22.千と三百年前。
「真繋よ! 真繋っ!! 大丈夫かっ!? しっかりしろ!!」
「く、空昉なのか……。ウッ! こ、ここは……?」
(ザザーン……。ザザーン……)
夜──。辺り一帯の暗闇。波の音。
濡れた体……。着物が海水に浸されている。長時間、潮に流されたのもあって重い。疲労が凄まじい。身体中が痛む。……震える。
意識が朦朧とする。霞んだ視界。手には砂に触れた感覚がする。
──月影に松林の浜辺が広がるのを幽かに見た。
……途中、空昉の念仏と私の名を呼ぶ声が、何度も聞こえた。大破した木造船の破片に、しがみついているのが精一杯だった。この砂浜に辿り着くまで……。
私と空昉は、唐より船に乗り込み、本土への帰還を目指していた。はずだった……。
(どうやら、助かった様だ……。空昉は……私より元気そうだな。……これも、神仏によるお導きか)
海上で嵐に遭い──。私たちの乗る船が難破。そこからの記憶が無い。私も他の者たちも死んだものとばかり想っていた。
だが、違った。
……そして、今際の極に見た夢。まるで、別世界の夢物語の様であった。夢の中で、私は繋と名乗る青年であった。今の私よりも少し年下の様に想えた。空昉は、空也と名乗る青年で、今と変わらぬ私の親友であった。
けれども、断片的な記憶がところどころ想い出せるものの、夢の全ては想い出せなかった。やはり、夢とは儚い……いつしか消えてしまうものなのかと、ボンヤリと想っていた。
「よっと! 歩けるか? 真繋!」
「あぁ。大丈夫だ。流石に空昉は頑丈だな」
「肉喰ってるからな! 肉!! ガハハ!! 例え、僧であっても肉は喰っておかねぇとなっ!!」
「ハハ……。僧侶として、とても褒められた発言ではないな。だが、神仏も今日ばかりは許してくれよう……」
僧侶にして屈強な体躯の空昉が、倒れていた私を起こしてくれた。
……どうやら、私と空昉は何処かの孤島に漂着したらしい。親友の空昉が無事で良かった。空昉の僧侶としての祈りが通じたのであろうか。
「……それにしても、真繋の陰陽の占術。ドンピシャじゃねぇか? なのに、上のヤツらと言ったら……」
「あぁ。まだまだ、官位の低い私の言葉など、上の者たちには通じぬ。が、易では私たちの一番船ならば、ギリギリ助かる命運だった」
「それもこれも、真繋の陰陽の呪いのおかげだなっ! ガハハハ!!」
空昉が、私の肩を担いで夜の砂浜を歩く。
一歩、一歩……。どんな時でも、明るい空昉には救われる想いがした。が、これから……この島で一夜を明かさねばならぬ。しかし──。
「空昉。他の者たちは?」
「流されてんな……。俺たち以外、見当たらなかったよ」
「……そうか。夜の海は……とても冷たかったな。これも、命運……なのか」
「仕方ねぇよ。上のヤツらが無理を通したせいだ。俺たちの命なんて軽いもんだよ。それより……」
立ち止まった偉丈夫の空昉が、ずぶ濡れの自分の袈裟に腕を突っ込み……。何やらゴソゴソと手を動している。
──私と空昉だけが立つ月夜の浜辺に……波の音だけが絶え間なく響いていた。ボンヤリと三日月が雲間から顔を覗かせて、私たちを照らしている。
しかし……。僅かな月明かりと霞んだ視界では、よく見えなかったのだが……。だんだん暗闇に慣れて来た目を凝らすと──空昉の腹の袈裟が、赤子を身籠もった母親の様に膨れ上がっている。
すると、空昉はその剛腕で自分の袈裟から、見覚えのある重そうな大きな木箱を軽々……片手で掴み取り出した。
それは、命にも代え難い……私の大事なものだった。
「ほらよ! これ。真繋にとっちゃあ、命に等しいもんだろ?」
「……に、『日月の聖典』! な、流されてなかったのか……」
「あぁ。大事に真繋が抱えてたぜ? 倒れてるのによ。密閉した米びつに巻物を入れといて正解だったな!」
皆の命は救えなかったが……。胸に光が差し込む想いがした。
『日月の聖典』──。それは、唐で学んだ〝陰陽道〟の極意が記された巻物であった。それだけは、何としても国に持ち帰らねばならぬと想っていた。
──唐での学びの日々が逡巡する。苦難の日々ではあったが、得るものは多く価値あるものだった。
独り身だった私は、そのまま残っても良かったのだが……陰陽を極めてからは望郷への想いが募った。
そして、帰還の令。願いは叶った。ようやく訪れた乗船の機会。だが、この有様だ……。
(ピィィィ……! ピィィィ……!!)
私が俯いて、空昉に肩を担がれたまま感傷に浸っていると──。夜の波間に被さる様に、重なる口笛の音が、幾重にも鳴り響いていた。
暗闇の砂浜の奥に広がっていた松林の影からは、松明の様な明かりが……。点々と灯り、集まる。
「ヤバいな。真繋……。どうするよ?」
「どうするも、こうするも……。即刻、縛り首じゃないのか? 侵入者は」
喜んでいたのも束の間。希望の光は、あっさりと潰えた。せっかく、助かった命だと言うのに……。
夜の松林の闇に、どんどん松明の炎の明かりが集まる。そして、甲冑を着て武器を手にした人影が、次々と目の前の砂浜に集まって来た。万事休すとは、この事だ。
(ザッ……ザッ……)
複数の松明の明かりを灯した人影が、ゆっくりと……。浜の砂地を踏む足音が嫌でも耳に聞こえた。
「おぃっ! 真繋! お前の〝陰陽〟の力で何とかならねぇのかよ!」
「そんな事をしてみろ……。余計に事が大きくなる。今は静かに大人しくだ。対話をすれば言葉で分かるだろ?」
「いや、ここが、何処の国の島かも分かんねぇじゃねぇか! 敵認定されたら、どうすんだよっ?!」
「落ち着け、空昉。その時は……」
どんどんと、松明の炎が揺れる大勢の人影を前に……。私と空昉は、小声でヒソヒソと耳打ちした。
朦朧とした頭ではあったが、もしもの時に備えて〝秘術〟を放つための〝霊〟を練る。
〝霊〟は、常人には目に視えぬもの。窮地を切り抜ける自信はあった。
──その人影の中から一人。
長身に鎧兜を纏う隻眼の男が、長槍の矛を私と空昉に向けて近づいた。後ろでは、弓矢を引いた多くの兵の者たちが幾人も居る。囲まれた。
「防人からの知らせを受けて来たが……。大男に痩せ男の二人だけか。と、見せかけて他に潜んでは居まいな? 見たところ年は若そうだが? 君たちは、唐の者か? それとも、新羅の蛮族か?」
「待って下さい! 私たちと貴方たちの話す〝言葉〟は同じ祖国の言葉です。唐より木造船に乗り込み、本土への帰還を目指しておりました。〝証〟は漂流した際に無くしたのですが……」
「真繋……」
「〝証〟は必要ない。言葉を巧みに操る者も居ると聞く。倭国の使者であっても信用がおけぬ……」
そう話した男の言葉は、多少訛りはあるものの私の祖国と同じものだった。とは言え、〝陰陽〟の〝霊〟は緩めない。男は、私たちを捕縛するか、場合によっては殺すつもりだろう。
……私と空昉に向けられた長槍の矛先が、ジリジリと喉もとに迫る。が、その時──。
「待て! ……峰高。この者たちは、見るからに夜の海で遭難した者たちではないか。大破した木造船の破片と積み荷が、幾重にも流れ着いたとの報告があった。それに浜辺に漂着した幾人もの亡骸。生き残ったのは、この者たちだけと見える」
長身の男の影から、スッ……と。その一切の気配を隠していた所作に、揺るがない〝霊〟の流れを感じた。私と空昉の目の前に現れたその男。……いや、男と言うには、あまりに面妖な美しさがあった。
聡明な顔立ちに、鋭い眼光を宿した満月を想わせる瞳。そして、幾つもの修羅場を搔い潜ったであろう頬の傷跡。しかし、男と言うには少し華奢な気がした。着込まれた鎧兜よりも、何故か艶やかな着物が似合いそうに想えた。
「摩尼伽様が、そう仰るのならば。では、浜に漂着した積み荷は、如何様に致しますか?」
「……峰高。まずは、島長に現状を報告するのが先だ。積み荷の確認は、それからだ。が、万一に備え……見張りは強化しておけ。では客人たち、こちらに参られよ。ゆっくりと話を聴きたい。傷の手当ても施そう」
(……ま、摩尼伽?!)
私は、何処かで聞いたその名に戸惑いを覚えた。
確か、夢の中で出会った者が一人。同じ名前を持つ少女が、私を〝繋の君〟と呼んでいた様に想えた。
既視感──。
私と空昉にクルリと踵を返して……。ゆっくりと、月影の落ちる砂浜を踏み締めて歩く。その後ろ姿から、私は目が離せなかった。星が夜空を流れ落ちた時の様な、儚げな線の細さを想わせる。背中には、美しい黒髪が流れ落ちていた。




