0.ある日の夢。
夢か現実か分からない出来事──。
それは、誰もが一度くらいは体験するんじゃないだろうか。
そうは言っても、誰も信じてはくれないだろう。けれど、親友の空也なら、もしかしたら。……信じてくれるのかも知れない。
そんな話を空也に打ち明けようか迷う内に、だんだんと眠くなる。布団の中で瞼をこする──。
──それは、ある日の夜の出来事だった。
課題を終えた二十三時。眠たい目を擦りながら、僕はふと、二階の勉強部屋の窓ガラスから外を見降ろした。
薄暗い夜道を照らす外灯。その中に人影を見つけた。目を疑った。
──鼎神社。所謂、縁結びの神様。旧参道に面した僕の家。
三日月の晩に詣出ると恋愛成就する言い伝え。たまに人を見かけても、まさかと思った。
こんな寒空に、どんどん夜の神社に吸い込まれる様に歩いてく人影。気がつくと参道の登り坂の先を、僕は見つめていた。
──女の人だった。それも、何処か見覚えのある。
僕は、どうにも気になり学校の体操服のまま外に出た。恋愛成就を口実に参拝するフリをして。
長い黒髪の揺れる後ろ姿。身体の輪郭。僕と同じ学校の体操服。少し安心する。けど、バレやしないかと後をつけている後ろめたさにドキドキした。その後ろ姿から目が離せなかった。
♢
夜の神社に設置されたセンサーライト。点灯した境内の明かりに、目を閉じて祈るその素顔。高鳴る鼓動。倒れそうだった。まさか……。
息を呑む。呼吸が止まる。声にならない。決して近づいてはイケない。けど、動けない。
言い伝えでは願った直後、〝キス顔〟をする決まり。見てはイケなかった。けど、見てしまった。
(──カーン……)
夜の神社に響いた音。誰が捨てたのか、動揺した僕の足元から、空き缶が神社の石段に落ちた。
反応したセンサーライトが、僕の影を石段に映した。目が合ってしまった。
しばらく、凍りついた。何も言えないまま三日月と雲を見るしかなかった。
「ツナグくん?」
「マニカ?」
……聴き取れなかった言葉。けれど、僕は何故か、想わずその子のことを『マニカ』って呼んでいた。
センサーライトが点灯した境内から、マニカが僕に近づいて来た。マニカなんて子は知らない。クラスではもちろん、学校でも見かけたことが無い。
「見てたの?」
「え?」
「キス顔」
会って直ぐ初めての会話。夜の神社の冷たい空気。僕ら以外誰も居ない気配。
夜空に輝く三日月のずっと手前で、マニカの瞳が迫る。
「ツナグくんも見せてよ」
三日月みたいなマニカの唇が笑う。誰も返事しない夜空にマニカの長い髪が揺れた。
「そ、それは……」
「出来ないの?」
僕を見つめた万華鏡みたいなマニカの瞳。僕は観念して目を閉じた。
「好きな子。誰?」
「え、いや、あの……」
蜘蛛の巣に掛かった蝶のように、僕の頭の中が痺れる。名前を告げて楽になりたかった。
「秘密。だよね? 神様が見てる」
目を開けた僕に、満月みたいなマニカの瞳が見ていた。
「私の事。秘密にして」
センサーライトが石段とマニカの後ろ姿を照らしてる。
その背中に揺れる髪や身体の輪郭が、僕を置き去りにして。
マニカの好きな人の名前は聞けないまま。僕は、そのままずっと、マニカから目が離せなかった。
……マニカって、誰なんだろう。
♢
……また、夢でも見ていたんだろうか。いや。確かに、あの後、僕は自分の足で家に帰って。親にもバレずに、布団の中へと潜って目を閉じたはずなんだけど──。
──二十三時。真夜中。僕が今立ってる場所。鼎神社。徒歩三分。
動く度、反応する境内のセンサーライト。眩しくて。暗闇の格子の奥には神様がいる。それが本当なら。
「マニカと付き合えますように」
どうしてだろう。なぜか、そう呟いていた……。あの子の名前。学校でもクラスでも、そんな子は居ないはずなのに。
──〝キス顔〟。僕は言い伝え通りに……した。参拝の後。
クリスマスイヴにも三日月は昇る。けれど、あの時見たマニカの満月の様な瞳は、三日月よりも特別だった。
「ひとりごと?」
……声がした。まさかって想う。そこにマニカが? いや、幻聴? 後ろを振り返る。気にしすぎ……?
辺りが暗く沈む。足元の玉砂利が響く境内。僕は何してるんだろうって想う。知らない誰か──〝マニカ〟に想いを寄せるなんて。
けど、幻聴に想えたマニカの声が、もう一度。僕の耳に、現実に聴こえた。
「ツナグくん、教えて」
今、この神社には誰も居ないはずなのに。
石段の上から一望出来る街並み。まだ眠らない宝石箱の様な夜の景色。そこに居ないはずの人影が、視界の端で揺れた。いつかの声が響いてた。
──マニカだった。
マニカの瞳が、身震いするほど綺麗で。まるで、マニカに吸い込まれるみたいに……。目が合ってしまった。
……冷たい空気に昇る夜空の三日月。
マニカの後ろで三日月が輝いている。光ってるのが眩しいくらいに。学校じゃ、影の薄い僕は目を閉じる。クラスじゃ、存在感なんて無いだろうから。話し掛けて来てくれるのは、同じ中学だった親友の空也くらい。
そう想うと……。僕とマニカの心が合わさるのかなんて気が重い。……僕は影が薄いから。
「言えない?」
嘘だろ? まさか──。
満月の様に輝くマニカの瞳が、石段を照らすセンサーライトに揺れていた。目の前まで歩み寄るマニカの瞳と、再び目が合う。マニカも、僕と同じ様に学校の体操服を着ていた。けど、どうして?
「ツナグくん?」
「マニカ……」
そこから声が出せない。念じれば現れるのか──?
僕一人だけだったはずの神社。……じゃなくて? 願いが通じることなんて、あるんだろうか。
不思議な感覚がした。
神社の石段から一望出来る夜の街並み。その中に映るマニカの身体の輪郭。あり得ないくらいに、眩しく見えた。
「……聞いて良いかな?」
石段から駆け上がって来たのか、マニカが白く息を吐いていた。朱色の鳥居をくぐったマニカが、神社の石畳から玉砂利の上を歩く音が響く。センサーライトが僕とマニカを照らしている。境内にマニカが近づく音が聴こえた。僕とマニカ以外、誰も居ない。心臓がマニカにギュッと握りしめられた様に鼓動していた。
「今日も?」
「マニカは?」
言葉の後に笑顔。あり得なくて。マニカと喋ってる現実。三日月より眩しい。
「冬休み……」
「……一人だね」
謎掛けのようなマニカの言葉に、僕はマニカと目を合わせたまま答えた。シーンとしている境内と暗闇。センサーライトが、僕とマニカの動きに反応して、点いたり消えたりを繰り返している。気にしないフリをした。学校じゃ、クラスメートにさえ話し掛けるのを躊躇うのに。どうしてだろう……。
「まだ居る?」
「え?」
「参拝……」
神社のキス顔の習わし。誰がマニカの想い人なのか。知らないフリをして、三日月が雲間に隠れるのを僕は見つめていた。気持ちが一瞬、三日月を隠した夜空みたいに曇る。
……マニカのキス顔を、僕は見れなかった。
「ごめん」
「え?」
視線を戻して振り返った僕は、参拝を終えたマニカの後ろ姿を見ていた。暗闇にポツリと浮かぶ、マニカの後ろ姿。ずっと、マニカと会っていたいのに。そこから、動けなかった。立ち尽くしたまま、僕は家に帰ろうとはしなかった。けど。
「マニカ、僕は」
「明日も来るから」
マニカと一瞬。交差する様にすれ違った後、マニカが暗闇の中を足早に駆けて行く。神社の境内に散らばる玉砂利の音が響いていた。マニカの言葉が僕を置いていく。神社の石段の傍で、再び点灯したセンサーライトが、一人になった僕を照らしていた。
マニカの匂いがフワリ……。目を瞑った僕の鼻先で消えた。
それから──。僕は微睡みの中。そんな夢を確かに見た気がして。
カーテン越しに光る朝の眩しさに、僕は目を開いた。