24.傍らに居る気配。
僧にして巨躯の空昉が、慌てふためくのを他所に……。私と摩尼伽との間に沈黙が流れた。……十を数えるほどの刻。
漆黒の膳と雅な朱色の椀に、蝋燭の灯りが映る。視界の端には、額の冷や汗を拭う空昉。そして、目の前には男の様に胡座を掻いて座る摩尼伽が、頬杖をついて私を見つめている。
が、長く束ねられた黒髪を時折肩に触る仕草と言い……。胸から腰に掛けて流れるなだらかな輪郭の線と言い……。摩尼伽の身体に流れている〝霊〟は、〝月〟。──つまり、見れば視るほど〝女〟であった。
そして、他にも不可解な点が二つほど。摩尼伽には、この世ならざる〝気配〟を宿している様に視えた。
「……不可解だな。なぜ、真繋の霊が抜け出ておる? それに、何だ? 其方の両隣に居座る異形の鬼たちは? 引っ込めてはくれぬのか? これでは、まるで私が脅されているみたいではないか」
「い、異形っ?! ま、真繋っ!?」
私と何時も行動を共にする空昉が驚く、異形の鬼──。それは、私の陰陽の〝秘術〟が一つ。〝式神〟だ。漂着した夜の砂浜で、兵の者たちに囲まれる少し前から練っておいた。
しかし、驚いた。常人には視えぬはずの〝霊〟が、摩尼伽には視えている。が、それ以上に驚いたのが、私と似た者が背後に居るとか、私の霊が抜け出ているとか……。自覚は無い。自身の霊が肉体から乖離すれば、肉体は意識を失い倒れるはず。
(確かめたいが……。隙は見せたくないな)
い草の畳の敷物に片膝を立てて座る目の前の摩尼伽。蝋燭の炎の明かりに照らされ、不敵に笑っている。私の式神が視えているにも関わらず、臆さぬその様子。女の如き華奢な身体に見合わず、肝が座っている。体躯だけは人の倍近くもあろうに、臆した空昉の様子とは明らかに対称的であった。
が、摩尼伽が私を視るのとは逆に。私には常人には感じ得ない気配を摩尼伽に視ていた。
「それは、私とて同じです。摩尼伽様の背後には、まるで貴方様から抜け出たかの様な少女の霊と……。それと、得体の知れない〝何か〟。〝闇穴〟とでも申しましょうか? 黒くて深い……全てを呑み込む闇の〝霊威〟を感じます」
「霊? ……少女? 闇……。ハハ!! 倭人の顔つきだが其方は、唐から来た〝霊術師〟と言う訳か? 面白い。では、お互いの情報交換と参ろうか。これで、心置きなく膳の上の食物が喰えるな?」
「はい。では、改めまして。……有難く頂戴致します」
「はぁ……。これで、やっとこさ飯にありつけるのかよ。……疲れるぜ」
摩尼伽の身体に流れる〝霊〟を視つめる。敵意は無い──。それと、殺気も……。
しかし、摩尼伽の背後に視える〝闇〟の正体が解らぬ以上、式神を解く訳にはいかぬ。とは言え、腹も減ってはいるし、早く寝床にも就きたい。
先刻は、私の〝式神〟を視て脅されていると言った摩尼伽ではあったが、どちらかと言うと脅されているのは私の方だった。
(摩尼伽の背後……〝闇〟の〝霊威〟。得体が知れなさ過ぎる……。何か少女の霊と関係があるのか? それに、私の霊とは……?)
疑問を感じつつも、手を合わせてから箸を持ち……。膳と椀に盛られた海の幸を頂く。冷め切ってはいたが、噛めば噛むほど、口と腹の底から幸せと喜びが広がり沁み入る。
しかし、摩尼伽の言う私の背後に居る霊とは気になる。が、辺りを見回しても何処にも見当たらない。感じる事さえも出来ぬ。自身の背中は、鏡を──つまり、何か特殊な手立てを用いねば視えぬと言う訳か。
「旨いのぉ! うまいのぉ! 真繋よぉっ! 腹に沁み入るのぉっ!!」
「まったくだ。空昉。有難い……。摩尼伽様。この一飯のご恩には必ず報い、礼を尽くしたく想います」
「……そうか。なれば、まず一つ。私に似た少女の霊とは何だ? 食べながらで良い。霊術師の其方から視て、何か分かるか?」
「いいえ。しかし、摩尼伽様が私たちに〝縁〟を感じ取ったと仰った様に、摩尼伽様と少女の霊には深い縁を感じ得ます」
「ふむ。……実はな。其方が、ここに参るより数日前。ほどなくして、妹の〝葉由利〟が熱を出して倒れたのだ。魘されたまま目覚めぬ。其方ならば何か分かるかと想ったのだが」
「病ですか。怨霊の祟りか生き霊の仕業なれば、祓う事は可能ですが。一度、葉由利様のご容態……看せて頂けますか? 私は摩尼伽様の背負う〝闇穴〟に、深い呪いの様な因縁を感じ得ますが」
「呪い……か」
「摩尼伽様! 何だか分かりませぬが、この空昉! 真繋の様な祈祷師ではありませぬが、僧侶であります故、仏の加護にてお守り致しましょうぞっ!!」
「祈祷に、霊術……。それに、仏の加護。頼もしいな。やはり、其方たちを匿っておいて良かった。まぁ、喰ったら寝るが良い。疲れたであろう。寝床の用意は下女たちにさせておく」
蝋燭の灯りが、暗闇に時折揺らぐ。不穏な空気が漂い始めた中、膳の上の海の幸を平らげつつあった空昉の語気が場を明るくした。
摩尼伽が、自身の傍らに置いてあった徳利を手に取り、片膝を立てたまま盃に注ぐ。酒であろうか……。同じものが、私と空昉の膳の上にも置いてあった。が、空昉が躊躇いもなく徳利に口をつけ飲み干している。盃にも注がず、僧侶であるにも関わらず……だ。
「おい……。空昉よ。良いのか? 僧侶であるにも関わらず、肉に酒とあっては少々出鱈目が過ぎるのではないのか?」
「ハハ! 真繋よぉっ!! 酒は〝般若湯〟と言ってな? 悟りと解脱の一助となる神聖な飲み物!! それに、真繋の言う〝霊〟とやらを高める作用がある!! ククク……。博識な真繋でも知らなかったと見えるが? 如何に?」
「あぁ……。知らなかったよ。空昉。初耳だな。だいぶ、酔いが回って来てるんじゃないのか?」
「ガハハ!! 真繋、何を言うておる!! これからぞっ!! あ。酒のお代わりは、もう無いのかなぁーとっ」
「いい加減にしろよ? ……空昉」
「ワハハ! 真繋って、怖ーい! 怖や怖や……」
「チッ! 何が、怖や怖やだ。ふざけるのも、たいがいにしろよ?」
「アッハハハ!! やはり、愉快な奴らだな。真繋に空昉。其方らを見ておると飽きが来ぬわ。で、空昉よ? 酒の代わりは用意してやるが、明日から我らに尽くすのだぞ?」
「ハッ! 合点承知の助っ!! この空昉めが、摩尼伽様の篤きお心に見事応えて奉りましょうぞっ!!」
しかし、空昉も酒に酔うとは呑気なものだ。それに、あろうことか目の前に居る摩尼伽でさえ、妹が倒れていると言うのに、酒を呑む始末。合点がいかない。
そして、相変わらず……。摩尼伽の背負う〝闇穴〟に不吉な〝霊威〟を感じる。
やはり、少々〝霊〟は消耗するものの、式神は解く訳にはいかぬ。寝食の最中であってもだ。
摩尼伽の背後に視える少女の霊は、不可思議ではあるが──。見立てるならば摩尼伽の肉体から乖離した〝霊〟と言うよりも、鏡の中に隔てられて映る〝魂〟そのもの。
もしかしたらだが、〝闇穴〟の呪いを解く鍵に成り得る兆しと、私は感じ得た。
「……摩尼伽様。摩尼伽様ほどのお力があれば、何も私どもに頼らずとも妹君の〝葉由利様〟をお救いになられたはず。何か出来ない理由があるのですか?」
「流石だな? その事については、何度繰り返しても同じ結果になるのだ。が、其方らに相見えたのは今回が初めてだ。夜も更けては、事を運ぶのに適さぬ。日が昇れば、また話そう……」
そう言った摩尼伽が、フラリと立ち上がる。まだ、さほど酔っては居ない様に見えたが、背後の〝闇穴〟にズブズブと片脚を突っ込む様にして消え入る。これには、私も空昉も驚き、目を疑った。
「ま、真繋……」
「あぁ……。とんでもないな。〝陰陽の理〟を持ってしても解らぬよ」




