20.交換条件。
夜の鼎神社境内──。
……倒れたままの僕は、信じがたい光景を目の当たりにしていた。
僕には霊感とか、そう言った類のものは無い。けど──。
傍で倒れていたマニカの身体から、もう一人のマニカが抜け出ている。身体が透き通っていて、神社境内の樹々とか……夜の闇が、マニカの身体の向こう側に透けて視えた。
鼎さんと僕とマニカ──。三人の間に、冷たい空気が流れる。時が止まった様な夜の静寂が、人の気配の無い鼎神社を包んでいた。
……何かを言おうとして、マニカの噤んだ唇が震える。その透き通った身体には、夜空に浮かぶ満月の光が映っていた。
しばらく、沈黙が流れた後──。マニカが、声を震わす様にして、口を開いた。
僕とマニカは、鼎さんから……ある交換条件を受けていた。
「……それじゃあ、ツナグくん。私、いくね」
「え? ま、マニカっ!」
「そうそう。もの分かりが良いよね。マニカは。話が早くて助かるよ」
葉月の姿をした巫女装束の鼎さんが、唇に笑みを浮かべている。そして、そのままフワリと浮いて、抜け出たマニカの透き通る様な手を取った。
「ま、マニカっ!」
「大丈夫だよ。心配ないから、ツナグくん」
「ツナグ……。君も少し考えてくれないかな? 何も誰かが死ぬ訳じゃない。意識と身体を共有するだけ。僕だって父上や母上に会いたい。君も分かるだろ? 葉月の意識と身体も元通りに……」
「ぐっ!」
鼎さんが、僕とマニカに出した交換条件は──。
葉月とマニカと僕。三人の意識と身体を、鼎さん自身と鼎さんの両親にそれぞれ共有させて……。三柱の魂を現世に呼び戻すことだった。
そして、その見返りとして……。地震や火事などの厄災は、全て無かったことにする。それぞれの肉体が朽ちるまでは、半永久的に幸せを約束する──と言うものだった。
「僕だって、君とマニカ、葉月と空也のことは大好きなんだ。傷つけたくはない。今まで沢山、人間の願いを叶えて来たんだ。一度くらい、僕の願いを叶えてくれたって良いだろ?」
透き通った身体のマニカの手を取り……。振り返った鼎さんが、葉月の顔のまま白金の髪と金の瞳で僕を見下ろす。
「あ、そうだ。ツナグ。さっきは、取り出すなんて言っちゃったけど。一時的に魂の状態を引き上げるだけだから。僕と会話出来るくらいにはね。だから、心配しないで」
そう言い残した鼎さんが、巫女装束のまま透けた身体のマニカを連れて──。開け放たれた格子扉の向こう側の黒く渦巻く『時の揺らぎ』の世界へと入っていく。
マニカとは違い……。まだ、意識が肉体の中に留まったままの僕は、鼎さんとマニカに向かって叫ぶしかなかった。
「待って!」
「気が変わったのかい? 君も来ても良いけど、一人ずつ……順番だからね。決心がつかなきゃ、意識は肉体を出られない。マニカの儀式が終わるまで、そこで待ってると良いよ」
(──ズズズズズ……)
透明に近い身体のマニカが、俯いたまま。鼎さんとともに『時の揺らぎ』の世界へと入っていく。
鼎さんは、あぁ言ったけれど。……後のことや、未来のことは、保障なんて出来ない。未来が保障されるなら、誰もが幸せになれるはずだ。僕は、鼎さんの言葉が信じられなかった。
もしかすると──葉月もマニカも、意識を呑まれて帰って来れないかも知れない。仮に帰って来られたとしても……それは、もう、僕の知る葉月とマニカじゃないかも知れない。
そんな想いが、不安や恐怖に変わり──僕の心を引き裂いた。
「マニカーっ!!」
そう叫んだ僕の声が、夜の鼎神社境内に広がり虚しく木霊する。
一瞬。
僕の声に振り返ったマニカが、悲しげな笑みを浮かべていた。
♢
気がつくと──。外で倒れたはずだった僕は、暗闇の『時の揺らぎ』の世界で立っていた。後ろを振り返ると、黒と銀色の混じる渦のような空間が閉じようとしていた。
「マニカ……」
僕は、踏み込むしか無かったんだと想う。あのままじゃ、居ても立っても居られなかった。マニカと鼎さんを追う以外には……。
(ボッ、ボッ、ボッ……)
神社のセンサーライトの様に、僕の動きに反応した松明の様な炎の灯りが、辺りを照らす。
フワフワと足もとが、おぼつかない──暗闇の世界。
今の僕は、俗に言う『霊体』なんだろうか……。
回廊──。そう想わせる様な道の両隣に、点々と灯る炎。白い煙が、ドライアイスの様に足もとに漂う。
一寸先は闇。炎の灯りと、白い煙以外には何も見えなかった。この先に、マニカと葉月の姿をした鼎さんが居るのか不安になる。
……しばらく、歩いた。まるで、浮遊している様な感覚。けれども、行けども行けども、辺りの景色は変わらない。
〝僕一人の孤独な世界〟──そう言った鼎さんの言葉を道の途中、想い出した。何年もの間、気の遠くなる様な時間を一人で過ごして来たんだろうか。耐えられない孤独と不安が僕を襲う。ヒンヤリと感じた暗闇の冷たい空気に、ただ震えるしかなかった。
……歩く度、だんだん意識が遠のいていく。視界には、暗闇の道の両端にボンヤリと浮かぶ……松明か火の玉の様な炎が霞んで見える。このまま、僕は──。
(──声? 鼎……さん? マニカと……)
まるで、洞窟の中で響く様に……。その時、二人の話し声が、幽かに聞こえた。
「僕と一緒に鼎石に封印されてた母上は、天命でもある魂の滞在期間が過ぎちゃってたんだよね。母上の真似してマニカに話掛けてたのは、僕。騙したみたいで、ごめんね」
「知ってたよ。前にも言ったけど、それとは別に鼎さんのお母さんの気持ちは感じるから。今も……」
「……母上。そうだね。言葉は聞こえないけど、懐かしい母上の温もりをマニカから感じるよ……」
……幽かな声がした方向へと進む。内容までは、分からなかった。浮遊しているはずの足もとが、重く感じた。
暗闇の道の両端に浮かぶ、点々と灯る炎の明かり。
近づくにつれ、だんだんと二人の姿が鮮明になる。
(──マニカ! か、鼎さん……)
何をどうすれば良いんだろう。本当の意味で。鼎さんと僕らを救う手立ては?
──分からない。無い……。
分かっていたけれど、今はマニカと鼎さん──二人へと歩み寄ることしか考えつかなかった。
それでも、繰り返し考え続けた思考の中。僕の存在に気づいた鼎さんとマニカを見つめて、僕は立ち止まっていた。
一瞬の合間。沈黙の時間……。
暗闇に灯る炎の明かりの下で、振り返った鼎さんとマニカが、僕を見つめ返していた……。
「やぁ、ツナグ。決心がついたようだね。マニカを見てると、母上の姿を想い出したよ。それと、かつての僕自身の姿もね」
「じゃあ、葉月の意識を依り代にしなくても良いんじゃないのか? それに、マニカは、君のお母さんなんかじゃ……」
「……なんか? 僕の母上は、マニカの中には居ないって言いたいのかい?」
「ツナグくん。大丈夫だよ。それに、鼎さんのお母さんは、確かに私の中にいるから……」
「え?」
耳を疑うよりも──。マニカは、ずっと自分の中に居る鼎さんのお母さんの声を聞いていた? まさか……。
けれども、マニカの言葉に何処か腑に落ちた感覚を覚える。これまで、マニカが自信に満ちた様子だったのも納得がいった。
「母上……か。マニカに直接会うまでは、とうに忘れていたよ。『時の揺らぎの世界』は残酷だ。時が経つにつれ、母上の声も姿も思い出せなくなった。ずっと長い間、奪われたままだった。そして、いつの間にか……この『鼎石』の中で、母上の温もりさえ、僕の記憶から消えていたんだよ」
「けど、葉月は、関係ないじゃないかっ! 今のマニカだって……」
「葉月は……。鼎石の中に居た僕に願ってくれたよ。お神楽舞いの最中にもね。マニカも聞いたよね? 葉月は、ずっと僕の傍に居てくれるって」
「そうだね……」
何処からか風が吹き──この暗闇に灯る火の玉の炎の灯火が……悲しく揺れている。そう見えて仕方がなかった。
寂しげな鼎さんに……僕もマニカも、それ以上何も言えなかった。




