9.消えた転校生。
早朝の学校の教室。朝日が眩しい。
電車とバスで高校まで乗り継ぐ僕の朝は、早い。なんせ、電車でもバスでも一本でも乗り損ねたら、大遅刻だ。──って、あれ? おかしい……。
「チーすっ! 繋! 相変わらず朝からシケた顔してんな? ギャハハ!」
「おは……よ? 空也は、相変わらず朝からテンション高いね」
昨日と同じ? なぜだろう。まるで、予め用意されていた台本の台詞を読み上げているかの様な。……それに、抗えない。ただ、言わされているだけの様な気がするのに。リアルな感情が動く。それとは別に、もう一人の自分が居て──。俯瞰する様に、この教室の景色を見ている。
木造の校舎にして木の床材の匂いが、立ち込める朝。新鮮な朝の光を南側の窓辺の席で迎える。この教室での僕の唯一の居場所。
……って、いやいや。これも昨日と同じじゃないか。なのに、展開されるこの教室の風景も僕の思考も、止まらない……。
何かが、おかしい。空也とマニカのことを考え過ぎて、僕は頭がおかしくなってしまったんだろうか? 知らない内に風邪でもひいて……。いや、熱? そう言えば、何だか身体が気怠い。フワフワとした感覚がある。現実に居るはずなのに、まだ夢の中の様な。
──そんなことを考えていたら、ドカドカと駐輪場から階段と廊下を駆けて来たばかりの空也が、朝一で僕の背中を叩いた。
「痛って! 叩くなよ、空也……」
「挨拶だよ、挨拶。なー、お前ってさ? 本当、陰キャだよな?」
「何? 朝から大きなお世話だよ。イジられたくないんだけど」
「ハァ……。俺と一番気が合う友って、お前なのにさー。なんで、そんな湿っぽいの?」
「ハァ……。こっちこそ溜め息出るよ。それに、僕と空也って気が合ってんの?」
繰り返されるセリフ。昨日と同じだ。そして、妙に抵抗しづらい。会話の流れなのか、昨日と違うことを言おうとしても、口に出そうとした瞬間、すぐに忘れる。何のことだったか……。
──既視感。デジャヴの様な一度見た光景が、次々と展開されては、何故か繰り返されている。それと、さっきから、自分で考えて喋ってるはずなのに、自分自身にツッコミを入れては疑問に想う自分がいる。何かが、おかしい。──と、そう言えば。
「お前ってさ? もう少し前髪切った方が良くね? そしたら、ワンチャン……」
「切らないよ。なんか、他人の目って怖いんだ……」
「ハァ……。俺のこの、曇り無き眼を見てみ? 怖くないだろ?」
「ハァ……。そうだね。空也は、特別かもね。空也は……」
「ハハ! 俺は特別か! 良いな、それ!」
「話し終わる前に、喋るなよ……」
いや、違う……。僕が、さっき言おうとして考えてたことは、そんなことじゃない。もっと、具体的に空也に伝えなきゃいけない何かがあったはずだ。そんな気がする……。
机や椅子を動かす音が、引っ切りなしで。教室の前と後ろの入り口からは、クラスメートたちの話し声が入れ代わり立ち替わり聞こえる。何かと話題が……なんでそんなに尽きないのかが、不思議だ。
て、いや。違う……。違う、違う! そんなことじゃない! もっと、大事なことを空也に伝えなきゃいけなかったはずだ……。
──そう。そうだ! マニカのことだ!!
「マニカ! マニカだっ!!」
「……な、何なんだよ、急に。大丈夫か? 繋?」
「転校生! マニカ! マニカだよっ、空也!! 昨日、転校生が……!!」
「転校生? 昨日? どっかのクラスに転校生が来たのかよ? 女? 男?」
「いや、だから、転校生マニカ!! って、確か名前は──えっと……」
「いや、繋。アニメか漫画の話? 悪ぃ。最近、見てねーんだけど」
「いや、違っ!!」
「……ハァ。俺が、繋の親なら心配するぜ? マニカって、二次元の女の子より、もっとリアル女子に興味持たねーとだな……」
「……」
僕にしては、人生の大事件だった昨日の出来事……。いや、正確には、一昨日の出来事だったはずだ。そして、その事だけは、ハッキリと憶えている。一瞬、忘れかけて想い出したその子のことを──。
(──マニカ……)
僕は、マニカのことを空也に尋ねようと決意して教室に来たんだ。
けれども、何故か……。空也の口ぶりからして、一昨日来たはずの転校生マニカのことを、空也が知らないことになっていた。
──昨日、僕が知らないフリをして空也に嘘をついたこと。
空也にマニカへの気持ちを知られたくなくて。空也のマニカへの気持ちを知りたくなくて。空也と僕との関係が、おかしくなる気がして……。空也には、黙っていたこと。僕の気持ち。本当の……。
話せないことが、伝えられなくなってしまったことが、僕の身体と心をギリギリと蛇の様な鎖が蜷局を巻くようにして締め上げる。
そして、何よりも……。僕は、一番知りたくない恐ろしい真実から……目を背けようとしていた。
(──そうだ。この後、教室にマニカが現れて……。これが、もし本当にデジャヴなら)
──ほんの一瞬。僕と空也の間に、沈黙が流れた。
その時。
クラスのザワついた空気も止まった。マニカかと思った。
……違った。
やがて、ヒソヒソと。クラス中の視線が集まる。
目で追ってた。誰もが。空也も、もちろん。マニカじゃない、いつもの担任の姿を。
──マニカの席は、僕の後ろだったはずだ。けれども、そこには……いつもの見慣れたクラスメートの姿しかなかった。
〝おはよ。ツナグくん?〟
〝おは……よ〟
──鮮明な記憶が蘇る。声も姿も。僕は、長すぎる前髪の隙間から、マニカが僕に笑いかけるのを見るはず……だった。そして、僕も、そんなマニカの後ろ姿を目で追うはずだった。なのに──。
「繋……?」
「え? いや、空也。……なんでもない」
空也のキョトンとした目に、僕の言葉が詰まる。
既視感……。マニカの居ないデジャヴ。昨日は居たはずの朝の教室の風景から、マニカの姿だけが掻き消されていた。
(キーンコーン、カーンコーン……)
ちょうど、チャイムの鳴る音がして。担任が、教壇の前に立っていた。いつものホームルームが始まる。
空也は、何も疑う様子も無く、そのまま僕とは少し離れた廊下側の席についた。
授業よりも、マニカの居ない教室に、僕は恐ろしいほどの喪失感を感じた。
(──マニカ。どう……して)
「繋!!」
教室の僕の席──。その後ろにあったはずのマニカの席……。
空也の声が聞こえる。
机と椅子から転げ落ちた僕は、その日。
床に倒れ込んだまま……。教室では、空也とは一言も話せる機会がなかった。