世のものとは想えぬ、深く合わさる摩尼伽の……柔らかな温もり。渇いて力無くした私の唇を包み込むように。
しかし、枯渇し疲弊しきっていた私の身体に〝霊〟が満ちゆくのは何だ? これでは、まるで……。
「カハッ! ……ハァハァ。す、すまぬ。摩尼伽……殿」
「か、勘違いするでない。そ、其方の〝霊〟とやらが、い、今にも……。消え入りそうであったがゆえ……」
「……よ、よもや、この様な回復の術があったとは」
「れ、霊とやらが其方の身体を支えておるのだろう……? な、なれば、我が霊を吹き込めば……助かるやもと想ったまで……」
「は、初めて……であったが」
「わ、私も……だ。き、気が動転……しておるな」
「まったく……そのようで、あるな……」
摩尼伽と言葉を交わした後に感じられた、不思議な感情──。
私が意識を失い倒れ……目覚めるまでの間。感じていた摩尼伽の……あの癒されゆく慈愛に満ちた〝霊〟とは。……何であろうか。
幾人もの〝霊〟に触れ、視て来た私であったが。この様な出来事に相見えたのは、初めての事であった。
そして、私が瞼を開くまでの間。……傍に居てくれたのであろう。甲斐甲斐しくも、私に寄り添う様を想うと、胸が……。
……しばらく、摩尼伽と私は見つめあった。
が、惜しむらくは、葉由利の命の刻が差し迫っている事だ。こうしては、おれぬ。
「行かねば……」
「立てるか? 肩を貸そう」
「すまぬ。空昉は?」
「〝魂抜き〟を済ませ、結界の内に待たせておる。が、真繋よ。その様な身体では。霊も充分には……」
「そうであるな。……すまぬ。摩尼伽……と呼んで良いか? 畏まるのも……身体に応える」
「……か、かまわぬ。なれば、好きに……呼べ」
恥じらいの表情──。摩尼伽の白き肌……頰が仄かに紅くなったのを見た。が、直ぐさま自身の胸まで熱くなるのを私は感じていた。……筆舌に尽くし難い。とは言え、それにしても……。
(私の事を……いつから?)
いや。摩尼伽が言う様に、私の誤解かも知れぬ。早計だ。
しかしながら。倒れたのが空昉であったならば、摩尼伽は私にしたように霊を吹き込んだであろうか?
(……いや、何を想うことがあろう。倒れたのが空昉であっても、摩尼伽は私にした様に……。いかん。今は火急の刻。葉由利の命が危ないのだ。急がねば……)
摩尼伽の肩を借りて、フラフラと立ち上がる。
摩尼伽は細く華奢な身体つきであったが……。難なく私を担ぎ上げた。摩尼伽の霊が、とても力強く温かく……感じられた。
しかし、急がねばならぬ刻に、自身で立ち上がる事さえ出来ぬとは。……面目ない。そう心で摩尼伽に呟いた。
ふと、隣を見ると。摩尼伽の真っ直ぐな瞳と眼差しが、星の如き輝きに見えた。……心を奪われた。この様な刻に、私はどうかしてしまったのであろうか。
「な、何か? ……どうかしたか? 真繋……。らしくないな」
「い、いや。何でもない。……かたじけないな。摩尼伽……」
「真繋。疑うておった私の事。……信じてくれるか?」
「今まで、すまぬ。今日の様に誰かに気に懸けてもらえた事。母上にさえ……」
「な、何を申しておる。そ、その様な事。気にするでない……」
「……信じるよ。摩尼伽の事。空昉と同じく……この身と魂を預けるよ」
「そうか……」
摩尼伽が立ち止まり、少しばかり視線を下にやった。恥ずかしげな表情を浮かべてはいたが、その後、摩尼伽は再び力強く前を向いて歩み出した。肩を担がれ、隣で見ていた私の心が嬉しくなる。もしも、これが……。いや、今は今だ。
摩尼伽と私は……。二度は通り抜けたであろう、水面の如き結界の手前まで、何とか辿り着く事が出来た。その向こう側では、魂抜きを経て幽霊になった空昉の姿が、宙に浮く遊泳の如き様を映し出していた。
「この様な刻に。愉しそうであるな。空昉は。見られているとも知らずに」
「アッハハハ! そう申すな。……真繋。良いではないか。親友であろう?」
「まったくだ」
「葉由利の事。真繋と空昉に託すが」
「摩尼伽が、私と空昉に託するのではなく。三人で……だ」
「そうか。三人……か。私も其方たちの仲間に、入れてくれるのか?」
「……もとより。そのつもりだったが?」
「……嘘を申せ。端から疑うておったのであろう? 二度も言わせるでない」
「参ったな……」
「其方の負けぞ? 可笑しなものだ……。〝縁〟とは、不思議なものだな? 真繋」
「確かに。葉由利も、そう申しておったよ。……縁か。葉由利のもとへ急がねば……」
「……そうだな。急ぐとしよう」
摩尼伽と少しばかり。水面の如き結界の前で話をする内に、僅かずつだが霊が回復し満ちてゆくのを感じた。
そして、摩尼伽の立つ後ろ側に……。摩尼伽とは違う、もう一人の霊の重なりを感じ取った。摩尼伽とは異なる似た気配。それは──。
(──あれは? マニ……カ? 来世の? 摩尼伽の生まれ変わり……)
ずっと、私に取り憑き視ていたツナグ青年の様に。摩尼伽の背後に取り憑き、こちらを視ていた気配──。
それは、刻を超えた摩尼伽が来世のマニカへと繋がる魂と言うべき存在なのだろうか。
前世の摩尼伽と、来世のマニカ。
〝超刻〟とでも言うべきか。時代、刻を越えた存在──マニカ。が、まだ、あどけない……恥じらいの笑みを浮かべた少女──。
そのマニカの薄く透明に近い儚い姿が、まるで炎が揺らぐ様に岩壁に映って視えた。
そして。……摩尼伽には今。刻を超えたツナグ青年の姿が、私の背後にも視えて居るのであろうか?
来世のツナグとマニカにも……。遥かなる時間と空間を超え──お互いの姿が、鏡に映し出される様にして──今、私と摩尼伽とともに視えて居るのであろうか。




