10.保健室。
──あれから、どれくらい時間が経ったんだろう……。
暖かい陽射しが窓辺から入る南向きの部屋。見慣れた天井の材質、白色のコンクリートの壁。白い衝立が、シーツ越しに見えた。どうやら、僕は──保健室で寝かされているらしい。……アルコールとかの消毒液の様な薬品の匂いがする。
(痛っ……!!)
頭が痛い。それに記憶が曖昧だけど、教室の床に倒れた時に何処か身体をぶつけたみたいだ。鈍い痛みを身体に感じながらも、まだ気分の悪さで頭がクラクラする。
(マニ……カ。うっ! ハァハァ……気持ち悪い)
マニカのことを想い出そうとすればするほど、何故か気分が悪くなる。けど、今ここに居るのは、既視感じゃない。高校の保健室のお世話になるのなんて初めてのことだ。中学じゃ、体育祭の練習で骨折した時に運ばれたこともあったけど。
──ちょうど、その時。
壁掛けの円盤状の時計の針が、十二時を迎えようとしていた。ベッドの上で横になっていた僕は──あぁ、まだ、そんな時間なんだって想った。
(キーンコーン、カーンコーン……)
ほぼ、チャイムの音が鳴ったのと、同時だったと想う。
勢い良く保健室の出入り口の扉が開けられる音がして──、聞き覚えのある足音が、ドカドカと僕に近づいて来た。空也だ。
「……繋!!」
「空也……」
ハァハァ……と。息を切らした空也が、焦った様な表情を見せていた。こんな顔した空也を見たのは、初めてだ。潔い短髪にした空也の、勇ましいいつもの雰囲気とは、だいぶ違っていた。
「どうなんだよ、繋。めっちゃ心配したぜ?」
「ハハ……。ごめん、空也。なんか、倒れちゃってたみたいだね?」
「倒れちゃってたじゃねーよ。一時は、どうなることかと……」
空也の言うとおりだ。
僕は、さっき目が覚めた訳だけれども──。その間、何の記憶も無い。夢さえもみてない。マニカのことさえ……。
そう言えば、さっき目が覚めた時。僕以外、誰の気配も感じなかった。こう言う時って、保健室の先生とか、担任か誰か──付き添いの人が、居るんじゃないだろうか。
保健室に居るのは、どうも僕と空也だけみたいだった。静かな保健室の外で、体育の授業を終えた他の生徒たちの声が聞こえる。
「なぁ、繋?」
「なに?」
「さっきは、繋。……おかしかったぜ?」
「なにが?」
「何がって、漫画かアニメのヒロインの女の子の名前……叫んでたじゃねーか」
「漫画でもアニメでも無いし。マニカは……痛っ!」
「繋……? 悪ぃ。まだ、安静にしてなきゃだよな」
心配そうにしながらも、何処か困惑した表情を見せる空也。いや、でも……。
仮に、仮想だったとしても、現実だとしても。まだ、マニカが居なくなったって決まった訳じゃない。
僕は、どうしても信じられなかった。その内、マニカが、ひょっこり現れる様な気がしていた。あの時の様に。あの時だって、何の前触れもなかった──。
──いや。夢を見ていた。マニカと神社で出会う夢。鼎神社……。マニカが、鼎さんって呼んでた場所。鼎さんは静かに聴いてるって、マニカが言ってた。そう。今朝だって……マニカと会う夢は、見ていたんだ。
「う、うぅっ……」
「だ、大丈夫かよ、繋? 早退して、昼から病院行った方が良いんじゃねーか?」
確かに。
これ以上、空也に言っても……。なぜか、この世界じゃ、マニカが最初から居ないことになってるし。うぅっ……。頭が痛い。クラクラする。けど、マニカは──。
僕が、頭の痛みを抱えながら、ベッド上で半身を起こしていると、困惑した表情の空也の後ろから声がした。
「あ、ごめん。起きてた? すぐ戻ろうと思ってたんだけど。だいぶマシになった?」
白衣を着て……長い黒髪を後ろで束ねた眼鏡の女先生が、白い衝立の向こう側から現れた。僕に声を掛けたのは、保健の先生だった。
「あ。君は、この子──上坂君と同じクラスの子?」
「はい。友の青木っす。……ちょっと、心配になって」
「友? あぁ、友達ってことね? じゃ、青木君。上坂君の荷物取って来てくれる? 親御さんには、担任の先生から連絡いってると思うから」
どうやら、学校を早退しなきゃいけない様子だ。けど、忙しい親のことだ。迎えになんて来られるんだろうか。
ドカドカと、保健室を後にした空也の足音が、廊下に響いていた。
保健室の南向きの窓辺から、正午を回った日差しが射し込んでいる。
──一瞬。
まるで、時間が固まったかのように。保健の女先生が、壁掛けの時計を見ていた。
「え?」
偶然、僕も先生と同じ方を向いて時計の針を見ていた。けれども、あまりにシーンと静まり返る保健室に、違和感を感じた。
(──あれ? 秒針、動いてない? ……壊れた?)
先生の背中の後ろで束ねられた長い黒髪が、不自然な形で固まっている。まるで、重力を無視したみたいに。……動かない。
「後ろ……」
──突然だった。聞き覚えのある声に、身体が一瞬ビクッと震えた。それから、我を忘れて咄嗟に振り向いた。
まるで、世界の全部が止まってしまったかの様なこの保健室に。僕以外の誰かの声が聞こえた。