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スケロクシリーズ 第四話 突然変異体_Xの咆哮

 横浜市中区伊勢佐木町通りの喫茶店『そぞろあるき』にて


 分煙室には数人の男女がタバコをふかしながら談笑している。

 囲われた分煙室内は霞がかったようにモウモウと煙がたなびき、天井の換気扇が音を立てながら健気に仕事をこなしている。

 山盛りになっている吸い殻を前に願成寺と男が無言で対面していた。

 願成寺は冷めたホットコーヒーを前にしてだらしなく腕を組んでおり、濃い髭面の男もタバコをふかしながら右の掌を顎に当て考え込んでいるようだった。

 無言だった男がタバコを揉み消し、いきなり願成寺に話しかけた。

「……だからよぉ養育費はどうするんだよ。穂乃香だって来年は小学生だぜ」

「分かってるよお」

 願成寺は掠れた声を上げた。

「お前、払うと言ったじゃんか」

 髭面の男はやや強い言い方をした。

「分かってる分かってるよ、和毅。でも稼ぎが思うようにならないんだよお」

 願成寺が和毅、と呼んだ髭面の男は、願成寺が事故を起こし刑務所に収監された際に離婚を切り出した元夫、明智和毅だった。

「サヤカ、いつまで待たせるんだよ。俺りゃあよぉ、慰謝料をよこせと言ったか。言ってないだろぉ? お前の事を思ってよ、だから、せめて養育費ぐらいもらわねえとなぁ」

 常に明るく振る舞う願成寺だが、ある問題を抱えていた。それが愛娘、穂乃香の行く末だった。

「俺だってよぉ、全国を駆け巡っているんだぜぇ。それくらいお前も分かってるんだろう。病気を抱えているおっかぁに穂乃香を預けっぱなしで俺りゃあ、おっかぁに頭が上がんねえ。養育費でももらわねえと、おっかぁに申し訳がたてねえんだよぉ」

「分かってる分かってるよ」

 巨体の願成寺は身を縮める一方だ。

「わざわざ千葉から横浜くんだりまできたぜ。どうしてくれんだぁ?」

「アンタのおっかさんにも申し訳ないと思ってるんだよ。けどさ、いまんとこじゃあ安月給だし……」

 和毅は憤慨した。

「だから払えねえってかよッ。なんなら俺んとこの社長に掛け合おうかァ。お前だってまだまだ現役のトラック運転手で通用するぜぇ」

 願成寺は弱々しく首を横に振った。

「刑務所出る前からいろんな運送会社に履歴書送ったんだけど、前科もんは雇えないと言うことで体よく門前払いだよ。アンタんとこだってきっとそうだよお。やっとの思いで仕事にありついたけど、思うようにいかなくてさぁ」

「言い訳は聞きたくねえっ」

 和毅は言い放った。

「お前がそんな態度なら俺だって考えがあるぜっ」

「考えって何さ」

 和毅は隠微な目つきで言った。

「おめえみたいなデブ女でも、抱きてえっている奴がいるだろうなア」

 和毅の言葉に願成寺は青ざめた。

「なによその言い方ッ。体売れッて言うの?」

 喚く願成寺に周囲はぎょっとして二人を見た。

 願成寺は涙ぐんだ。

「悪かったよ、サヤカぁ。俺はお前に惚れて一緒になったんだ。よりを戻しても良いと思ってんだぜ。だが穂乃香のことを思うとなぁ」

「……穂乃香に会いたい……」

 涙を浮かべた願成寺はぼそりと言った。

「穂乃香だって、かあちゃんに会いたいっておっかぁに言ってる。かあちゃんは今病気で遠い病院に入院していると言ってるけどよぉ、いつまで通用するかなア。……兎に角考えてくれよ、な、サヤカ」

 和毅は置かれていた伝票を取り上げ「払っとくぜ」と言いながら席を立った。

「ああ……」

 願成寺は髪をかき上げながら呻いた。



 神奈川県北西部に位置する丹沢山系。その北側にある深い山林に囲まれた盆地に平家の落人伝説が残る南山(なんざん)村がある。

 北側には仏山、東に長者山脈、西に神之川山に囲われ、すり鉢状の底の部分にあたる南山村は盆地特有の夏は暑く冬には雪が降る場所だ。

 僅かに残る狭い平野部に田畑、果樹園だけが広がる土地柄で閑散とし、鄙びた昭和の初期に建てられた古い温泉宿が一軒あるだけで、ほとんどが年寄りが暮らす限界集落に近い村だ。


 その日は山々からなだれ落ちるように一日中強風が吹き荒れていた。ざわざわと木々が唸り、千切れそうに送電線が金切り声をあげている。

 その夜は満月というのに厚い雲が流れ、ふくよかな形の月を見え隠れしている午後九時半。

 鴨居にぶら下がっている作業服を手に取り、この家の主、篠原久作が妻ホタ子に言う。

「ちょっくら畑、見てくんべえ」

「こんな時間に? 明日にしたら?」

「気になるべな」

「お止しなさいな」

 久作を心配するホタ子が引き留めようとしたが、久作は出ていった。

「心配するな、直ぐに戻る」

 玄関ドアを開け、作業服の襟を立てながら、風が舞い上がる路地に出た。あと数日で収穫を迎えるという手塩にかけて育てている果樹園が気になって仕方なかったのだ。

 畑に着き、懐中電灯に照らされた果樹園の木々が風に煽られまるで襲いかかる悪魔のようだ。

 一つひとつ確認しながら進んでいくと、突然男の歩みが止まった。一本の木に何かが纏わり付いている。

 懐中電灯に照らされ気がついた『奴』は振り向いた。

 男は目を見開き、総毛立った。

『熊……!?』

 『奴』は光に顔を向け、犬歯をむき出し奇声を上げた……。


「遅いねえ……」

 久作が出て行ってから一時間は経つ。意を決したホタ子は携帯電話を掴み合羽を着ると玄関を出た。

 凄まじい突風がホタ子を襲う。

 バタバタと唸りを上げる合羽を逃すまいとして、風に抗うようにホタ子は体を丸め畑に向かった。

 その畑の先に浮かんだのは、作業服がズタズタに切り裂かれ血が辺り一面に飛び散り倒れ込んでいる久作の姿だった。

「アンタあ、アンタあ……」

 夫の無残な姿に気が動転したホタ子は倒れている久作の体を揺さぶり続けた。

「死んじゃヤだよお」

 気が動転しているホタ子だが、気を取り直し消防に連絡を取った。

 消防司令室の大画面にはホタ子の携帯から発信している位置情報を読み取り、赤い光が点滅している。

「緊急指令、緊急指令、一号発生。場所南山村、乙六十四丙二十七地点。至急、向かえ」

「了解」

 指示を受けた救急車がサイレンを鳴らし、大風の中赤灯を回しながら発進した。救急隊員が十分もしないうちに現場に駆けつけ久作の容態を確認する。

 泣き叫ぶホタ子に一人の救命士が落ち着くように背中を撫でる。

「こりゃ酷い、熊に襲われたか? おや、この傷跡は?」

 久作をストレッチャーに乗せた救急隊は二の腕と左のすねにはっきりとした歯形を確認した。

 そして篠原久作は救急車で麓の救急外来病院に搬送され、緊急手術と輸血により一命を取り止めた。

 しかし……。


 翌朝、南山村派出所からの連絡で麓の南山署から派遣された数名の警察官と鑑識が現場検証をはじめ、昼過ぎに駐在員が南山自治会館に主だった村人を集め、事情を聞き集めた。

「可哀想に。余所から果樹を盗もうとして畑に忍び込んだ盗っ人が久作を襲ったに違いないべ」

「現場は食いちぎられた果樹で散乱しているんでな、盗っ人の仕業ではなかんべな。ことによるとツキノワグマとかに襲われたのかもしれん。皆の衆、トラックの音とか聞かンかったか?」

 駐在所の若い男は村人を見合わした。

「あんな台風のような大風の中、ようけそんな音、きかん。それより駐在さんよ、久作の容態はどんなんだべか」

 逆に村人は駐在員に尋ねた。中年の警官は胸ポケットからメモを取り出した。

「切り裂かれた背中の傷は深かったが、なんとか一命はとりとめちょる」

「そりゃあ、よかんべなあ」

「早いとこ治ってくれんと、協同組合でもこまってまう。なんせ、久作の果樹は指折りじゃからな」

 口々に村人は言うなか、杖をついた百歳近い南山村の古老、渡里が突然言い出した。

「古来から村に伝わる言い伝えの『トコヨノカミ』が出たんではなかろうか」

 村人は一様に首を振る。

「だけんども渡里翁、それは単なる伝説だべよ。現代においてそんな事ある訳ないべ」

 駐在員が訪ねた。

「伝説? 厄災? それ、なんだべ」

 村長の飯田が代表した。

「ここの南山村には古来からの伝承があるんだに。駐在さんはここに来て未だ日が浅いから分からんじゃろうが、ここには古来から『トコヨノカミ』と言われておる巨大化したイノシシとも、とてつもなく大きな角を生やした鹿とも、巨大な日本猿とも言われる、得体の知れない生き物が棲息してる、という伝説があるんだべさ」

「伝説? そう言えばここに来る前に南山署の副署長から聞かされたがの。ホントにいるんだべか」

 しかし村人衆は駐在員に訴えた。

「渡里翁には気にせんとも、駐在さん、早いとこ犯人捕まえてくんべな」


 荒らされた現場では数カ所に足跡が発見された。それは明らかに人間による跡では無い。

「ツキノワグマ? いや、これは明らかに二足歩行だな。型を取る」

 現場検証の結果、果樹を盗む行為は見あたらず何者かが食い散らかした、と南山署に報告された。食い散らかした輩は何か……疑問が残り捜査は続行された。



 午後六時過ぎ、社員全員が揃ったスケロク商事二階倉庫兼会議室。

 今日は給料日だ。杉田は一人ひとりに封筒に詰めた現金を手渡していった。

「みんなの頑張りで今季前半、スケロク商事の売り上げも右肩あがりだ。今後の売り上げ次第によるが、この冬に僅かだがボーナスが支給できるかもしれんぞ。みんな頑張ってくれ」

 杉田の励みにみんなの顔がほころんだ。

「ボーナスって初めてじゃん」と管弦が喜んだ。

「……ボーナス」

 願成寺はうっとりと夢見るような目つきになった。

「さらに普段の功労に対し、より絆を深めるため社内旅行を提案をする。安心してくれ、費用は会社もちだ。マイクロバスを借りて、全員で行くぞ」

 意気込む杉田に管弦は露骨に嫌な顔をした。

「え~、今どき社内旅行なんてやだよー。鈍クサー」

「今どきはやらないわよぉ~」

 御手洗も同調する。

「いくらボスの提案と言っても」と祖父江も困った顔をした。

「銭金の問題じゃない。我がスケロク商事のより結束力を深めるため俺は企画をたてたんだ。これは俺からの無償の愛だ」

 祖父江は吹き出す。

「無償の愛って、なんなんすか、ボス」

「君たちを愛する俺からの愛だ。じゃあ、みんなは反対か?」

 企画した杉田は不満そうだが、逆に的場は賛成意見だった。

「都会の喧噪感を忘れるような自然溢れる温泉宿がいいでがすなあ」

「それは、い」と珍しく伊東が援護し、続けるように和道は提案する。

「近場で色々調べたんだがね、丹沢山系にほど近い山間の南山温泉宿『木耳』はどうだろう。この時代において山々が邪魔してテレビが映らないんだ。信じられるか。携帯電波も微弱だし場所によっては繋がらないらしい。高度に発達した日本でも、この様な場所があるのだよ。普段の喧噪を忘れるにはもってこいの場所だよ。午前七時に出ても昼前には到着する。ここから近いし非日常を味わうにはもってこいと思う」

 的場が聞く。

「温泉は源泉でげしょうか」

「ホムペはないが、南沢村自然観光課オススメだ。というより宿泊施設はそこだけらしい。なんと言ってもそこの地酒が旨い、と評判だよ」

 和道の言葉に願成寺の顔がほころんだ。

「いいねえ」

 酒飲みの伊東も同調した。

 黒川が冷静に発言した。

「グローリーもいますし、皆さんに迷惑を掛けるので私は電話番でいいです」

「あたしも電話番しときます」

 天馬も同調した。

 足手まといになると思い黒川と天馬は参加を遠慮したのだが……。

「和を以て貴しとなすと言うだろ? 日本の美徳だ。我が社は運命共同体だ」

「何時誰がそんな事言ったんかサ」

 管弦は不満顔だ。

「わっちゃあ、良い言葉と思うでがす」と的場は賛同し「手伝うからみんなで参加しましょうよ」と蔵前も同調した。

 一時間あまりの議論の末、全員参加が決まり、月末の火曜水曜を連休と決め、スケロク商事の一泊二日の社員旅行が催されることになった。

 快晴の中、レンタルしたマイクロバスが順調に横浜新道から東名町田インターに入り高速を突っ走る。だが運転できるのは杉田と願成寺だけだ。

 走り出して直ぐ後ろでは宴会が始まった。前日から用意してあった段ボール箱から、煎餅類やらビスケット、缶ビールが乱れ飛び、笑い声やはしゃぐ声が社内中響くようになった。

 そんな騒々しい音をよそに、グローリーはふせをしマギーと権太はケージの中で大人しくしている。

 なんと動物も全員参加なのであった。

 無表情で運転している願成寺の喉が鳴ったのを、助手席の杉田は見た。

 むすっとしている願成寺は淡々と運転をしている。

「ケンジ」

 杉田は後ろにいる祖父江に声を掛けた。

「なんですか、ボス」

 ビールをあおって赤ら顔の祖父江が返事をした。

「来年初めにはお前も大型免許を取らせるからな。もちろん費用は全額会社が出す」

 祖父江は笑った。

「いんですか、ボス。でも何で?」

 杉田は振り向いた。

「俺らも後ろの席に加わりたいからな」

 それを聞いた願成寺の頬が緩んだ。

「道中飲めねえのは勘弁してしてくださいよ、ボス」

 途中運転を代わった杉田は伊勢原大山インターを降りてから大山坂戸線を北へ進んでいくと両側に杉林が林立している。さらに山深くなっていったが、午後一時過ぎには旅館『木耳』に無事到着した。

 木耳はかなり古く昭和時代の木造二階建和式旅館という風情だ。

 黒漆の上に白文字で鮮やかに『歓迎 スケロク商事御一行様』と看板が出迎えている。

 古式ゆかしき宿屋の主人、桑田作次朗と女将が愛想よく迎えた。

「これはこれは、こんな侘しい宿に、ようこそお越し頂きました。当館のあるじでございます。何も無いですが、どうぞおくつろぎください。当館の自慢は源泉掛け流しでございまして、暖めるなど手は一切加えてはおりません」

 客室は大人十人ほどがゆうに寝られる大きく広い和室であり、男女別に割り当てられている。

 各人さっそく浴衣に着替えるとお茶を啜り寛いでいったが、伊東と的場は浴衣に着替えることなく、そのままの姿だった。

「二人とも浴衣に着替えないのかね?」

 和道の問いかけに伊東は首を振る。

「いざという時逃げね」

「どういう意味だね?」

 伊東の言葉を代弁するかのように的場は笑った。

「何かあってもいつ何時でも逃げ出せるよう、してんでさあ。まあ泥棒のさがってえもんでがす」

 杉田は笑う。

「夕食の間にひとっ風呂だ」

 男どもが浴場に向かう途中で、女子連中が何やらガラスケースを覗き込みながら、わいわいと燥いでいる。

「何だどうした?」

「天馬さんね、凄いのよ」

 蔵前が指さす方向にはガラスケースの中を覗き込んだ。そこには古い和紙が広げられ何やら文字が書かれている。

「何だ。ナニがか書かれているのかさっぱり分からんな」

「古文書というより古記録ようです」

 天馬は言う。

「都落ちした平家の残党がこの地に移り田畑を開墾した、と読めます。かなり荒れていて開墾も苦労したと記述もあります」

「すんげー」と管弦が吃驚したような顔をしている。

 騒ぎを聞きつけたのか宿の主人桑田が顔を出し感心したように頭髪を掻き上げた。

「いやあ、よく読めますねえ。当家に残っている古記録です。当宿は殺風景なので、せめてお客様が喜んで頂けたらと思いましてね。村の中じゃ読めるモンがおらんので、役場に相談したところこの部分がいいのでは、と言うことで開いておりますが、いやあ、読めるなんてたいしたもんですよ。素晴らしい」

 天馬は恥ずかしげに言う。

「趣味で地元の古文書研究会にいたことがありまして。とは言っても江戸時代以前の書物は難しくて」



 しかし、古文書解読の人間がスケロク商事にいるということが、その後スケロク商事に騒動がひろがるのだった。



 グローリーはマイクロバスの中で大人しく伏せていた。盲導犬とはいえ、桑田が入館に難色を示したからだ。ましてや、猛禽類がいると分かれば桑田も吃驚したことだろう。

 蔵前の肩に捕まりながら黒川はマイクロバスに近寄っていった。杉田から鍵を借りてきた蔵前はマイクロバスの鍵を開ける。

「グローリー、どこにいる?」

 車内に入りながら黒川はグローリーを呼んだ。グローリーは黒川の声を聞くとすっ飛んで飛びつき、顔中を舐めまくった。

「わはは、くすぐったい、グローリー止めろよ」

 蔵前もエサを権太とマギーに与え、ひとしきり戯れたあと、グローリーと付近を黒川と蔵前の右肩に止まっている権太と共に付近を散策した。

「穏やかな風が心地よい……そしてこの木々の香りは格別だ」

 盲目の黒川は五感を使って南山村の風景を堪能した。

「風、分かるんですか」

 左脚を引きずりながら蔵前は言う。

「都会に無い清々しい風と森林の香りですよ。耳さわりも心地よい」

 犬らしく方々を嗅ぎ回っていたグローリーだが、突然立ち止まった。前脚を低くし今にも飛びかからんとするように腰を上げ、林立する杉林に向かって唸り声を上げた。

 それは今までに感じたことがないグローリーの異変だ。

「どうしたグローリー」

 黒川はそっとグローリーに手を触れた。

 『何か警戒をしている……?』

 蔵前は直感した。見ると権太も何か警戒しているようだ。

 しかしそれは何であるか、蔵前にも分からない。

 突然、黒川が鼻をひくつかせた。

「何だ、この臭い……」

 嗅覚も優れている黒川はその臭いに顔を顰めたが、蔵前には分からなかった。ただ漫然とした不安を感じ、黒川を促した。

「黒川さん、戻りましょう」

「そのようだ。さ、グローリー引き返すぞ」

 車中に戻るとグローリーは、さっきとは打って変わって大人しくなった。

「一晩、我慢してくれグローリー」

 厚手の毛布の上にグローリーは横倒しになった。


 鄙びた温泉宿にしては温泉はそれなりに立派だ。微かに硫黄の臭いが混じったゆったりとした大浴場だった。

「グローリーがいないとどうも勝手が分からなくて」

 浴衣を脱ぎながら黒川が呟く。

「黒川さん、アタシが浴槽まで案内しますわよぉ」

 タオルを頭に巻き裸になった御手洗が黒川の手を取り、甲斐甲斐しく大浴場へ導いた。

「ここに腰掛けてね。まず、お湯をかけるからねぇ。これはマナーよ。熱い?」

 御手洗はゆっくりと黒川の肩からお湯をかけた。

「吃驚するような熱さではないね」

 次に湯槽の縁まで案内する御手洗だった。

「ここに腰掛けて、足をお湯につけてねぇ……ゆっくり入るのよぉ」

 浴槽の縁に腰を掛け恐る恐る足を湯槽に浸した。次にするりとお湯に身体を滑り込ませた。

「おお……この身を包むまろやかなお湯……流れる音……この香り……素晴らしい」

「温泉、入ったことないのぉ?」

 御手洗の問いかけに黒川はしっかり答えた。

「幼少の頃、父と入ったきりだ」

「香りってのはどういうもんか分からなんなあ」

 祖父江は顎まで温泉に浸かり温泉を嗅いだが、黒川が感激するような事は無かった。しかしながら五感の鋭い黒川には、この温泉の質の良さが充分に感じ取ることが出来ていた。

「いやあ……極楽でがす」

 的場が言うと杉田が茶々を入れた。

「……ッてぇってことは的場君、極楽に行ったことがあるのか」

「親方ァ、冗談きついでがす」

 男湯に笑い声が響いた。

 女湯のほうはさらに賑やかだった。

 湯船に浸かっている管弦は上機嫌だった。

「ふ~温泉って、いいねェ」

管弦の弾ける若い引き締まった乳房が湯槽に踊る。

「若いっていいわね」

 寺家は管弦の乳房を見つめながら呟いた。

「そう? でも先生だって立派なもんだよ」

「社内旅行に反対したの、誰よ」

 管弦はぺろっと舌を出した。

「アタシが悪うござんした。……でもサ、地家先生も社内旅行なんて、信じられないよ。なんかあったかサ」

 管弦の言葉に地家の顔が曇った。

「うん……」そう言いながら言葉を繋いだ。「医師免許は剥奪されなかったけど、風評が祟ってどこからも依頼が来なくて。アルバイト先の本間医院でも今のところ用が無いって言われるしさ」

 管弦は言う。

「そのうち依頼がどっさり舞い込んくるヨ」

「まあ、そうなるといいんだけどね。そうだ、瑠那さん背中流してあげる」

 奮い立つように寺家が言う。

「そんな。センセーにそんなコト」

 恐れ多い、と言いたげな管弦だ。

「いいわよ、背中流してあげる」

二人は湯槽から立ち上がった。

 湯船に浸かっている願成寺が呟いた。

「二人遅いねえ」

 その時、椅子に腰を掛けさせた天馬の義足を外すのに蔵前は苦労していたのだ。

「これ一人でつけたり外したりしているの?」

「そう、それに片手だからどうかすると、十分はかかったりするのね。装着する時も歪んだりしていると痛みが走ったりするし」

「コリャ大変だわ」

 義足を外し終えるとようやく二人は浴衣を脱いだ。

「楓さん、肩貸すから」

「ありがとう、蔵前さん……あら? その傷跡……」

 天馬は蔵前の左腕二の腕と背中に掛けてケロイド状の傷跡に気がついた。

「これはね……」

 蔵前は天馬を補助しながら話し、浴場のドアを開けた。

「お待たせ」

 願成寺は二人をじろじろ見た。

「いいのよ慣れているから」

 二人は同時に言うと、くすりと笑い、顔を見合わせた。

 天馬は風呂場の縁に腰を下ろし、湯槽に足を滑り込ませた。「温泉なんて、何年ぶりかなあ」

「社長の粋な計らいに感謝、だわ」

 蔵前はうっとりした。

「ホッとするねえ」

「宿泊客がウチらだけってどうなんだろうね」

「鄙びた温泉宿だし、人気ひとけが無いのかも仕方ないわね。でも日頃の喧噪感から離れられホッとするわ」

 蔵前は呟いた。

「グローリーのあの姿、気になるなあ。黒川さんも臭いを感じたと言うし……権太も何かを感じたようだし」

「なにかあったの?」

 訝しげに言う寺家に蔵前はグローリーのことを話した。

「直美が分からなきゃ誰にも分からんさ」

 いきなり願成寺が天馬に問いかけた。

「天ちゃんってさあ、このままスケロク商事にいるの」

「そのつもりですけど?」

 天馬は願成寺の顔を見つめた。

「天ちゃんは端から見ててもそつないし優秀だからさあ、こんなやさぐれ集団よりも、もっといいとこあるんじゃない?」

「そうね。もったいないと思うよ」

 湯船に浸かった蔵前が同調した。

「そんな事ないですよ。皆さん気遣ってくれますし、何より杉田社長の心意気というか。他ではそうもいかないと思います」

 そのやり取りを聞いていた願成寺は和毅の言葉を思い出し、急に塞ぎ込んだ。

「あら、サヤカさんどうかしたの」

 天馬の声かけに願成寺は首を振った。

「何でもないよ。それより今日の宴会、楽しみだね」


 午後六時。

「スケロク商事の今後の発展に向けて乾杯」

 畳敷きの大広間では和道の乾杯の音頭で宴会が始まった。

 それを合図のように山海の珍味が次々と運び込まれ、料理に全員が目を輝かせた。

 笑い声と共に酒が進む。蔵前と寺家、天馬と黒川はお印程度にビールに少々口をつけただけだが、杉田と祖父江、願成寺と伊東は大いに呑んでいる。

「日本酒、熱燗で」

「ハイボール」

「ビール追加」

 呑む人間は次々と注文を入れ、宿の主人と女将は忙しく立ち回る。

 日本酒をあおっている願成寺の浴衣が少しずつはだけだしていった。

「ちょっとサヤカ、恥ずかしいよ、直しな」

 蔵前のたしなみに願成寺が言う。

「そんなに見たいんなら、それ~」

 願成寺が勢いよく胸を開くと、ピンクのブラジャーが躍り出た。

「揉んでもいいんだぞ~」

 酔った祖父江が囃し立てる。

「いいぞいいぞ~」

 慌てた蔵前は願成寺の襟を正す。

「チッとぐらい良いじゃんか……またさあ、直美のお乳はきゅっと締まっててさあ……」

「ちょっとやめてよッ」

 完全に願成寺は酔いが回っている。

「元々願成寺さんは陽気な方だから」

 そう言って天馬はマグロの刺身を頬張った。

『だから酒飲みはやなのよ……』

 蔵前は独り言のように呟いた。

 笑いながら酒を酌み交わす杉田と祖父江、伊東や願成寺を交互に見つめつつ箸を動かしていた管弦だが、いきなり言いだした。

「あたしもおちゃけ、呑みた~い」

 杉田がたしなめる。

「何が酒だ、未成年者は駄目だ」

「選挙だって行けるんだよ。もう十八になるんだからサ」

 抵抗する管弦に日本酒を飲み干しながら祖父江が続ける。

「瑠那、投票が出来るたって、酒は二十歳からだぜ」

 管弦はむすっとした。

「ちぇ、飯だけ喰えッてぇのはさぁ」

「山海の珍味というのでしょうか、美味しいじゃないですか」

 目の見えない黒川は、香りを頼りに箸を進めていた。

「実は見えているんじゃないのぉ」

 ほろ酔い気分で言う御手洗に黒川は笑う。

「見えなくても美味しいものは香りで分かりますよ」

 祖父江は黒川に尋ねた。

「黒川さん、お酒飲むことあんですかね」

 黒川は首を横に振る。

「呑むと方向感覚が鈍り、かえって危険な目に遭いますので呑まないですよ」

「でも黒川君にはグローリーという頼もしい助っ人がいるじゃないか」

 赤ら顔の和道の言葉に黒川は箸を置いた。

「彼はハーネスを外すと仕事が終わったと思うのか餌を食べ、出すものを出すと、あとは高いびきです」

「盲導犬ってそんなもん?」

 杉田の言葉に黒川は笑った。

「結構犬臭いですよ」

「ハラタツー、ご飯お代わりッ」

 掻き込んだ管弦はお代わりを要求した。

「はいはい」と蔵前は答え管弦の茶碗に大盛りに盛った。

「瑠那、おかずがないぞ。良かったらこれを食えよ」

 祖父江は管弦の前にお膳を差し出す。

「俺りゃあ飲めればそんでいい」

「わっちゃあ、もう駄目だあ」

 酒に弱い的場はひっくり返った。同様に御手洗もすっかり酔いがまわっていた。

「あたしもぉ……」


 祝宴が半ば過ぎた頃、お茶を飲み過ぎた蔵前は憚りへ立ち上がった。和式便座で用を足していると、蔵前の耳に微かに響く『声』を聴いた。

 それは甲高く短い声だった。

『何あれ……野犬? オオカミ? イヤ違う……』

 かつて様々な猛獣を飼育していた蔵前でも初めて聞く声だ。注意深く聞いているとそれは呼び合っているようだった。

 憚りから出た蔵前は確認できるかと思って玄関先に向かった。受付台には旅館の女将が座っていた。

「どうしましたかね」

 女将の言葉に蔵前は振り返った。

「なんか変な遠吠えのような音を聞いたから気になって」

「ここらでは野犬が多くて、夜になると活動するんですよ」

 女将の言葉に蔵前は言下に否定した。

「野犬とかオオカミはあんな甲高くは吠えません。もっと低い声でバラエティーに富んでます。あんな直線的な声で短い声ではありません」

 その言葉に女将の顔色が変わった。

「わ……分かるんですか?」

 女将はかしこまるように座り直し、必死な思いで床に付くように頭を垂れた。

「聞かなかったことにしてください。お願いです」

「どういう意味でしょう?」

「変に風評が立ってしまったら、余計にここに来る人もなく、益々寂れます」

「あの……意味が分かりませんが」

 女将の後ろから宿の主人が出てきた。迎え入れた笑顔と違い暗い顔つきだった。

「申し訳ないですな。ここには昔から、わしら村人が『トコヨノカミ』と呼ぶ正体不明の獣が棲息しているです。かの昔の昭和三十二年の夏に調査機関がここに来ましたが、足跡とかフンとか見つかったようですが……その実態は結局不明のまま今日に至っております」

「トコヨノカミ?」

 蔵前は問いただした。

「名前の由来は分かりません。昔からの言い伝えで大型の猿のようです」

 宿屋の主人に対しきっぱりと言った。

「ニホンザルのように小型の猿はいますけど、それ以上大きい猿は日本にはいないはずです」

 蔵前の剣幕に宿屋の主人は慌てて否定した。

「いやいや、伝承ですよ。村人でもその姿を見たことがありません」

 宿屋の主人と押し問答をしていても埒があかないと思った蔵前は宴会場に戻った。

 宴会場ではサヤカと銀次だけが真っ赤な顔をして一升瓶を間において交互に呑んでいる。

「いい加減いやめたらどうよ?」

 蔵前はたしなめた。

「いやあ、ここの地酒は旨いんだよ」

「まったぐ旨え」

 蔵前は時計を見ながら言った。

「後片付けもあるんだし、迷惑よ。さあさ、お休みお休み」

  深夜午前一時。

 酔いのまわった男部屋では浴衣がすっかり開けた杉田と和道、祖父江が大の字になっていびきをかき、的場と御手洗は横倒しで寝ている。その傍らでは布団の右隅に小さく丸まって寝息を立てている伊東がいる。

 女部屋でも大の字にひっくり返っている願成寺も大鼾だ。管弦はうつ伏せでふて寝し、寺家と天馬は伊東同様大人しく丸まっている。

 しかし、布団に潜り込んだ蔵前は両手を頭の後ろに組みながら、あの呼び声が気になって眠れないでいた。

『あの声……気になる……』

 世が白み馴染める頃、蔵前は眠りについた。


 翌朝。

「お気をつけてお帰りください。またお待ちしております」

 宿の主人と女将、大将と賄い全員が別れを惜しむかのように手を振っていた。

 マイクロバスを運転する杉田一行は、帰りしな、宿の主人から聞いた名所として南山村唯一の『黄昏大滝』を見に行くことにした。

 駐車場にマイクロバスを止め、一同は山道を登っていった。登り切った先には、展望台が設え、その先に大きな滝しぶきがあった。

 黄昏とは言うものの、二十メートル近く上からドウドウと轟音を立てながら流れてくる水音は迫力があった。辺りには清涼感が溢れ清々しい。

「いやあ、凄い迫力だ。宿屋の主人が言うことだけあるな」

「音とこの香り。ものすごい」

 目の見えない黒川も心が打ち震えるように感動した。

「よおし、ここで記念撮影だ」

 和道は持参した三脚を立てカメラを構えた。

「いいかみんな、タイマーかけるぞ、それッ」

「ヒヤッハーッ」

 全員、飛び上がりすっかり観光客だ。

「次は何処に行こうかなあ」

「南山資料館がこの近くにあるようだわよ」

 御手洗の言葉に「そこに行ってから帰るかあ」と運転する杉田は南山村資料館に向かった。

 そこには何処にでもありがちな各種農機具や工具、簔、庄屋の記録など昔の写真が展示され、学芸員もいない何の変哲も無い冷え冷えとした資料館だ。

「ここは林業で栄えた村か」

「上質の炭も出来たようだねえ」

「米俵を積んだ馬の写真があるぞ」

 ガラス越しに展示してある古文書を蔵前は見つけた。

 江戸時代初期の文面だろうか、全く判別できない漢文のような文字が連なっている。

 蔵前の脇から杖をついた天馬がのぞき込んだかと思うといきなりつぶやきはじめた。

「ええと……遙か昔より奇異なる言い伝えあり候……」

 蔵前は吃驚した。

 天馬は蔵前を見ると、ニコッと笑った。

「続きを知りたい」

「安政……読めない。……常世之神? あらわれし候……田畑食い荒らし……かな? 要するにこの地区に現れた何かが米を食い荒らしたので、窮状を訴えるため当時の藩主に訴状をしたため書簡のようね」

 昨夜のこともあり蔵前は興奮した。

「気になるー。この古文書借りること出来ないかなあ」

「いくら何でも村の文化財だから無理でしょ」

 天馬は素っ気なかった。


 昭和初期の香りを漂わせる和風旅館『木耳』。

 スケロク商事が立ち去った後の二週間後、村長の飯田が顔を出した。

「これはこれは村長さん、最近は忙しいようですねえ」

 白髪の村長は七十過ぎの小男だが、浅黒い顔と引き締まった両腕に米農家の意地が見えた。

「鍵屋さんよ」

 飯田は屋号で宿屋の主人に呼びかけた。

「昨日、国民放送協会KHKから電話があってな、近日中に総勢十五名の宿を手配してくれないか、と依頼が来たんだ。そこで木耳さんを紹介しようと思うんだが、どうだべ」

 鍵屋は揉み手をした。

「それは喜んで引き受けますべ。今んとこ投宿者もなく宿は空いてるんで、いつでもどうぞ。歓迎します」

「そうか、じゃあ、そーすべぇかのう」

「でも何故また、こんな鄙びたところへ?」

 宿屋の主人の疑問に村長は答えた。

「企画が通れば、らしいんだがな、『トコヨノカミ』の存在の有無を放送したいらしい」

 そう言う村長の言葉に桑田は天馬を思い出した。

 二ヶ月後企画が通り、原板はらいた大学文化人類学の八女田やめた准教授率いるサークル五名とKHKのテレビクルー十名総勢十五名が木耳にやってきた。

「東京から四時間ほどでこんな凄い山奥に来られるんだから日本は広いなあ。空気も都会と違って清々しいし」

 山深い森林を見てKHKディレクター矢羽井やばいは深呼吸した。

 やはり山林を見ながら八女田は言う。

「人間というモノは日本各地に伝わる伝説……例えばヒバゴン、チバゴン、ヤッシー、滝太郎、ツチノコ、河童、天狗など伝説や伝承となって各地に残るが、これらは決して空想絵空事とは僕は思っていない。全て人間が見たこと、体験したことで語られるのだ。もちろんいまでは絶滅しているかもしれないが、見聞きしないことについては語ることは出来ない。つまりここには何かがある、と僕は思っている。そこで大学理事会に今回の企画立案したのだ」

 矢羽井は八女田准教授の顔を覗き込んだ。

「確かに国民放送協会企画室の調査ではここにはトコヨノカミ伝説があることが分かりましたよ」

 八女田は得意そうな顔をした。

「そうだろう。見たものがいない限り、トコヨノカミの話など出てくる訳はない。遙か昔の昭和の時代に一度調査が入った記録が残っているが、結局正体不明のまま終了している。そこで僕は仮説を立てた。みたまえ、急峻な山に三方を囲まれ外界との接点は少ないことを。ここに独自の進化があっても不思議では無い」

 矢羽井はヒトを小馬鹿にするような目つきをし、薄笑いを浮かべた。

「我々も原板大学からの提案がなければ、この企画はなかったですよ。ネット社会のおかげで中小の民間放送局も倒産や撤退ですし、大手も穏やかではありません。KHKだってこの先どうなるやら。今や放送業界自体じり貧ですんでね……しかし准教授、熊かなんかと見間違えたとか無いんでしょうかねえ」

 矢羽井の薄笑いに八女田が言う。

「確かにこの周辺にはツキノワグマが棲息しているらしいが、学問は緻密な論理と地道な検証作業で成立する。それが例え、熊だったとしても、正体が分かればそれで良い。逆に熊ではないと判明すれば、一体何だろう、と疑問が湧き、さらなる論理が生まれる。考えもみたまえ。あの古代魚シーラカンスの存在も当初は世界の生物学者でも信用されていなかったんだ」

 矢羽井は肩をすくめた。

「でも土地の漁師では、よく網にかかったと言うことですよ。それほど見慣れていたんですね。漁師連中が言うことにゃ、とてもマズくて食えたもんじゃないと。……こんなマズい魚をなんでこんな騒ぎになるのか、といぶかしがったと言う事でしたよ」

 八女田は断言した。

「漁師には当たり前でも、それは、いるはずが無いと決めつけていた学者にとって盲点だった。君ン所だってかの昔ダイオウイカの捕食をスクープしたというじゃないか」

 矢羽井は頭を掻いた。

「そんな昔の話を引っ張り出されてもねえ……アタシら、入社前の話なんでタッチしてませんで」


 宿に着いた一行は荷物を降ろすと早速、南山村役場と自治会館に赴き、村長をはじめ村の有志数名と挨拶を交わした。

 その自治会館では村全体の地図や山林の図面、村長から渡された古文書、古記録、巻物の類が広げられ、自治会館はさながら野戦病院の有様となった。その有様は余すことなく撮影隊のカメラに収まって行く。

 村長はきりだす。

「ここにあるものは全て代々伝わる南山村の古文書や伝記、古記録です。役場と掛け合って資料館から借り受けてきました。言い伝えによりますと飢饉で村の窮状を訴える訴状とか、巨大地震が起こり村の惨状を記した口伝など雑多に書かれていると言うことです。トコヨノカミの記述もあるそうなんですが、何分古すぎて役場でも分からないと。ですがこの写真、見てください」

 一枚の古びたモノクロ写真を提示すると、八女田准教授と矢羽井ディレクターが交互に覗き込んだ。

 不鮮明だがうっそうと生い茂っている巨木の傍らに、巨大化した猿よのうな、あるいは熊のような生物が映り込まれている。

「あいにくとこの一枚だけですが、当時の登山家が偶然撮影したものです。この一枚で昭和の中頃に、調査隊が組まれ調査したことですが、それらしき足跡とかフンを採取した程度で、結局正体不明のまま今日に至っております」

「と言うことは熊以外の大型獣が潜んでいる可能性は否定できない。他には何か無いのか」

「調査団の記録誌がこれです」

 やはり古びた書物を二人の前に差し出した。それは当時の調査記録であった。石膏で固められた足跡の写真がモノクロで数枚、収集したフンの分析などが記載されている。

 八女田は捲ると呟いた。

「やはり、この地には何かが潜んでいる」

 八女田は顔を上げた。

「この村の古老などと話しできないかな。トコヨノカミの謎を解くにも必要だ」

 南山資料館館長の和田が言葉を継いだ。

「かの大昔、隣村を含めてこの付近一帯には山岳信仰があったと言うことです。時代は不明ですが、修験者が山道を登っていると、とてつもない巨大何かに鉢合わせをしたという村の最長老から聞いたことがあります」

 村長の話を聞いた八女田は興奮した。

「ここは高い山に囲われた盆地だ。外界から隔絶されており接点は少ない。と言うことは独自に進化する要素がここにはある」

「はあ、そうなんですか。確かにそう言えなくもありませんが」

 飯田の言葉に八女田は言う。

「是非その最長老から話を聞いてみたい。会わせてもらえんものかな」

「明日連絡を取ってみますよ」

 そして一行は、古文書の類広げ見回したが、准教授をはじめ助手でも何が書かれているのか、さっぱり解読できなかった。その他に多数のモノクロ写真など混在している。

「よく集めてきたもんだな。さて、どこから手をつけるか? おい、星蘭君、大学に連絡を取って、古文書学の古屋先生を呼んでくれないか」

「はい、分かりました」と女子大生が答える。

 宿に戻り、夕食もそこそこに早速クルーを交え協議に入った。その様子も逐一、カメラと音声に記録されている。

「星蘭君、古屋教授と連絡取れたかな?」

「はい、連絡は取れましたが、佐賀県に出張中で当分動きが取れないようです」

「そうか」

 八女田准教授の言葉に助手の男子学生が提案した。

「写真に収め大学に送信ししてみましょうか。それなら研究室でも読めるかも」

「そうしてみるか」

 かなり古いこともあり、古文書を捲るにも破けないかとヒヤヒヤしながら捲って、カメラに収めるが八女田はストップさせた。

「間怠っこしいな。試しに表紙だけ送ってみよう。電送の準備だ」

「分かりましたあ」と一人が答えたが、深い山々に囲われた盆地のこともあり、電波状態が悪く電送データは途切れ途切れになり、ようやく二時間掛けて一枚送れるかどうかの有様だ。

 さらに宿の協力でファックスを試みようとしたが、解像度が粗く不鮮明なことが分かり断念した。

 八女田はがっかりした。

「この現代日本において、こんな事が起きるとは想像外だ。やっぱり大学に運び込まなければならんかな」

 助手の星蘭は口を尖らせた。

「運び込むにしろ相当慎重にあつかわないとなりませんよ。何しろ年代物ですし、村の文化財でもありますから、破れたりでもしたら取り返しがつきません。責任は持てませんよ、先生」


 一方、夜にもかかわらず、賛成派と反対派の村民が村長宅に集まっていた。

 髭面の古老が切り出した。

「今更トコヨノカミでもないだべ。そっとして欲しいと思うがのォ」

「んだども、評判になればこの村にも活気が溢れるかもしれんだべな」

 村長の言葉に反対派の一人が言う。

「けっ、いるんだかいないんだか分かりもしないんだべ、他所モンに村が引っかき回されるのは、おらァご免だ」

 木耳の主人、桑田は話す。

「南山村の名物になるかもしんないべ。県内外からお客さんを呼び込めれば、この村にだって人が来るし活気づくしな」

 桑田の声に明らかに軽蔑するような言い方がした。

「鍵屋さんとこは儲かるかもしれんがの、畑が荒らされるコトだってあるべ。他所モンに来て欲しくない。どっちにしろわしは反対じゃ」

 降って湧いたような騒動に南山村の二分する騒動に発展しそうな雰囲気に溢れていた。


 翌朝。

 朝食後、八女田は腕を組みながら投宿している和風旅館『木耳』の玄関に向かっていた。

『何かいい方法はないものか』

 玄関を出ると雲一つ無い好天気だ。ひんやりとした空気に思わずクシャミがでた。

「先生、風邪を引きますよ」

 宿屋の主人、桑田の声に八女田は振り向いた。

「何かお考えごとでも?」

「そうなんだ、実は……」と八女田は話し出した。

 話を聞いた宿の主人は思い出した。

「そう言えば先生、宿泊客の中に村の古文書を読み上げた方がおりましてね……」


 午前九時、スケロク商事の電話が鳴った。

 保留ボタンを押した管弦は杉田に言った。

「社長、古文書を解読してくれってサ、どうする、出る?」

「古文書の解読?」

 管弦の言葉に怪訝そうな顔つきの杉田は電話を取った。

「原板大学の八女田と申しますがね、いま、南山村に投宿しているんですよ。そこの宿屋の主人からそちらで古文書を解析できるか方がいらっしゃると聞きましたんで、是非協力して頂きたいと思い……」

 いくら何でもやる、と標榜するスケロク商事だが、八女田の問い合わせには面食らった。

「古文書の解読なら大学のほうで対処できますでしょうに?」

 受話器から八女田のため息が聞こえた。

「確かにそうなんだが……お恥ずかしい話、急を要するにもかかわらず、大学からの協力は大分後になる。こちらもそんなに長く調査できんので是非一つ受けてくれんかな」

 切羽詰まったような相手の言い方に杉田は押され気味だった。

「確かにおりますが、専門家ではありません。古文書同好会で解読しているアマチュアです」

「それでも良い、事は急を要するんだ、かかる費用は支払う。何しろ世紀の発見があるかもしれない、重要な記録なのだ」

 杉田は顔を顰めた。

「世紀の発見、ですって? それならそれで益々責任重大です。もし間違いを起こしたら、責任は取れません。専門家ではないので」

 杉田は続けた。

「確かに南山村で投宿しましたよ。しかしお解りかと思いますが、そこに行くには車が必要です。当人は運転が出来ません。……どうしてもと言うなら運転手をつけて二人がかりとなります。……は? それでも良いとおっしゃられても……」

 電話を切った杉田に和道が天馬の顔を見た。

「断った方がいいんじゃないかな、社長。こういっちゃあ何だがね、素人に毛が生えた程度の天馬君にナニができると言うんだね」

 杉田はため息をついた。

「俺もそう思ったんだが、相手は引かなくてね。終いには『何でも請け負うんだろう』てぇ言い草だ。これから電話を受ける際は『何でも請け負うスケロク商事』と言うフレーズ、考え直した方が良いなア」

 書類の整理をしていた天馬が顔を上げた。

「このところ売り上げが厳しくなってきています。アタシで良ければ遠慮なさらないでください。こんなアタシでも出来ることがあれば『何でも請け負います』よ」

 冗談めかした言い方だが、伝馬の目は真剣だ。

 杉田は天馬の顔をじっと見つめた。

「売り上げに協力してもらうのは有り難いが、その身体では無理だな。天馬には運転手兼付き添いが必要だ。和道やケンジをつける訳にはいかないしな……運転手兼付き添いとするならば、サヤカしかいないな」

「そんなに古文書の解読って、必要なんかさぁ?」

 管弦の疑問に黒川の黒めがねが光る。

「伝説上の生き物を発見するための一つの手がかりとして、必要なのでしょう。古文書や古記録から発見場所など詳細な記述が見つかれば、そこを足がかりにして調査を広げられる。闇雲に山の中を彷徨うわけには行きませんから。それに大学には格好の宣伝にもなります。時代は少子化です。大学に入学する生徒も激減し、大学自体学生の取り合いに必死です。もし発見があれば原板大学の評価も上がり、生徒数が増えると思われます。そのためにも大学は古文書解読も重要、と考えているのではないでしょうか」

「そう言っちゃあそうなんだろうけどサ。でもどうやって見積もりすンかさ。見積ようが無いんじゃない?」

 管弦の言葉に杉田は考え込んだ。

「一人につきいくら、それにに日数をかけて諸経費と共に出すしかないだろう。しかしこの件はうんとふっかけて断られようよ、社長」

 乗り気のない和道の声に、杉田は腕を組みふんぞり返った。椅子が悲鳴を上げる。

「まあ、そう言う方向に持って行くしかないだろうな」



 篠原久作が入院している県立総合病院検査室。

 電子顕微鏡を熱心に見つめている女性技師に久作担当医、五十嵐が近づいて声をかけた。

「久作さんに何か変わったことはないかな」

 女性技師は顕微鏡から目を離した。

「破傷風菌などの細菌類の検出はありませんでした。今はウィルスの有無を調べてます。念のため県の保健所防疫部検査課にも久作さんから採取した体液を送ってます。あと二日ほどで連絡が詳細が届く予定です」

「そうか、何もなければいいけどね、よろしく頼むよ」

 五十嵐はのんびりした調子で言った。

 集中治療室から一般病棟に移されている篠原久作は点滴を受け静かにベッドに横たわり、様子を見に来た看護士が久作の顔を覗き込んだ。

 久作は目を瞑り静かに寝ていたが……突如目を見開いた。

 「ひゃ」

 吃驚した看護士は仰け反った。

 さらに上半身を起こし点滴の管を荒々しく引き抜いた。そして真っ赤な燃えるような眼を看護士に向けた。

「来ないでッ」

 予期しない出来事に看護士は壁際まで飛び下がった。壁を背にするとずるずる腰が落ちた。

 目を見開き脂汗が流れた。

 あまりの恐怖に金切り声を上げ、同時にガラスが割れる音が院内に響いた。

「なんだ、どうしたっ」

 現場に着くと壁際に腰砕けになって震えている看護士と遭遇した。五十嵐は片膝をつき肩に手を置き声をかける。

「大丈夫か」

 脂汗が滴り、全身が尋常ではないほどガタガタと震え、歯の根が合わない。

「篠原さんが突然起き上がって……ああ……恐ろしい……窓から……窓から飛び出したのですっ」

 震える指先には粉々に砕かれたガラスが飛び散っていた。

「そんな馬鹿な、ここは二階だぞっ」

 担当医は窓から顔を出したが、久作の姿はない。ガラスできったのか、血痕が点々と柴の上に落ちているのがみえた。

「……ああ……コワい……コワいっ」

「落ち着くんだッ」

 普段のほほんとしている医師だが、この時はどう対処すべきか迷いがあった。

 尻餅をついた状態で恐怖に怯えている看護士の眼は尋常ではない。異常事態を感じ集まってきた看護士達に言う。

「彼女を看護室へ」

 震える看護士を数人が取り囲み連れ出していった。

『あんな重症で何処にいったんだ? 飛び降りるどころか身体さえ起こせないのに……』

 五十嵐は訳が分からず窓辺から下を見ていたが、悲鳴に近い色々な声が聞こえだした。そうこうするうちに色々内線が鳴った。

「先生、院長先生がお見えです。至急、院長室へお越しください」

「分かった今行く」

「先生、駐在所のおまわりさんが事情を聞きたいと来院されてます」

「ちょっと待たせておいてくれないかな」

「先生、当病院から犯罪者が逃亡したのは本当か、と地元新聞社から問い合わせ電話です」

「誰がそんな嘘っぱちをッ」

「先生、角を生やした一つ目の巨人が病院から飛び出してきた、と、小学校からの連絡が入ってます」

「何だって? そんなデマがどこから出たんだ」

「先生」

「先生」

「先生」

 風雲告げる事態にのんびりしていた五十嵐医師は慌てふためき、さらに病院内はてんやわんやの騒動となった。



 数十分もすると街中のあちこちで悲鳴があがった。

 血走った目で口を大きく開き、身体を丸め両手を下げた奇妙な格好の久作が、蹌踉めきながらアーケードを歩いている。

 通報を受けた警察はパトカーを召集し、現場に駆けつけた数台のパトカーから警官が躍り出た。

 数十名の男女が喚きながら警察官の脇を通過していった。

「どうしたんだッ」

 警官が若者を捕まえた。

「怪物ですッ」

 青白い顔をした若者が叫んだ。

「なに?」

「向こう……向こうですッ。何とかしてくださいッ」

 警官数名が青年が言う場所に近づいた。

「突き当たりに何かいるぞ」

 塀に囲われた先に久作がいた。

 しかし両手両足に黒い毛が生え始めている。

「何だコイツは、人間なのか?」

 警察官達も異様な姿に目を見張った。

「用心しろ。刺股もってこいッ」

 数名の警官はいつでも発砲できるように腰の拳銃に手をかけ、一人が無線機を手にした。

「応援を求む。場所……」

 警戒している警察官の前で久作は唸り声を上げた。口元からボタボタと涎を流し、辺り一面に鼻をつまむような異臭が漂いはじめた。

「う……何だこの臭いは」

 遠巻きにしている人間もあまりの臭いに後ずさりしはじめる。

「下がって下がって」

 民衆を遠ざけるように警官が警告する。

 刺股で捕らえようと警官達が徐々に久作と間合いを詰める。

 間合いが詰まってきた瞬間、突如久作が吠えた。それはとても人の声とは思えない獣の声だ。

 刺股を構えていた警察官がビクッとした。久作は振り返ると壁に手をかけ、尋常ではない速度で駆け上がった。


 翌朝、南山村役場運動場に簡易的な大きな仮設テントが張られ、テントの前に複数の消防士と村人、南山署から来た警察官数名と警察犬数頭が集まっていた。

 警察官の上長がマイクロホン片手に話をしている。

「これより行方不明者、篠原久作さんを探し出す。久作さんは相当重傷を負っていると病院から通達があった。しかし何であれ救出することが使命だ。鬼啼山方面に向かっているのが複数の防犯カメラ映像から割り出されている。そこで鬼塚神社参道から捜索を開始する……」

 県道三十二号線。

 願成寺が運転するワゴン車に天馬ととともに木耳に向かっていた。

「快適だねえ。行き交う車もありゃしないね」

 口笛を吹いた願成寺の前に、突然数名の警官がスケロク号を止めるように赤棒を振りながら躍り出た。

「検問? こんな場所で?」

 警官が願成寺に声を掛け、不審者を見なかったか、と聞いてきた。

 事情を知らない二人は頭を振った。

「何かあったの」

「見てないならそれで良い。通っていい」

 不機嫌になった願成寺はアクセルを踏んだ。

「何さ、あのぶっきらぼうな言い方は」

 天馬は遠くを見つめるように目を細めた。

「あたしも検問したことあるけど、いえない事情があるの」

「なにそれ?」

「何か事件が起こったのよ」

 そんな騒動をつゆとも知らず願成寺と天馬は木耳に到着し、八女田准教授から聞かされていた宿屋の主人はえびす顔で迎え入れた。

 願成寺を見ると「ようこそ、いらっしゃい。地酒、用意してますよ」

「コリャあいいねえ、温泉に浸かって一杯引っかけようか」

 天馬は慌てた。

「何言うの、仕事よ仕事」

「ところでさあ、ご主人、ここに来る途中で検問があったけど、何かあったのかなあ」

 願成寺の疑問に桑田は答えた。

「行方不明者が出てその捜索にあたっているのです。さて、お二方、こちらにお越しください」

 八女田をはじめ投宿していたクルーは天馬の姿を見て驚いたようだが、試しに古文書の一文を開いた。

「余り期待されても困ります。読めるのは江戸中期以降の古文書です」

「まあまあ、とりあえずこの古文書はどうですか」

「願成寺さん、端末用意してくださる?」

「オッケー」

 願成寺はは肩にかけていた鞄から、五インチほどの端末を取りだし電源を入れた。それは古代文字を解読する専用端末だ。端末のカメラ機能を使って読めない文字にかざすと、それが現代語となって現れる仕組みになっている。

 天馬は綴じられている古文書を破かないように慎重に頁をめくりだした。

 所々その端末を使い書かれた文字と見比べ解読をしたが、どうやら庄屋の日記のようだ。准教授達が期待する出来事ついては書かれていないようだ。

「こっちはどうです?」

 助手が一冊を差し出した。『南山村風土記』と読める。和紙で綴じられたかなり古い書物だが、天馬は慎重に頁をめくり端末をかざしながら最初の項目を読み進んでいった。

「寛永十九年七月、続く日照りに稲穂の生育に難渋し候……毎日餓死者が続き……年貢を納めようにも納められず、村人達は困り果てている、と言う事柄が書かれています。願成寺さん、ちょっと手伝ってくれますか。次の頁めくってもらえます?」

「なんだか張り付いているようだねえ。……慎重に捲らないと……」

 読み解いている最中、准教授は杉田に連絡を取り見積通り支払うと約束した。

「契約書と見積は大学の総務課に提出してくれ。僕から話を通しておくから。ああ、見積通りでいい。追加が出たら? それは請求通り払う。お二人には大学から古文書学の先生が来るまではここにいてもらわなければならん」

 かくして願成寺と天馬は宿屋『木耳』に缶詰となった。

「僕たちは村長と一緒に土地の古老から情報を聞き出すために出かけるから、それらしい記述を見つけておいてくれ」

 そう言い残すと八女田とその一行は村長と一緒に出かける準備をした。

 肩に力が入った矢羽井は号令を掛けた。

「カメラ、録音、照明、各電源、全て異常なし。三班に分かれて准教授達の動向を漏らさず撮影だ。いくぞ」

 次々といなくなりがらんとした自治会館の二人だけが残った。

 二人は愚痴りあった。

「見積もり出すだけじゃなかったの。いきなり缶詰なんて聞いてないよ」

「そうよねえ予想外だわ。部屋の掃除とか片付け終わってないのよ。ぐちゃぐちゃのまま出てきたから。それに着替えとか」

「うん、あたしも困ったよ。ど~すんかなあ」

 天馬はバックから自分の携帯を取りだしてみたが『圏外』と表示されている。

「やっぱり駄目か」

 願成寺は宿屋の主人桑田と掛け合って電話を借り、杉田に報告をし事の経緯を話した。

「かなり面倒な事態になってきたな。瑠那、鍵を渡すから楓の部屋、見てきてくれ。直美はサヤカの部屋から着替えを」


 八女田と撮影隊は村長の手引きで村の中央にある渡里翁の家にたどり着いた。渡里翁は代々の旧家を引き継いだ村一番の古老だった。

 板張りの古風な縁側で渡里翁は樫の木の杖に顎を乗せ、籐の椅子に腰をかけていたかけていた。来年で百歳になると言う渡里翁には深い皺と顔一面に浮き出た染みがその人生を物語っている。

 渡里翁は語りかけた。

「大昔わしの大叔父から聞いた話だが、鬼啼山でキノコを採っていた際、赤鬼にあったと言うことだった」

「鬼ですか」

 渡里翁は痰が絡んだような咳払いをした。

「……さよう、身の丈六尺あったそうだ。全身剛毛に覆われ、異様な顔つきだったという。腰巻き一つで真っ赤な目で睨まれたそうだ。腰の籐篭を放り出し逃げ帰ったという事だった。それ以来、大叔父は鬼啼山には入らなかった」

 渡里翁の話に八女田は村長に尋ねた。

「村長、その鬼啼山とは何処にあるのかね」

「ここから五キロほど離れた鬼塚神社の参道をあがった辺りです。案内しましょう」

 村長を乗せ報道バスが神社に向かった。

 渡里翁から聞き出した鬼啼山参道入り口に降り立った八女田は参道入り口を見つめた。消防車と救急車、数台のパトカーが止まっている。

 村の駐在員が八女田達に近づいてきた。

「ここから先は行方不明者の捜索隊が入山していますので、立ち入らないでください」

「立ち入り禁止かい?」

 村長は馴染みになっている警官に尋ねた。

「強制ではないですがね、出来れば入らないで欲しいのです」

「行方不明者って?」

「久作さんです」

「え? 重傷を負って入院しているんじゃなかったんか」

「最初はそう聞いていたんですがね、なぜか病院から抜け出したようで。そしてこの山々に入っていったと、こうなんですよ」

 二人のやり取りを聞いていた八女田は残念そうな顔をした。

「仕方ないか、だが鬼啼山とは、いかにもいそうな感じだが」

 准教授一行は引き上げようとしたが、止めるかのように村長が話し出した。

「山頂に入るルートはここの他にもう一つあります。ちょっと歩きますが案内しますよ」

「ほう、それは有り難いな」

 かくして一行は別の参道入り口に赴いたが、そこは苔むした階段と急坂が待ち受けていた。

「元々ここが正式の道でしたがね、山崩れがあったため止むなく迂回処置をしたのですよ」

 村長の言葉に一同は旧参道を登っていった。

 登った先の直ぐには身の丈ほど伸び上がった草とその先に行く手を遮るように森林が林立しているのが分かった。一行は背丈ほどもある雑草を手で掻き分けながら進んでいったが、急な斜面は何かと滑りやすく八女田の手の甲は傷だらけになっていった。

「こりゃあ難儀だ。切り開きながら進むにはロープや鎌などがいる。この先をどうやって行くか」

 思案すべく准教授は腕組みをした。

「鬼啼山にいけば何か分かるか。山頂目掛けて登るか。それとも途中で赤鬼に出っくわすか」

「止めてくださいよう、准教授。そんな怖いこと」

 星蘭の声に八女田は振り向く。

「そんなに怖いか?」

「得体の知れないモノがいたら……」

 その他のサークル連中も怖がっている様子だ。

 八女田は腕時計を見た。

「とりあえず宿に戻り、それから対策を練る」

 帰りの報道車の中、八女田は村長と話し合っていた。揺れる車中でもカメラクルー達は淡々と撮している。

「山頂付近に罠を仕掛ける訳にはいかんかね」

 村長は吃驚た声を出した。

「罠ですか」

 八女田の頭の中はトコヨノカミのことで一杯だった。

「どうしてもトコヨノカミとやらを捕まえたい」

 村長は言葉を返した。

「トコヨノカミと言っても伝説上の話ですからねえ、捕まえるもなにも。それに箱ワナを仕掛けるとおっしゃっても、現場で組み立てようにも重量物ですしあんな山道ではとても運べませんよ」

 村長は八女田を見つめた。

「山頂付近を中心に高感度暗視カメラを設置しますか」

 矢羽井は提案した。

「暗視カメラ……?」

 八女田は唸った。

「KHKが独自に開発した最新鋭の電送装置付暗視カメラですよ。動きを検知すると自動的に撮影に入り、同時に映像をこの報道車両に送信します」

「こんな電波状態の悪い中、大丈夫なのかね」

 矢羽井は胸を叩いた。

「こんなこともあろうかと想定してまして。この車両には微弱な電波でも捕らえられるようパラボラ型アンテナを積載しております。若干組立に時間がかかりますがね。でも手元で直ぐに確認が取れますしね、いちいち回収する手間が省けるという優れものです」

 矢羽井は鼻高々だ。

「複数台持ってきてますからクルーと手分けして設置しますよ。手始めにテストがてら鬼啼山参道付近に明日にでも設置してみましょう。我々もこの企画には並々ならぬ情熱をかけているんですから」

 しかし八女田は渋い表情をした。

「君たちはスクープさえ撮れればいいんだろうが、僕たちはそうはいかない。確たる証拠が欲しい」

「映像でも証拠にはなりますでしょう」

「山頂付近が怪しいと思っているが、そこまで行くにも我々だけでは無理だ。切り進むにしろ、さらに人手がいる」

 八女田は前席にいる村長に声をかけた。

「村長、村人達を集めるわけにはいかんかね」

 二人のやり取りを黙って聞いていた村長だったが、准教授の申し出にあきらめた顔つきをした。

「協力できるかどうか……村では反対派と賛成派の二手に分かれてますんで、さらにもめますよ。なによりこれから収穫時期になりますんでね。そちらの方で何とかして欲しいものです」

 揺れる車の中八女田准教授は腕を組み考え込んだ。

「そうなると予算が厳しい。時間も人手も足りない。どうするか」

 自治会館に戻った八女田はまず初めに願成寺達に声をかけた。

「何か手がかり、見つけたか」

「未だです」

 天馬は首を振る。

「兎に角急いでくれ」

 ぶっきらぼうに言うとサークルに明日の計画を立てたはじめた。

 話し合っている最中に矢羽井が八女田に声をかけた。

「先生、テストを兼ねてこれから参道にカメラを設置してきますよ。准教授の邪魔はしません。なあにそんな時間はかかりません。終わり次第宿のほうへいきます」

 矢羽井の情熱に根負けした八女田は言う。

「分かった分かった、そっちは任せる」


 久作捜査のほうもはかばかしい展開がなかった。警察犬は川に阻まれその場を彷徨いていた。

 捜索隊は足止めを食らい隊長は思案した。

「この川を渡って向かい側に行ったのか? 結構な流れだぞ。となると下流の捜索も必要になるな」

「本部に応援を要請しましょう」

 警官の一人が隊長に提案する。

「さらに消防にも協力を仰ごう。川向こうに行く手立ても考えなければならん。県警のヘリを使うか? しかし何だな、重傷を負った人間が何故ここまで来られたのか。さらに何処に行こうとしているのか。本当に重傷を負っているのか。どちらにしろここまでだ。対応を練るために署に戻ろう」



 重傷を負って身動きできないはずの久作は荒い息をたてながら、ある一点を目指すように森の中を彷徨っていた。狂気じみた目で下草を踏みしめ、枝を腕でなぎ倒し、突き進んでいる。

 病院服に身を包み上半身に巻かれている包帯は血が滲んでいるが、久作は揺るぎない決意を持って歩んでいた。

 日が西に傾き夕闇が迫ってきた。

 野生の鹿が遠くから久作の行く先を見つめている。慌てるように子連れのイノシシが藪に身を隠す。ニホンザルの一群が警戒し吠える。

 

 そして……天空に満月が光り輝き大地を照らしはじめ静寂が漂う。

 朽ち果て廃墟と化した木造の建物の前に僅かな広場がある。その広場の中央付近に出た久作は正座するようにがっくりと膝を落とした。

 暫くすると久作の身体が小刻みに震えだし、さらに身体が変形しはじめた。


 何が始まるのか?


 矢羽井は食事もそこそこに報道車車内で夜通し映像を眺めていた。

『フン、タヌキにキツネ、アオダイショウ……木の上にはフクロウか……ろくなものが映ってないな』

「ディレクター、准教授一行が宿を出ます」

 矢羽井は、はっとした。いつの間にか車内で寝ていたようだ。慌てて答えた。

「おし、分かった。君たち撮影の準備だ。参道のカメラの回収忘れるなよ」

「はい」

 

 朝八時には設営されたテント前に消防と県警本部からの応援で捜索隊の人数が膨れあがっていた。消防のヘリも加わり空からの捜索活動が展開されるようになった。

「消防は川下を重点的に探してください。県警は川の向こう側に渡って捜索を続ける」

 しかし深い木々に覆われた山ではヘリの捜索も難航を極めた。

 川の下流を捜索するが背の高い草木に行く手を阻まれ、はかばかしい進展はない。

「一体久作は何処に消えたんだべ?」

 村人達も農作業の傍ら挨拶代わりに言い交わしていた。

「姿を隠すなんておかしいべ」

「どれもこれもあいつらが村に立ち入ってきてからおかしくなってきたんだ」

 一人が腹を立てる様に切り出した。あいつらとは准教授一行のことだ。

「村長に掛け合ってあいつらをこの村から追い出すよう言うべ」

「そうだそうだ」

 思わしく思っていない村民達は農作業を放り出し、村長宅へ向かって行った。それほどまでに村人達はいきりたっていたのであった。



 同時刻、サガミハラ保健所検疫室。

 検査技師新田は驚きの目で電子顕微鏡を見ていた。

「このウィルスの動きは一体……」

 幾多の検査を施している新田にとっても、その姿、その動きは経験したことがない異質な世界だった。

「異常な速さで増幅している。それにこの特徴的な円筒型は……いや、まさか……?」

 電子顕微鏡から目を離した新田は上司を呼ぶべく内線電話を操作した。

「新田か、どうした」

「係長、検体者からの唾液および血液から未確認ウィルスを検出しました。さらに異様な速度で増殖を繰り返しています」

「分かった、今そちらに行く」

直ぐに新田に呼びだされた係長が部屋に飛び込んできた。

「モニターに映し出します」

 係長の顔を見て新田は緊張した面持ちでモニタを操作した。

「これです。活性化したウィルスは異様な速度で自己増殖を繰り返してます」

 係長は眼鏡を押し上げモニターに見入った。

「特徴的な円筒形からしてこれは狂犬病ウィルスに似ているようだが、日本ではとっくに根絶されている」

「しかし係長、機知の狂犬病では説明がつかない速さの増殖率です。通常ではこんな短時間で増殖を繰り返すなんて考えにくいです」

 新田は確信するようにモニタを指さした。

「うむむ……どんな性質を持っているか分からん。被害が出る前に大至急、患者の確保だ。私は課長と共に病院に連絡を入れる。君は遺伝子解析システムを使え。この先どのように動作するか確認だ」

「了解しました」


「それは本当ですか」

「事実だ」

 五十嵐の言葉に防疫部管理課磯部係長の声が響いた。

「持ち込まれた検体のウィルス検査を実施した結果、狂犬病ウィルスらしきウィルスを発見した。感染者特別搬送車をそちらに向かわせるので早急に患者を隔離せよ。くれぐれも十分注意するよう」

 電話口を塞ぎ院長と五十嵐は顔を合わせた。

「電話替わりました、院長の小杉と言います。……実は……」

 院長の言葉に磯部は驚いた声を発した。

「なんだってっ? 逃げ出した? 患者は身動きできないと報告が来ているぞ。そんな馬鹿な話しってあるものかっ」

「重傷の身にもかかわらず二階の一般病棟から飛び出したのです」

 磯部は院長に問いかけた。

「警察や消防に連絡を取ったのか?」

 小杉院長は「捜索願を出しております」と答えた。

 磯部は命令した。

「分かった。……院長、緊急事態だ。これからそちらに調査に向かう。同時に消毒作業を手配する」

 それだけ言うと保健所からの電話は切れた。院長は慌てたように部屋を飛び出し、後に残された五十嵐は呆然と立ち尽くすだけだった。



 天馬達が缶詰状態から五日ほど経った昼間。

 捜索のほうも准教授一行もはかばかしい展開がなかった。

 さらに准教授率いるサークルも荒れた山道を切り開きながら進むのは困難を極め、迷路に立ち入ったように苛立ち、日に日に疲労感が増していた。

 自治会館では二人は雪隠詰め状態が続いている。二人しかいない自治会館を幸いに愚痴を言い合っていた。

 願成寺は両手を挙げ大きな欠伸をした。

「あーあ……あれから一週間近くなるねえ。なんたって着た切り雀だし、会社の連絡にいちいち宿で電話を借りるのも気が引けてきたよ。下着や洗濯なんかで宿の女将さんにも迷惑かけてるし」

「アタシの自宅には直美さんと瑠那さんが郵便物とか掃除をしてくれて、これも迷惑かけてるわ。ごめんなさいね。遅くて」

「ううん、いいのさ。ただ、飽きてきたねえ」

「八女田先生は当分帰してくれなさそうだし」

「忌々しい先生だよ、全く」

 自治会館御前に一台のタクシーが止まり、中からヤギのような純白のヒゲを携えた七十近い男が無言で降り立った。そして自治会館の扉を勢いよく開いた。同時に響く男の声に、二人は総毛立つほど吃驚した。

「ごめんよ」

 遠慮会釈無く引き戸を開けた男は二人を認め笑い声を上げた。

「いやあ、諸君、御機嫌よう。原板大学古文書学の古田だよ。アンタがたかね? 准教授の補助というのは。ちょっと手が空いたんで様子をみに来たんだけどな、八女田先生は何処かな~」

 ヒトを見下したような言い草で現れた男の出現に、あっけにとられた天馬が言う。

「山に調査に出向いてます。夕方こちらに戻ることになってます」

 山羊鬚の男が笑う。

「そーかね。まあ准教授はどうでも良いいんだよ、吾が輩は古記録の解読を頼まれただけだから……うーん……君たち随分と古ぼけた端末を使っておるなー」

 古屋と名乗る男は天馬の端末を見た。

「最新はこれだよ、これ」

 誇らしげに古田は革の鞄から端末を取りだし、そしてちいさなカードを差し込み、端末の電源を入れた。

「どうだあ。あんたらの使っている端末とは大違いだろー。画面がでかい。見やすい。高解像度の解読レンズと古文書解読専用AI搭載の最新式がこれだ。プロはこういう端末を使うんだなー」

『いかすけないヤツ』

 嫌みっぽく言う古田に願成寺は舌を鳴らした。

「どれ、貸してみ」

 古田は天馬から奪うようにひったくった。

「破れるっ!」

 天馬の悲鳴に気にもかけず、読込はじめた。

「わかっちょるわかっちょる。素人のおたくらより僕は専門家だからねー。……ほうほう、こりゃあ当時の領主が出した田畑の権利書と利用規約だねー」

 いとも簡単に紐解くと古屋は言い放つ。

「アンタ方ねえ、僕が聞いているのはここに棲んでいる訳の分からん獣のことだよ。だからこんなチンケな文書で時間をとられるコト、したくないんだよー。つまりここれは用なしってヤツ。こんなんで時間をかけているアンタらは素人に毛が生えた程度、てもんだ。何せ吾が輩には時間が無い。それらしい記述を探さんば、日が暮れちまうてぇもんだ。……さアて、吾が輩はこっちから見ていくから、邪魔せんでくれよなー」

 まくし立てる古田に、二人はあっけにとられた。

「さてさて……っと」

 書物の束を探りはじめた。

「アンタらにはこっちの書物のほうが読めんじゃないかの。ほれ」

 一冊を投げるように天馬の前に置いた。埃が吹き上がる。

「明治時代の書物だ」

『馬鹿にすんのかよ……』と言いかけ腰を上げかけた願成寺に天馬は右手一本で必死になって袖を引っ張った。

『駄目よ。ここは我慢のしどころよ』

『だってさ、あのクソジジイの言い草、癪に障るっ』

『先生の言うとおりこっちは素人、下手に逆らっても駄目よ。我慢我慢』



 夕方近く八女田一行が自治会館に戻ってきた。

「天馬さん、どんな調子かな? ……おやまあ、古田教授。いらしてたんですか。イヤこれは有り難い。教授がいれば百人力だ」

 感激した面持ちで八女田は古田に握手を求めた。

「イヤナニ、余り長居は出来ないがね、できる限り協力するよ。しかし准教授も大変だな。アマチュアの、それも女二人に任せるとはなあ。それに一人は身体不自由者じゃないか」

 古田の軽蔑するような言い方に、とうとう願成寺は癇癪を起こした。

「女だと思って馬鹿にしてんのかよっ」

「願成寺さん、止めて」

 またもや天馬は、けんか腰の願成寺を必死になって止めた。止めに入らなければ、殴りかかっていたかもしれなかった。

 そんなやり取りもKHKのカメラは無表情に収録している。

 古田はにやついた。

「仲間割れはよしなさいよーみっともないねー。それより仕事だ、仕事」

「教授、何か分かりましたかね」

 八女田の言葉に古田は肩をすくめた。

「まだだねえ。ざっと見ると鎌倉時代の文書もあるし、字体や崩し文字など時代時代によって違いがあるンでの。何よりこの村の規模のわりにはやたら古記録が多いな」

「昔はかなり栄えた村のようですし、役場でもかなり積極的に保存してきた歴史があります。……さらに古文書を借りてきたんですが。ここに何か記述はないでしょうかね」

 古田はそれが癖のように顎髭を扱いた。

「仕事が増えたねえ。こっちが終われば取りかかるさ。そっちの方はどうだい、何か成果があったんか?」

 戯けるような古田の顔を八女田は真剣に見つめた。

「あちこち痕跡を追っているんですが、確証に至る証拠が見つかりませんので。しかしここには何かある」

「ほうほう……それはそれは……」

 准教授の真剣な眼差しに古田はちょっと驚いた風だった。

「やっぱ、君は何かいると感じているのだな?」

「感じではない。確信です」

 古田とのやり取りのあと、八女田は調査に加わっている学生に小さな声で話し出した。

「教授が来たからにはスケロク商事の二人には帰ってもらおう」

 八女田の呟きに男子学生が提言した。

「お忙しい先生なので、いつまでいられるか聞いてからでも良いのではないでしょうか、八女田准教授」

 矢羽井ディレクターも賛成した。

「そうですよ、准教授。編集段階でバッサリ切ると思いますがね、あの凸凹コンビはとっても絵になるし、面白いですよ」

 八女田は困ったように顎を撫でた。

「とは言っても経費がな」

 矢羽井は胸を叩いた。

「放送局に稟議を回しますよ」

「大丈夫なのか」と驚く八女田准教授。

「国民からの受信料で資金は潤沢ですよ。それにくどいようですがこの一件には僕もかけてるんですから」

 矢羽井は確信めいたように准教授に言った。

 そうこうしているうちに宿屋の女将が自治会館に顔を出した。


 自治会館内部では天馬と願成寺が古文書の解読に勤しんでいたが、散々二人に悪態をついていた古屋が名古屋で講演があると言うことでいなくなった。

「アンタ方」

 自治会館を去る前に古田は置き土産を置いていった。

「ここんとこ、解読してみーや」

 南山風土記の後半に切り刻んでいた和紙が付箋のように挟んである。

「チッと、面白い記述を見つけたんだがな、アンタ方に勝ちを譲るよー。まあアンタ方せいぜい頑張ってくれよなー……そうそう、この端末置いとってやる。勘違いするなよー、君たちにくれてやるんじゃ無いぞ、貸し付けんだー。用がなくなったら八女田先生に渡しといてくれ給え。壊したら弁償な。……ふふん……とは言っても使いこなせるかな~」

 朗らかに吉田は去って行った。

「クッソー腹立つー」

 願成寺の悪口に天馬は押さえ込んだ。

「カメラ、回ってるから静かに」

 天馬は吉田から与えられた風土記をじっと見つめた。

「どしたん?」

 願成寺には目もくれず、天馬は無中で文字を指で追いかけている。与えられた端末と見比べながら驚きを持って言い放った。

「これは……! 願成寺さん、次を捲ってくれます?」

 訳が分からない願成寺は言われるままめくりはじめた。

 次々と解読する天馬の目は光っていった。

「寛永二十年夏、またも今年の日照りも収まる事無く、雨乞いも虚しく……三人の僧侶現れし候、三人の僧は高潔、快傑、心傑と名乗り諸国を巡りおり、般若寺? に投宿……。村人は僅かに残る穀物を僧侶に分け与えし候……施しを受けた三人の僧侶は翌朝村人数人を連れて、錫杖を持って小高い山に分け入いり……願成寺さん次を捲ってもらえますか」

 ぶつぶつと呟く天馬に願成寺は何が何だか分からなかったが、天馬の言うがままに次々にそっと捲っていった。


 その頃山に入っていた一行の一人が何かを発見したように叫んだ。

「ここに足跡がッ」

 にそこかしこに深く刻み込まれた足跡があったが、それはどんな動物にもあたらない大きな足跡だった。そしてその傍らには何かを引き摺っていた跡もあった。

 驚嘆した助手の言葉に八女田は断言した。

「何かしらの大きな生物がここにいたんだ。石膏で固めて撮影をしてくれ。しかし何を引き摺っていたんだろう。その間に僕は足跡を追跡する」

「止めて、先生」

 星蘭が震えるように叫んだ。

「得体の知れない怪物に遭遇したら……」

 八女田は振りかえって矢羽井を見た。

「そうなれば矢羽井さん、映像記録お願いしますよ。君たちはここで待っていてくれ」

 覚悟を決めた准教授はクルーと共に森の中へ分け入って行った。

「先生……」

 両手で頬を充てた星蘭の両目に涙が流れたが、暫くすると八女田は途中で足跡を見失い、引き返してきた。

「駄目だ」

 首を横に振る准教授に星蘭は安堵した。


 がっかりした准教授一行は自治会館に戻ってきた。一切合切読み解いた天馬は八女田に報告した。


「小高い山というのは鬼啼山か?」

 八女田は言う。

「ここには、そのような記述はありません……ですが、僧侶の指示のまま鎌を持った村人が藪をなぎ払い突き進むと……奇っ怪な獣と鉢合わせ、との記述がありました」

「何?」

 八女田小さく叫んだ。

 矢羽井も興味津々に覗き込んだ。

「……身の丈五尺七寸、真っ赤に燃える瞳と全身剛毛に覆われし、猿とも熊とも思われぬ異形な姿なり。村人達は腰を抜かすも、睨みつけた怪異なるモノは高僧に恐れをなし、たちまち草藪に逃げ隠れ……三人の僧侶はこれは吉兆なり、と申し候。不可思議に思った村民達は、意を決し夢中で山頂広場到着也。僧侶三人、次々と錫杖をもって大地に振り下ろし……割れんばかりの大音響とともに大地がひび割れし候。途切れることなく迸る水が湧き出し、たちまち大地を蛇のように這いまわり、すそ野の田畑に届き……村人は仰天し、三人の僧をあがめ……村人に施しの礼を言うと立ち去り候……これを機に村人総出で潅漑のため溝を掘り溜池を造り田畑に水を導き……と、ここまで読み取れます」

 八女田は興奮した。

「五尺七寸、百六十センチか……。で、剛毛に覆われた猿とも熊とも思われない奇っ怪な獣の正体は?」

「詳細の記述はありません。もっと後には記述があるかもしれませんが」

「見つけた場所が寺なのか」

「そうですね……般若寺付近ではないかと読み解けます」

 カメラマンは無表情で天馬を追う。

「一つヒントが見つかったが、般若寺って何処だ? そうだ、古地図、古地図はないか」

 八女田チーム総出で丹念に巻物を広げたり、破らないようにそっと古記録を調べたりしたが、そのような記載されたものは発見できなかった。

 時刻は午後六時を回っていたが、八女田は立ち上がった。

「僕らは村長宅に行ってくる。天馬さんはもっと読み解いてくれ」

 宿屋の主人が顔を出した。

「お夕食の支度が調いました」

 願成寺の顔がほころんだ。

「酒が飲めるねえ」

 しかし天馬は無中だった。

「サヤカさんもうちょっと付き合って」

 准教授も「ご主人、せっかくだがこれら僕たちは村長さんに会いに行く」と言った。

「お料理、冷めてしまいます」

「申し訳ない、直ぐに戻る」

 桑田にそう言い残すと調査隊一行は自治会館を出て行った。

「先生の後を追うぞ」

 矢羽井もカメラマンを従え自治会館を飛び出した。


「般若寺、がヒントだ。ここはどこになる?」

 村長は答えに詰まった。

「聞いたことないですよ。その場所は分からんんで。そうだ、渡里翁に聞けばなにか分かるかも」

 村長を先頭に渡里翁宅に向かった午後七時。

「お休みの所済まんが渡里翁、般若寺がどこにあったか、心当たりないだべか」

 籐の椅子に座って、茶色い染みが浮き出ている全身皺だらけの渡里は、物憂げに持っている杖に顎を乗せながら暫くし考え込んでいたが、やがて徐に口を開いた。

「般若寺は地蔵峠の間近にある廃寺、と聞いたことがある」

「地蔵峠ってあの鬼啼山の上にある川の流れに沿ってる峠だべか」

 村長の言葉に渡里翁は首を振った。

「地蔵峠付近にはかつて般若寺があったと古来からの言い伝えを思い出した。般若寺は確かガウダマ・シッタルーダを開祖と聞いていたが時代と共に忘れられ、荒れ果てたと聞いている。終いにはご神体も盗まれ、今では、その面影もないはず」

 原板大学の女子学生が言った。

「でも先生、その付近は警察関係の方々が捜索をしている場所に近いのでしょう? 捜査の邪魔にならないかしら」

 八女田は唸った。

「こっちも邪魔にならない程度に探索するしかない。そこに行けば何か痕跡があるかもしれないし、証拠を見つけないと大学に申し立てができない。明日早朝から山登りだ。覚悟してくれよ、みんな」

「准教授」

 男性助手が手を上げた。

「どうした?」

「今夜夜半から雨の予報が出てます。雨の登山は厳しいかと思います。普段でも腰を打ったり、斜面を転がり落ちたのもいます。雨では滑って滑落する危険がまします。危ないでしょう」

 諦めの悪い八女田は言う。

「明日にならんと分からんよ、君。とりあえず宿に戻って対策を練ろうじゃないか」

 渡里翁に御礼を述べると一行は宿に引き返していった。

 一方の宿では天馬と願成寺は食事を終えていたが、食事が済むと天馬は直ぐさま古記録をめくり、解読に勤しんでいった。

「願成寺さんはゆっくりしててください」

 天馬の言葉に願成寺は尋ねた。

「お手伝いしなくてもいいの?」

 天馬はにこりと微笑んだ。

「何とか一人でも出来そうなので」

 願成寺は部屋の隅に置いてある半分ほど残っている一升瓶をかかげた。

「そう、じゃあこれで一杯引っかけとくよ」

「どうぞ。あたしも一区切りついたらそちらに行くわ」

 一人寝室でちびちびやっている願成寺だったが、だんだんと虚しさが過りはじめた。

『一人で飲んでても……』

 一升瓶を抱いたまま、いつの間にか夢を見ていた。

 青空の元、大草原の中で願成寺を背にして穂乃香が無邪気に喜んで花を摘んでいる。

 穂乃香が振り向いた。

「かあちゃん、かあちゃん、かあちゃんのために花飾り作ったげる」

 それを見た願成寺が微笑む。

「いいねえ、お願いよ」

「嬉しい~」

 無邪気に喜ぶ穂乃香に得体の知れない黒い影が迫ってきたのを願成寺が気がついた。それは穂乃香を襲うようだ。

「穂乃香、危ないッ」

 そう叫ぶと願成寺は穂乃香を守るため黒い影に身を挺していった……。


「サヤカさんサヤカさん、ってば」

 揺すられていた願成寺は天馬の声に目を覚ました。

「魘されてたわよ。何があったの?」

『夢……?』

 天馬の顔を見た願成寺は涙ぐんだ。

「願成寺さんどうしたの。気分が悪いの?」

 願成寺はゆっくりと首を横に振る。

「穂乃香に会いたくて……」

 願成寺は呻くように天馬に語ったが、天馬には訳が分からない。

「穂乃香さん?」

 天馬に願成寺が言う。

「あたしの娘……」

 そして涙を見せながら、今までのいきさつを語った。それを聞き入っていた天馬は、娘を案じる願成寺を哀れに思った。

「そう、そうなの……だったら社長に相談してみては?」

 願成寺は俯いた。

「話したって無駄よ。お給料上がる訳じゃなし」

 そう言いながら願成寺は酒をあおった。

「飲み過ぎは身体に毒よ。さあ、もう寝ましょう」

 すっかり酔いがまわっている願成寺は、いわれるまま寝床に入った。

 天馬は哀れむように布団を掛け『娘を思う母親って……わたしにも分かる日が来るかなあ』


 助手の言うとおり夜半から雨が降り出し、明け方からゴウゴウ、と音を立てた激しい降り方になっていった。

 八女田准教授は腕組んで玄関先から無言で雨を見つめていた。

「先生、おはようございます」

 声をかけられた八女田は振り向くと宿屋の主人桑田が立っていた。

「この雨で捜索隊のほうも今日は中止になったそうですよ」

「そうだろうな」

 八女田は呟くと矢羽井もやってきた。

「やあ先生、おはようございます。これでは今日はどうにも動けませんねえ。天気予報では一日こんな感じのようですよ」

 矢羽井の言葉に添えるように桑田が言った。

「今日の探索は中止ですよね。宿でゆっくりなさってください」

 大雨を見つめている八女田は弱音を吐き出した。

「今回の企画は徒労に終わりそうだな」

「先生がそんな弱気でどうするんですかっ」

 矢羽井は八女田を叱咤した。

「企画を持ち込んだのは大学でしょう。KHKはそれに協力すべく動き出したのですよ。あれほど綿密な打ち合わせをしたでは無いですかっ。それを反故にするつもりですかっ。その存在やかかる経費よりも僕たち報道の情熱を失わせるようなことを言わないで欲しいですよっ」

 激しい矢羽井の剣幕に八女田は頭を下げた。

「悪かった。実在するかどうか怪しい企画に乗ってくれたKHKには敬意を払う。何はともあれ早いところ結論を出さねばならんな」



 大雨の中、久作は洞に身を潜めていた。

 ボタボタと雨の雫が落ち、生気を失った目で雨を見つめている。久作の姿は古代の猿人のように剛毛に全身を覆われ、顔つきも狼のように突き出し、すでに人間の身体ではなくなっていた。

「うう……」

 久作は頭を抱え込んだ。口を開けると大きな犬歯が二本、生えている。

 体内で増殖しているウィルスが全身を駆け巡り、脳内に侵入しはじめようとしていて、久作の人としての理性崩れかけようとしている。

 ウィルスは久作自体を都合のよいように作り替え支配しようと藻掻いている。そうさせないとばかりに久作の身体が抵抗している。

 ウィルスと人体の葛藤だ。

 久作は最早ヒトではない。

 その姿は南山村伝説のトコヨノカミに近づいていた。

 

 そう。トコヨノカミはなんとヒトだったのだ。



 新田は実験用ネズミに不明ウィルスを用心深く注入していた。

檻の中で暴れ回りのたうち回っている。しかし一匹だけは餌を綺麗に平らげ平然としている。

 新田は思った。

『何故一匹だけ平気なんだ?』

 さらに五日後、九匹は死に絶えた。しかし残りの一匹は普段と変わりない動きだった。

 さらに四日経った朝、ゲージをみると驚くべき変化があった。

『これは?』

 白かった実験ネズミの体毛が黒く太く変化し、さらに身体が倍以上に増え、実験ネズミと言うよりラットに近い体型だった。

 新田は係長を呼んだ。

 磯部もその変貌振りに驚いた様子だった。

「この変化は一体どういう事だ?」

「分かりません。このままではケージが破壊されます。原因究明のため午後に解剖します」

 

 午後、新田は磯部を呼んだ。

「脳を解剖した結果、円形の砲弾型ウィルスが増殖していました。撮影した写真で判断すると、これは突然変異を起こした狂犬病ウィルスではないでしょうか。遺伝子解析プログラムでも弾き出しました」

「日本では駆逐したあのウィルか……」

 磯部の言葉に新田はさらに付け加えた。

「分析結果から二種類の未知のタンパク質が確認できました。しかも解剖したにもかかわらず、なお増殖を繰り返しています。体内では活発に動いていますが、空気中では酸素に反応し、すぐに死滅することが分かりました。このウィルスは動物の体内や血液、あるいは唾液の中でしか生きられない構造です」

 磯部は唸った。

「どこから来たんだ? 進入経路の特定調査は困難を極めるが、この未知なるウィルスを徹底的に洗い出すしかない。さもないとこのままでは人間に大きな危害を及ぼすだろう。その他の技術研究員にも追試試験を緊急に手配する。新田君は引き続き調査せよ」


 台風のような大雨が過ぎ去った翌朝。

 その騒ぎを知らず八女田率いるサークルとKHKのクルーは計画を練っていた。

「草深いところですよ」

 村長は提言した。

 般若寺は草が生い茂り、村人は誰一人として通ることのない朽ち果てた廃寺だ。

「経路を広げるにも人手が全く足らん。村長、手の空いた村民の協力を願いたい」

 いきなり村長は八女田に言った。

「こういってはなんですが、これからは繁忙期に入るのでこれ以上の協力は無理です」

 八女田は怪訝な顔をした。

「これからと言う時に協力できないのか?」

 それに対し村長は言う。

「いるともいないともしれない獣にこれ以上関わっていられない、と言うのが村人達の本音です。村の繁栄のためにも協力は惜しまないですが、いま村では反対派と賛成派に別れております。これ以上、村での諍いは村長としても見過ごす訳にはいきません。大学のほうで何とかしてもらいたいです」

 八女田は気落ちした。

「そうか、僕らで何とかしなければならないか……だが、これ以上大学には要請できないし……」

 八女田は矢羽井を見つめた。

「スタッフを増員してもらえんか。発見すれば君の株も上がるぞ」

 矢羽井は頭を下げた。

「残念ながら稟議が通りませんでした」

「何だって、太鼓判押したのは何処の誰だ」

「済みません」

 頭を垂れる矢羽井に八女田はため息をついた。

「人手を集める術はないものかねえ」

 丁度その時宿屋の主人、桑田が自治会館に顔を出した。

 准教授の悩みに「投宿したスケロク商事さんは何でも屋さんですので、そこはどうでしょう」と提案した。

「そうか、そうだった」

 八女田の顔が明るくなると宿屋から電話を借りスケロク商事の電話を入れた。

「准教授、どう致しました?」

「南山村に増員をお願いしたい」

 八女田は高飛車な物言いだった。

「は? 今こちらも手一杯でして、難しいですね」

 杉田は交わそうとしたが、准教授は切羽詰まっていたように話し出している。

「たいした仕事ではない。が、人手がいる。それに一日でいい。手を貸して欲しい。それともなにかね、スケロク商事は看板に偽りあり、と言うかな?」

 長い時間話し込んでいた杉田だったがようやく電話を切った。

「なんだってんだよ、もう。強引だ全くもう」

「もうもうって、牛じゃあるまいし、社長。何だというのだね?」

 和道の問いかけに杉田は答えた。

「南山村の調査に協力しろって事だよ。力仕事なんで一人頭四万円と言ったが、それでも良いってよ」

「でもサ、社長。意外とボロ儲けじゃないかなあ」

 管弦の言葉に黒川も同調した。

「そうですよ、明明後日からは軽微な仕事しかありませんから」

 杉田は右の掌に顎をおくと考え込んだ。そしていきなり言いだした。

「明日の仕事は雄馬に走り回ってもらって、ケンジと伊東、的場、それに生傷が絶えないと准教授はぼやいていたから、地家先生とその助手として蔵前に行ってもらおう」

「五人も? そんなにいくんかサ」

 管弦が驚いた表情を見せた。

「瑠那にも行ってもらいたいところだが、スケロク二号車は五人乗りだ」

「御手洗は残すのかね」

「彼処に行ったって足手まといになるだけだからな。それに准教授は人手が欲しいと言ってんだし、こっちも急な用件を呑んだんだ。少しでも売り上げを毟り取らんとな。合計二十万だ。諸経費入れて二十五万。一日の売り上げとしては上出来だろ? 和道君、早速大学に見積書送ってくれ」

「えげつなー」

 杉田の計算に管弦は目を丸くした。


 早朝八時。

 祖父江達は宿屋『木耳』の前に立っていた。

 眠たそうな顔をした的場は不満そうだ。

「何でわっちらまで駆り出されるんでげしょう?」

「仕方ないじゃない。儲け話なんだから」

 白衣姿の寺家は的場を諭した。看護士の資格はない蔵前も白衣をまとって、いかにも助手のような格好だ。

「そういやぁ先生、こんところ事務所に入り浸りじゃねぇんですかい」

「このところ、暇だからねえ」

 皆が喋っていると旅館木耳の玄関先に八女田が姿を現した。

「スケロク商事さん、ご協力に感謝する」

 八女田は一同を見回した。

「はあ……医療関係の方もおいでかね」

 白衣の寺家を見た八女田は吃驚した。

「外科医の地家です。いざ、となれば簡単な手術が出来るように簡易無菌室も持参しました」

 寺家はにこりとした。

「そうですかそうですか……何しろ山野を駆けずり回ってますんで切り傷が絶えないもんでね。そうだ、崖から転げ落ちた学生を見てもらいましょうか。いま宿で伏せってますんで。男性諸君はこれから打ち合わせをします」

 自治会館に場所を変えると、八女田はサークルと報道陣を招き、お互い紹介をかわした。

 自治会館には願成寺と天馬がいた。

「おはよー。これだけ揃うのは社内旅行振りかしら」

 みんなを見ると天馬は微笑んだ。

「二人の着替え持ってきたよ。楓さん、これ郵便物。瑠那と私で楓さんの部屋、掃除してあるから」と蔵前も陽気に喋った。

 祖父江は自治会館内部を見回した。

「ドクターと蔵前はここで待機だね。男連中は山登りの支度だ」

 伊東がぼそりと言った。

「藪ン中、ダニだどがウヨウヨすてらんでな。それど毒蛇さ咬まぃだら大ごどだど」

 

 鬼無神社参道を通り抜け山道に分け入った一行の前には深い藪と竹林が行く手を遮っていた。

「山頂に行くにはここで通路を造らないとならない。スケロク商事さんたち、頼むぞ。こっちもサークル全員参加だ。皆で協力して進んでいこう」

 村役場から借り受けた鉈や斧、シャベルや鎌を各々が使って草木をなぎ払い、切り倒しながら、進む。さらにロープを伝い斜面を登り、玉のような汗をかきながら、黙々と道を作っていった。

 矢羽井の指示の元、三台のカメラが撮影する。

「エー班、先回りだ。ビー班は側面より表情捕らえろ、音声、照明は辺りを注意しろよ。シー班は映り込まれないよう注意して最後尾を追うんだぞ」

「うわぁ……」

 先回りして撮影していたクルーの一人が足を滑らせ、斜面を転げ落ちた。

「大丈夫かッ」

 祖父江はロープを投げ込み、しがみついたのを見届けると、スケロク商事全員で引っ張り上げた。

「ウワ、血だらけだ、自治会館で先生に手当てをしてもらえ」

 准教授は男子学生の一人を呼び、二人は下山していった。

「頼むぞ、気をつけてな」

 様々な困難の中、伊東を先頭に祖父江、的場が森の中を掻き分けながら慎重に進んでいた。

 ある一角では杉の巨木が立ち並ぶ中、落雷により倒された巨木が行く手を阻んでいる。あちこちから出水し、大地は泥濘んでいる。

 掻き分ける藪からは虫が飛び出し、木々の間では鳥が騒々しく啼きわめき、数頭の日本鹿が警戒するように斜面に陣取り見つめている。

「蛇サ、いるど」

 侵入してきた人間に一メートル近くのヤマカガシが威嚇するように鎌首を持ち上げた。

 伊東は威嚇する蛇の頭を素早く切り払った。血が噴出し、ヘビはのたうち回り絶命した。

「手慣れたもんだねえ」と矢羽井が感心するが伊東は無言だ。

「さすがスケロク商事さんだ、進み方が全く違う。有り難い有り難い」

 八女田一人だけ陽気だ。

「よし、一時休憩だ」

 登り初めて二時間後、ちょっとした広場にさしかかった場所で休憩が入った。思い思いに腰をかけ、宿から持参した飲み物を口にする。

「社長から危険手当をもらわないと割に合わんでがすよ」

 玉のような汗を拭きながら、的場はぼやいた。

「全くだ」

 祖父江も同調した。

 休憩中、端末から地図アプリを広げ全員に鼓舞する。

「この調子ならあと一時間ほどで目的地に着く」

「エー班准教授の手元をアップ。音声、准教授の音声を漏らすな」

 昼少し前、やっとのことで目的地にたどり着いた。そこには朽ち果てた建屋があった。そこは寺の面影もなく、ただ草木に覆われひっそりと佇んでいただけだ。

「やっとたどり着いたな。しかしまあ、とんでもない場所だ」

 あきれかえる准教授を余所に矢羽井一行がカメラを設えた。

「ここに動態認識カメラ三台設置しよう。映像班、準備用意だ。さてと、アンテナの組立は終わったかな」

 矢羽井は腕時計を見た。自治会館の前では職員が組み立て終わっている頃だ。インカムを取り出すと自治会館前の報道車両に声をかけた。

「どうだ、出来上がったかあ?」

 かなりの雑音の元、返事が返ってきた。

「……備……完了……」

「よぉし、テスト放送開始だ」

 矢羽井がテストしようとした矢先、突如、一行の後ろからガサガサと生い茂っている草木を押し分けるように背後から何かが迫ってきた。

「うわ、出たッ」 「きゃっ」

 全員総毛立ち、星蘭は慌てて頭を抱えながら、その場にしゃがみ込んだ。

 次の瞬間人の切迫した声が響いた。

「何だ君たちはっ」

 見るとそれは複数の警官の姿だった。全員白い防護服に身を包んでいる。

「どこから来たんだっ」

 八女田は相手が分かると柔和な表情で声を出した。

「我々は未確認生物調査団ですが……」

 捜索班の警察官達もホッとした表情だった。

「こんなところで人に出会うとはな、こっちも吃驚だ。風土病が発生したのでこの付近一帯は立ち入り禁止だ。直ちに下山だ」

 矢羽井は当惑した。

「風土病? さて、麓ではそんな事は聞いてませんがねえ」

 しかし有無を言わせない警官だった。

「君たちはどうやってここまで来たんだ?」

 八女田は顎をしゃくった。

「最短ルートできたんです」

 警官は目を丸くした。



「我々が先導する。……スズキ巡査長、本部に民間人複数発見、と無線を飛ばせ」

「了解」

 命令された警察官は警察無線を使い話し始めた。

「なんてこった……」

 八女田は顔を覆った。

 警察官の命令には従わざるを得ず、矢羽井もテストが出来ないことを残念に思った。

 一同は県警に連れて行かれると、事情聴取が始まり、祖父江達がスケロク商事事務所に戻ったのは深夜一時を回っていた。

 さらに次の日の昼近く天馬たちも事務所に帰ってきた。

「風土病が発生したとかで強制的に帰させられたわ。まあ、解放されてよかったけどねえ」

 解放された喜びを語った二人だが草臥れた面持ちだ。

「ご苦労だったな。早速仕事だ。天馬は事務所、サヤカは港北区新吉田町に飛んでくれ」

「これからあ?」


 一方、八女田准教授率いるサークルと矢羽井のクルー一行は南山村に留まり報道車両内部では送られてきている映像を確認作業を始めていた。

 位置あわせのテストが出来なかったことであらぬ方向を向いている映像もあったが、映像は乱れることなく写っている。

「テストできなかったからなあ……しょうがねえか」

 矢羽井は愚痴った。

「落ち着いたら再チャレンジですね」

 カメラマンが言うと矢羽井は憤慨したように顔を向けた。

「何を悠長なことを言ってるんだよ。時間が無いんだぜ。年末特別企画が台無しだ。とりあえず映像確認を急ぐぞ」

「分かりました」

 動作を検知し自動で電源が入るカメラには、イノシシの親子や鹿の一団、ハクビシン、野ネズミ、それを追うかのようなアオダイショウなど野生生物の姿が見え隠れしている。

『やっぱり、ろくなもんが写ってないな』

「ありゃ」

 確認作業中の一人が素っ頓狂な声を上げた。

「どうした?」

 矢羽井は声の方向に振り向いた。

「突然映像が切れたんですけど……バッテリー切れとかいう不具合じゃなさそうですよ。何か……ぶつかったような映像のような気がしますが」

 矢羽井も映像を覗き込んだ。確かに映像の途切れ方が不自然だ。

「ひっくり返ることはあってもイノシシがぶつかってきても壊れない造りだ。確認しなけりゃならんが、当分山には入れんしな」

 カメラマンの一人が言う。

「仕方ないんじゃないですかあ」

 その言葉に矢羽井は叱った。

「ナニを呑気な。いくらかかっているか分かって言ってんのか。それでなくてもカメラ一台パーにしてんだから」

 ぶつぶつ言いながら矢羽井は機材を操作し、前後の映像を確認していたが、突然目を見開いた。

 粒子の荒れた映像には闇からぬっと現れ、黒い剛毛に覆われ才槌頭の頭頂部と突き出た横顔の生物の上半身が、横切る映像が映っていたのだ。

 四秒後それは深い森の中に消えていった。

『これは……』

 そして急に地面が映り途切れた。矢羽井は何度も映像を前後させ確認した。

『カメラに気がついたコイツがたたき壊したのか? そんな馬鹿な……巨大な猿のような姿だが……まさか、これがトコヨノカミ?』

 矢羽井は直ぐさま報道車両から飛び出し准教授を呼び出した。

 呼び出され八女田准教授も興奮気味に映像を確認したが、なんとも判断がつかなかった。矢羽井は映像を一時停止させた。

「この横顔、拡大してみましょう」

 八女田ととともに拡大された映像をクルー共々覗き込んだ。

「うーん……人間では無い事は確かだな。夜行性か? 顔面が突き出ている所からすると大型犬のように見えるが、直立歩行をしているので、犬の訳はない。粒子も荒れているしこの画像だけでは、これがトコヨノカミと断定は出来ないが、よく映せたな。たいしたものだ感謝するよ」

 八女田に肩を叩かれた矢羽井は、自信ありげに言った。

「不明な生物体には違いないでしょう。本社映像解析課に依頼をかけてもっと鮮明になるよう依頼します」

「たった四秒でも大丈夫なのか」

「正確には三・五八秒です。まあ、専門家に任せてもらいましょうかね。出来上がったらお呼びますんで確認してください。でもこれが例の生物ならば、世紀の大発見ですよ、准教授。年末特別放送はこれで決まりでしょう」

 矢羽井は映像に確信をもった。しかしあくまでも八女田は慎重だ。

「もっと証拠が必要だ。それにこれがそうとしても、個体数、生息域、食生活などまだまだ謎だらけだ」

 車外から桑田の声が聞こえ、二人は顔を出した。そこには宿屋の主人のほかに駐在員の姿があった。

「申し訳ないんだけンど、村から退去して欲しいンだ」

 人の良さそうな駐在員が言う。

「この村から出て行け、と?」

 もう少しで正体が判明するかもしれないという時に八女田は顔を曇らせた。

「出て行け、なんて……そんな強い調子じゃないんだべ。聞いとると思うが、この村には古来からある風土病が発生したんで、余所モンは……いやいや……村民以外出てってもらいたいンだべ。もちろん事件が片付けばまた来て欲しいンだけんど」

「その時はまた歓迎しますんで、どうかひとつ」

 桑田も頭を下げた。

「どうします、准教授」

 矢羽井は八女田を見た。

「どうもこうもない。警察署でも釘を刺されたしな……山に入れない以上、退去するしかない……残念だが」

 八女田は悔しそうに唇をかんだ。

「まあ、また折を見て来ましょうよ」

 矢羽井は陽気に言うと八女田准教授は反論した。

「そう言うがね、君たちはスクープをものにすれば名誉だろうが、我々には大学の威信がかかっているのだ」

 言い合う二人に駐在員は仲裁に入った。

「マアマア、二人とも。話し合いはこの村から出て行った時にでもしてくれんかねえ」



 数週間後。

 サガミハラ保健所では数名の医師と看護師、獣医師学会、それに伴い南山署警察署と消防を交えたかなり大がかりな感染症協議会が開催された。

 会議を任された磯部係長と新田主任研究員は、緊張した面持ちで大型医療専用高解像度有機パネルに次々と画像を映し出しながら逐一解説をしていった。

「この被験者から提供された唾液、血液から特徴的な形状のリッサウイルス様が発見されました。このウィルスを培養しウィルス解析専門人工知能で分析させましたところ、狂犬病ウィルスに似たウィルスを発見しました」

「質問」

 一人の医師が手を上げた。

「日本では狂犬病は根絶しているはずだ」

 新田は肯定するように頷いた。

「確かにその通りです。しかし発見したウィルスは狂犬病にいていますが、ゲノムRNAには狂犬病ウィルスでは見られないタンパク質が二種発見されました」

 新田は画面にレーザーを当てた。

「この部分です」

「どういう事を意味しているかね」

 質問が飛ぶと、新田は一つ咳払いをして話し始めた。

「体内を徘徊しているさいには二種のタンパク質は不活状態ですが、脳細胞に到達すると二種のタンパク質が動き始め、宿主を支配し行動を制御するような仕組みが判明しました。いまままでに無い二種のタンパク質がどのようにして産み出されたのか不明です。狂犬病とは全く違う動きです。新種の可能性もあります。我々は仮称、『突然変異体_X』として今後の動作を注意深く検証していきます」

 係長は周囲を見回した。

「あのインフルエンザもコロナウィルスも次々と突然変異を繰り返しながらしぶとく生き延びています。このウィルスもその範疇に入らないとも限りません」

 参加している獣医師学会から質問が飛んだ。

「よくわからんのだが……宿主を支配し制御するとはどういう言う意味合いだ?」

 磯部が捕捉した。

「自然界に広く存在するトキソプラズマという寄生虫をご存じでしょうか。この寄生虫は、ネズミの脳内に侵入するとネコなどに捕食されやすくするために、恐怖心や反応時間を遅らせる奇妙な行動をとらせます。捕食されることにより宿主の体内に残り、次の宿主を見つけるために潜みます。ありふれた寄生虫ですが、それと同じような振る舞いをこの突然変異体_Xは行うのではないかと」

 新田は別々の檻に入れられた実験ネズミ十匹を映し出した。

「この当該ウィルスを実験用ネズミに注入してみました。九匹は三日後に死にましたが、この一匹だけは多少の凶暴性が発出しましたが、それ以外異常行動もなく生存していました。さらに驚くべき現象が次です」

 画面が変わりケージの中のネズミ一匹が変容していた。

「なんだこれは」

 参加者全員が驚きの声を発した。ネズミの全体が真っ黒く変容していた。

「異常な速さで変貌を遂げています。外観上体躯はさらに大きくなり、体毛も太く犬歯が異常に大きく尖ってきています。しかし未だに我々の想像を遙かに超える変容振りです。檻が破壊されることも時間の問題でしたので、駆除、さらに解剖を行いました」

「今までの常識を覆す現象だ」

 獣医師や看護師から驚きの声が上がった。

「この実験ネズミの体内ではウィルスが盛んに増殖し姿を変えようとしているのが分かりました。次の宿主が見つかればその犬歯でウィルスを注入し、さらに増幅させるはず。この現象からして、突然変異体_Xは宿主を殺すことなく生きながえるように改変し、お互いの利益のためにウィルス自体が獲得したものと思われます」

「凄い発見だ」

「現状、この様な現象は世界的に見ても非常に希なことです。しかしさらに精度を上げなければ本当のことは分かりません。真実追究のためさらに研究精度を上げていきます」

「馬鹿な。たかがウィルスにそんな知恵があるとは思えん。ナンセンスだ……」

 獣医師会の一人が呟く。

 新田は言葉を繋いだ。

「自ら細胞を持たないウィルスでも、仲間を増やす方法を考えついたのかもしれません。それ故、突然変異体_Xと呼んでいます」

 保健所副所長が出席者全員を見回すと南山署の署長が手を上げた。

「それが本当なら、我々が探している篠原久作氏も想像がつかない怪物に変容しているのだろうか」

 新田は注意深く答えた。

「その可能性は充分にあります」

 さらに署長は次の疑問を呈した。

「いままでの説明だと、久作氏の他に感染された人間がいるかもしれないと言う事も?」

 新田は首を横に振った。

「二の腕とふくらはぎにヒトの歯形とは違う、鋭い牙のような咬まれた痕がありました。ヒトとは断言できません」

「じゃあ一体何なんだ?」

 警察関係者は唖然とした。

「分かりません。突然変異体_Xに犯されたイノシシの可能性もあり得ます」

「イノシシだと? 人間や犬には発症して、イノシシには発症しないのか。考えられん」

 新田は冷静に言う。

「すべからず動物にはなにがしらかのウィルスが存在します。しかしながらウィルスは全てに発症するとは限りません。突然変異体_Xに犯されていたとしても、人間と犬以外発症しないことも考えられます」

 さらに続けた。

「そうなのか? では久作氏は何処に行こうとしているのか、何か分かることはあるのか」

 新田は言葉を繋ぐ。

「いままでの検証からすると、突然変異体_Xも久作氏の体内だけで増殖以上のことは出来ません。今は山に隠れて変異を繰り返していると思われますが、最終形態になれば、人里に降りて人間に噛みつく事も想像できます。それこそ第二第三の篠原久作氏が現れることになるかもしれません」

「空気感染、飛沫感染の可能性は?」

 消防の一人が質問をした。

「実験結果からこの突然変異体_Xは大気に触れた瞬間に直ぐに死滅します」

 南山署署長は腕を組んで天井を睨んだ。

「宿主に取り憑いて身を守るというのか……にわかに信じることは出来ないが、南山署は篠原久作氏の保護に全力で当たっているが、方針を変える必要がでてきた」

 磯部は締めくくるように言った。

「当分の間、報道機関には今までの発表通り、南山村特有の風土病、とします。よいですか皆さん」

「やむを得んだろう。しかし早く解決させないと、何時までも誤魔化しはできないぞ」




 深夜十一時。

 一人淋しく寝床で丸まっているホタ子が、ふと目を覚ました。まるでこじ開けようとするかのように玄関の扉がガタガタと音を立てたからだ。

 咄嗟にホタ子は起き上がった。

「久作、アンタかえ?」

 同時に、得もしれない臭いが玄関先から微かに漂ってきた。暗がりの中ホタ子は玄関まで歩を進める。

「久作やァ、いるのかえ?」

 ホタ子の問いかけたが答えは返ってこなかった。

 思い切って玄関を開け、闇夜に目を凝らしたが、何もいない……。

「アンタ、わし一人残して何処へ行ったんだよお……淋しいじゃないかよお……」

 ホタ子の声が闇に吸い込まれる。

 だが、垣根の向こう側に暗闇よりさらに漆黒の影が、煙のようにかき消えていったことにホタ子は気がつかなかった……。

 闇に向かって嘆くホタ子は、暫くして肩を落とし、静かに扉を閉めると床についていった。




 横浜市中区伊勢佐木町通りの喫茶店『そぞろあるき』にて

 相変わらず分煙室はモウモウと煙が立ち込めているその中で、願成寺は深刻そうな顔でタバコをふかしながら和毅の話を聞いている。

「お前に会うためにいちいちそっちの会社に連絡を取るのが面倒になってきた」

 吹かしていたタバコを灰皿に押しつけた和毅が切り出した。

「タバコ止めて養育費に回すことも出来ねえのかよ」

「そうなんだけどさ……」

 そう言いながら願成寺もタバコを揉み消した。

「どうしても養育費が払えないてぇんなら、こっちにも考えがある」

 願成寺は顔を上げ和毅を見つめた。

「どういう事よ」

「十日の間に金が入らなきゃ、おっかぁ共々引っ越す。引っ越し先をお前に教えるつもりはない」

「ええっ!?」

 願成寺は予期しない和毅の言動に驚いた。

 和毅は続けた。

「穂乃香にはかあちゃんは死んだ、と言っとく。小学生にあがる年頃だ。泣きわめくかもしんないけどな、どれもこれも、お前がタネをまいたんだぞ。それに、いいな、よく聞け。俺は穂乃香のためにも再婚する」

 さらに驚いた目をした願成寺は震える様に声を出した。

「……ちょっとそんな言い方って……和毅、待ってよっ」

 和毅はドン、と机を叩いた。拍子に吸い殻で山盛りの灰皿が踊った。辺り一面に灰が飛ぶ。

「そんなもあんなも無ぇッ。兎に角決めたんだ。これ以上おっかぁには迷惑を掛けられない。いいか、十日間だけ待ってやる」

 和毅から最後通牒を渡された願成寺には、最悪の事態だった。

『ああ……穂乃香……会えないなんて……そんな……』

「ここの勘定、払っとくぜ」

 伝票をひったくると和毅は席を立った。

 一人残された願成寺は、心を落ち着かせようと無意識に灰をかき集めていった。

 しかしどうになら無い状態だ。髪を掻き上げると両目を真っ赤に腫らし、嘆きながらふらふらと会社に戻った。

 

 椅子にふんぞり返るように座っていた杉田は、事務所に戻った願成寺を見て、こっちに来るように手招きした。充血した目の願成寺は、所在なげに杉田と相対するように巨体を椅子に下ろした。

 ゆっくりと杉田は言う。

「天馬から聞いたよ、養育費がいるんだってな」

 暗い顔で願成寺は手を組み俯いた。

「でもどうしようもないよ……今のお給料では生きていくのが精一杯。ここを出ていっても稼ぐあてないし……」

 腕を組み聞いていた杉田は瑠那に命令をする。

「瑠那、金庫から十八万出してくれ」

「うん、分かった」

 その十八万円がサヤカの目の間に並べられていった。願成寺は目を丸くしたまま一万円札を見つめた。

「十八万、確認したか? いいか、これは会社がサヤカに貸し付ける金だ。いずれは返してもらう。和道君、借用書を造ってくれ」

「了解」

 和道は直ぐさま正副の借用書を造り杉田に渡した。

 和道から受け取った書類を眺め願成寺に渡す。

「よし。お互い借用書を交わす。これでサヤカに貸し付けると共に、お前には支払いの義務が発生する。借用書をよく読んでそこに署名しろ」

 願成寺は黙読した。

 そこには穂乃香の養育費用として、高校卒業まで半年毎に金十八万を貸し付ける、と書かれ、同時に支払いの条件として金利と支払期限が設けられている。

「ええっ!」

 願成寺は素っ頓狂な声を上げた。

「社長、これって……?」

「どうもこうもない、読み上げてみな」

 杉田に促され願成寺は読み上げた。

「支払い条件として……金利は取らないとする……支払いは給料から天引きをしないとする……支払期限は……未来永劫……無期限……とする……」

 最後には涙声になった。

「……ああ……社長……」

 杉田はにやつくように片頬を上げた。

「理解したか? さ、そこに署名だ」




第四話 突然変異体_Xの咆哮 完


 結局正体がよく分からないままの消化不良のストーリーとなりましたが、謎は謎のまま、そっとしておくのも方法か、と思いまして。

念のため申し伝えますが南山村は架空です。信じませんように。

 それはさておき、あらゆる生命体に染み込むウィルス。人間の体内にも各種ウィルスは潜んでいます。普段は大人しくしていてもいざとなれば発症を引き起こす『帯状疱疹』もウィルスの仕業です。

 ご存じの通り、コロナもインフルエンザもウィルスです。

 細胞を持っていないにもかかわらず、ウィルスでも遺伝子情報は持っています。今回題材にもちいた狂犬病ウィルス(ラブドウイルス科リッサウイルス属)もそうです。

 日本では絶滅しているウィルスですが、英国、オーストラリアなど極限られた地域のみ発症しないのであり、未だに世界各地で猛威を振るっております。中世ヨーロッパでは狼男として畏怖された時期があります。

 コロナウィルスは突然変異を繰り返しながら生き延びていますが、狂犬病ウィルスは古来からの姿を保ったまま今日に至っております。

 そんな壮大無限な馬鹿話を公開しましたが、如何なものでしょうか。

 次回は国家転覆を謀る謎の集団です。引き続き大法螺話を続ける予定です。


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