52.1944年3月1日~パールハーバー
戦艦大和の前甲板上で、日本、アメリカの代表団による講和条約の調印式が行われていた。真珠湾には、大和、武蔵、空母翔鶴が、軽巡4隻を従えて、投錨していた。アメリカ側も空母サラトガ、エンタープライズ、戦艦ネバダ、ペンシルベニア、テネシーが停泊している。マスコミや岸壁に集まった群衆向けに、まだまだアメリカ艦隊は健在であることを見せるためであったが、逆に大和の巨大さを際立出せる結果になった。
「あのバケモンが、俺たちの戦艦を沈めやがったのか。忌々しいが、納得だな。」
岸壁の群衆が騒いでいるころ、ネバダの艦橋からはニミッツ大将が、大和を睨みつけていた。どうしても18インチ砲を持つ戦艦が6隻は必要だ。膨大な予算が必要だが、フィリピンは完全独立まで、アメリカの保護国となることが決まったし、グアムもアメリカに戻る。太平洋で一定の海軍力を維持する必要がある。マンハッタン計画が大幅に縮小したのなら予算は確保できるのではないか。それにしても、砲塔ごとに別の目標を狙い、ことごとく命中させるとは、どういうことだ。物理的には可能でも、現実的にはありえない。対空砲火の命中率もそうだ。近接信管など問題外の秘密があるに違いない。教えを乞うのは忌々しいが、技術交流的なことができないだろうか。
このころ日本では、漸くシリコンビレットの試作に成功していた。とはいっても、まだまだ不純物による不良品が多く、良品率は30%ほどだったが、これを使った半導体で、従来の十分の一の大きさのラジオ受信機や、卓上計算器を試作していた。卓上計算機は、30センチ四方ほどの大きさで、16桁まで表示するなかなかのものだったが、この程度なら暗算でできるという算盤の猛者たちには評価されなかった。ただ、海軍関係者は、この仕組みを射撃盤に転用できないか考えていた。
また、太陽電池パネルの試作品も評価を受けた。変換効率は9%ほどと設計値には遠く及ばなかったが、とにかく直流電流を発生する。これは、離島やへき地の通信電源としては使えそうだということで、もう少し効率をあげられたら量産しようと言うことになっていた。当面、鉛蓄電池との組み合わせで使うことになるであろう。蓄電池については、各種のヒントを書類の形でいただいている。液体電解液を用いない全個体電池について、正極、負極、電解物質についての組み合わせの資料がある。これがあれば、あと数十年で実現可能だろう。
満州皇帝溥儀は退位し、日本の皇室に迎えられた。沿海州を含む満州国は、満州自治区として、中国に併合された。中国では、依然として共産党の活動が収まっていない。山村が一夜にして共産党の支配下に入っているというような事件が多発していた。蒋介石は何度も土地改革を通そうとしたが、閣僚も議員たちも頑として拒否していた。満州自治区では、日本式の土地改革が終わっており、共産党のつけいる余地が小さかった。南部の重工業地帯は、中国各地へ機械類やトラックを出荷して盛況である。そのため、中国全土から人材を引き付けていた。
朝鮮と台湾は、新たに普通選挙で選ばれた国会で、日本残留の是非を問うた。ともに残留派が過半数を超えたが、三分の二には届かなかった。日本は、国民の総意とは言い難いという理由で、残留を拒否した。ただ、両国からの強い要望で、軍事同盟と関税同盟を結ぶことになった。朝鮮は、北部で鉱山開発が活発化しており、続々、新鉱脈が発見されていたが、接続道路の建設から取り組まねばならず、戦力化には時間がかかりそうだった。台湾は、製糖業が変わらず好調であり、農産物の輸出で外貨を稼いでいた。
東アジア一帯は、この一年で、円経済圏らしきものを形成し、輸出入が増加していた。輸出入を支えるのは、史実なら1943年中に426隻167万トン撃沈されたはずの日本の商船隊であり、さらに50万トン以上貨客船等に転用された元軍艦たちであった。




