29.1943年8月31日~東プロイセン・ケーニヒスベルグ
ケーニヒスベルグ郊外の飛行場に、日本の連絡機が2機、駐機していた。日本からの技術交流団である。満州を出発し、シベリアを横切り、レニングラードをかすめてやってきた。何度か高射砲を打ち掛けられ、迎撃戦闘機が上がってくるのが見えたこともあったが、難なく逃げ切った。日本は、電探分野、ソナー分野、暗号分野、合金製造分野、ジェットエンジンなどの技術を求めていた。対して、ドイツ側には、これまでの成果としての抗菌剤、抗生物質の知識とサンプル、半導体および太陽電池の製法技術書、高性能電池のサンプルが提供された。
全部【彼】からの受け売りだな。団長の航空技術廠医学部長石黒少将は、苦笑した。日本の技術水準は、ドイツに比べればまだまだだ。しかし、ドイツ側は興奮し、感謝していた。特に、ジェットエンジンのサンプルを取りに、ミュンヘンに、3式連絡機で往復した航空技官は、この機体をなんとか譲ってもらえないかと、ドイツ政府高官にまで訴えた。しかし、【彼】との約束で、できない相談であることをドイツ政府は理解しており、たしなめられた。しつこく、乗務員に質問し、しどろもどろな回答に立腹した様子だったが、仕様書を見せられて、やっと現在の技術では実現不可能なものであることを理解したようだった。
暗号については、エニグマさえ解読されていることをドイツ側も知っており、現在は、エニグマの変換盤を定期的に入れ替えることで対処していた。結局、大量の情報を処理し、規則性をみつけることのできる計算機を作ること。それを利用すれば、敵の暗号を解読するのは容易だろうし、より解読の難しい暗号をつくることができるのではないか。となった。
ソ連との講和交渉は難航しているようだった。8月初めにようやく捕虜交換が実施されたが、スターリングラードでのドイツ側捕虜10万と、クルスクでのロシア側捕虜の半分の30万の交換になった。ドイツ側は、どうしても捕虜を取り戻すため譲歩した。しかし生きて帰ってきたのは5万余りで、残りは骨になっていた。もっとも、ロシア側捕虜も、生きのいい、軍の経験のあるものは残し、若年兵と老兵を返したので、どちらが得ということもなかった。残った30万のロシア捕虜は、ウクライナ西部やポーランドで道路と鉄道の整備に使われている。
ドイツでは、ソ連が戦力を回復する前にもう一撃が必要との声が強くなっているようだ。その際に、日本が極東ロシアを攻撃してもらえないか。との声があるようで、技術交流団が帰るときに、外交官を同乗させてもらいたいとの要請があった。また、どうやら【彼】から意外な連絡があったようで、それについても協議するらしい。




