37.1943年10月25日~オホーツク海
2年ぶりに再開された日本の母船方式の捕鯨船団が、オホーツク海に展開していた。捕獲してよい鯨の種類や数は、水産庁から指定されている。万が一に備えて、駆逐艦が一隻、同伴している。魚群探知機が威力を発揮しているが、2年ぶりの割にはそれほど多くない。ロシア人が捕獲しているのかもしれない。最近は、造船所も大型の漁船を作る余裕も出てきたようだ。母船を中心とした船団での捕鯨漁も増えてきている。日本の漁業は沿岸中心であったが、政府は最近、養殖への取り組みと、大型漁船による沖合、遠洋漁業への取り組みを進めることで漁獲量の増加を図っている。
捕鯨は、19世紀に、灯油としての鯨油と鯨ヒゲを目的に英米で盛んになり、両国で年間1万頭もの捕鯨を行なっていた。そのため、カリフォルニア沖のコククジラ、マッコウクジラ、セミクジラは激減し、アメリカ捕鯨船団は、日本近海まで進出してきた。ペリーの来航の目的は、日本に捕鯨船団への補給を認めさせることだった。しかし、資源量の減少と、石油から灯油を精製する方が安価であることから、一時期衰退する。
20世紀に入って、鯨油から石鹸やマーガリンを製造する方法が確立され、また、ノルウェーで発明された、ロープ付き捕鯨砲を使ったナガスクジラの捕獲法が普及して、ノルウェー、イギリスの捕鯨船団が南極海にまで進出する。1930年には、1年間で地球最大の生物であるシロナガスクジラだけで3万頭が捕獲され、シロナガスクジラが激減することになる。ドイツや日本も30年代に捕鯨船団による捕鯨に参加するが、その頃にはナガスクジラが捕獲の中心となる。それらは、開戦で中断する。
日本近海は、鯨が豊富に存在し、古代から漁がおこなわれてきた。江戸時代にはさらに組織化され、年間100~200頭を捕獲していた。鯨油、ヒゲはもちろん、骨、肉に至るまで加工利用する。一説では、1頭で4000両の利益があったとされる。各地に鯨神社を作り、1頭ごとに戒名をつけて祭ってきた。弥生時代から鯨の恵みに感謝し、共生してきたのだ。乱獲がなければ共生できるはずなのだ。
家畜用飼料10キロで、牛肉は1キロ、豚肉は3キロ、鶏肉は5キロ生産できるという。しかし、一方で、牧草や燕麦で、牛馬は飼育できるが、豚や鶏はできない。牧草や燕麦しか生育しない土地もある。要は土質や気候に合った効率的な土地利用をしなければならない。日本人は、海洋資源を含めた自然と共生してきた。日本人は、うまく自然と共生し食卓を豊かにしてきたと、【彼】は言う。だから資源の状況には常に気を配らねばならない。戦前、北海道ではニシン漁が盛んで各地にニシン御殿がたつほどだった。しかし、1943年の現況では、明らかに全盛期の漁獲量に比較して半減している。政府は、ニシン漁については制限を始めていた。初めての試みで、どうすれば未来の安定的漁獲を確保できるのか手探りではあったが、やるという意思は固いようだった。