26.夜更けの最中に。
「カハッ! ハァ、ハァ……」
……眠っていた。眠って夢を見ていた。
が、得体の知れぬ声に耳もとで囁かれた気がした。突如として目が覚めた。寝汗が酷い。呼吸も、ままならない……。
戸の隙間より入り込む風が、ヒョォォ……と音を立てている。
い草の敷物を敷いて、固い床の上に寝ていたはずなのに……。まるで、海にでも引きずり込まれる様な身体の重たさと、気分の悪さを感じていた。
「ウッ! ぐっ! あ、あぁ……」
声が出せない。眩暈の様にクラクラと、天井の板が回る。
あたかも、その木目の渦に巻き込まれる様であった。……指先一つ動かせない。
(……誰かの〝魂〟が来ているのか。寒々しい幽霊の気配を感じる。私としたことが……)
が、足もとの方で何か声が聞こえた。
「……通してくださいませぬか? 御用があって参りました」
「ならぬ。……去れ」
「我らの贄になりたいのか?」
「まぁ、なんと恐ろしいことを……」
──私の式神の右鬼に左鬼。それに、夢の中で聞いた女の声。
……幽霊が式神に怯んだのか、動かせなかった首から下が、鎖の枷から外された様に軽くなった。
い草の敷物から身を起こし、私の目に飛び込んで来た気配──。
そこには、右鬼と左鬼に胸ぐらを掴まれた女幽霊の姿があった。
髪の先が肩の辺りで綺麗に切り揃えられている。整った顔立ち。儚げな佇まい……。
その消え入りそうな女幽霊の足先が、ブルブルと震えている。幽霊と言えども、心情は目に見えて感じるものだと……少しばかり眺めていた。しかし、海で遭難して死にかけた疲労と眠気のせいで、私は床に臥せ入りたく仕方なかった。
「……すまない。が、こんな夜更けに何用かな? 私を誑かしに来たのか? 或いは嬲り殺しに来たのか?」
「返答次第では、我らが其方を喰らうが……」
「……真繋様の糧になれ」
「まさか……。誑かしなどと。それに、嬲られ辱めを受け、今にも食べられそうなのは私の方です。〝霊術師〟の真繋様ならばと想い、参りましたのに」
「その名。誰から聞いた? それに気丈だね。まるで、誰かさんみたいだ。名は何と申すのだ?」
「……魂。喰らう」
「女。美味い……」
「はい。〝葉由利〟と申します。真繋様の事は、姉君の摩尼伽から聞いております」
「やはり……。で、用とは何だね? 眠くて仕方がないのだが?」
「……申し訳ありませぬ。この姿では夜しか動けぬのです。……そうですね。御用と申し上げますのは……」
「さては、葉由利の君……。死んでは居ない様だね? 足もとから〝魂〟の臍の緒が垂れている様子だが?」
「はい。不思議な事に、元の身体の私は熱に魘されている様なのですが……。数日前より私の意識が抜け出たまま、元の身体へと戻れぬのです」
スルスルと……。月明かりに視えたこの部屋の暗がりに、幽霊の葉由利の足もとから臍の緒の様な紐が、廊下の方まで延びていた。
(……おそらく、葉由利の肉体へと繋がっているはず。辿れば良いのだろうが、何せ私とて疲労困憊。式神の〝霊〟を練るのもままならぬ。が、葉由利の魂を長らく肉体に帰さぬ訳にもいかぬ。このまま放っておけば、いずれ……)
しかし、幽霊の葉由利の姿と、重なる様にして視える気配が一つ……二つ。
〝陰陽〟で用いる薄い〝人形〟の紙が重なり合うのと同じ様に──。何か、こちらを〝覗いている〟気配たちが居るのを感じた。それは先刻、摩尼伽に感じたのと同じ様に。
「君は、幽霊でありながら別の何かに取り憑かれている。そう感じないか?」
「姉君も同じ事を申しておりました。〝鼎石〟の中には鏡の様に隔てられた〝隔離世〟……と申しましょうか。その様な場所が御座います。そのせいでしょうか」
「……なるほど。しかし、〝鼎石〟とは? 何処かで聞いたか……。〝隔離世〟とは〝常世〟であろうか……」
「はい。分かりませぬが、その様に申し上げる事しか……。ただ、私が身体から離れてしまった刻より、ほどなくして。姉君の住まう〝鼎石〟の中の世界が二つに」
「〝鼎石〟に〝住まう〟? 石の中に、摩尼伽様は入られると申すのか?」
「左様に御座います。この島の北に位置します険しき山奥には、〝鼎石〟と呼ばれる巨大な〝黒き石〟が御座います。その中に私も……」
「私も? ……待て待て。其方たち姉妹は、その〝鼎石〟とやらの〝石の中の世界〟へ出入りが可能だと? 摩訶不思議な……」
「私と姉君だけに御座います。昔から島の者たちは皆、〝神〟としてその石を敬い崇め……奉っておりました」
「なるほど。驚いた。目が覚める様であるな……」
「そこで見たのです。まだ、この世には存在しないはずの誰かの〝魂〟を」
「この世には存在しない? 魂? その〝鼎石〟とやらの中でか」
「はい。最初は夢か現か、見まごう幻の様でした。しかし、今ははっきりと。私からも視えますよ? 真繋様の後ろにも……」
「やはり……か。右鬼に左鬼。離してやれ」
「御意……」
「畏れ多くも……」
疑り深く小心者の私は、ようやく幽霊の葉由利から手を解く様……。式神の右鬼と左鬼に令を下す事が出来た。疲労と眠気とで、〝霊〟が保てぬのも理由であったが。
胸ぐらから鬼の手を解かれた葉由利は、幽霊でありながら、疲れている様に視えた。警戒が過ぎたかと、私は想うばかりであった。
「すまぬな。私とて小心者なのだ。しかし、葉由利の君……。何故、そうまでして私に? 明朝には摩尼伽様と私は君のために会う約束をしていたが? 肉体から遠く離れては、元の身体に戻れずとも〝霊〟の消耗が激しいはず」
「仰る通りに御座います。しかしながら、この目でしかと見届けておきたかったのです。目の前の希望に、逸る気持ちを抑えきれずに」
「ハハ……。気が強いな。摩尼伽様に負けず劣らずとみえる。死んでしまっては、元も子もなかろうに……」
「……その時は、姉君が〝鼎石〟の力を用いて何とかして下さりましょう。〝時の力〟。遡る事も進む事も……」
「畏れ入る。少し謎は解けたが……」
「こうして直接会いに行けば、姉君を挟まず本来の〝真繋様〟のお姿が見えると言うもの」
「なるほど。これは、参った……」
多くの言葉を幽霊の葉由利と交わした私は、とうとう〝霊〟の限界を迎え……。い草で編まれた敷物の寝床へと、獣の毛皮をかぶり臥せ……目を瞑った。
よもや、葉由利の君が幽霊であろうとも、私を襲うことはあるまい。そう想う。
隣では、相変わらず僧の空昉が、巨漢に大鼾を掻いて──。事の一部始終に全く気づく様子も無く、深い眠りについていた。
「ぐぉぉ……。ぐぉぉっ!」
「全く、図太い奴だよ。空昉は。君も早く帰った方が良い。疲れたろ?」
「えぇ。確かに気疲れはしましたが。どうも幽霊と言うのは眠らずとも良い様なのです。それはそうと……。隣の御方、真繋様のご友人にして御坊様に御座いますか? 剛胆な御方なのですね?」
「いやいや、どうなんだか。全く持ってその通りだとも言いきれないんだが。……凸と凹。私と空昉は、なんだかんだで気が合うのか、何時も一緒に居るんだ。不思議だよ」
「まぁ……。私と姉君と同じなのですね。これも、〝縁〟……でしょうか」
「あぁ……。まったくだよ……」




