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間の山奇譚  作者: 葦原観月
1/1

間の山の庄助

大好きな伊勢の昔物語です。お伊勢参りが盛んだった頃、間の山に活躍した芸人たちの、華やかで不思議で楽しいお話にしました。

穢人と、民人から厭われる彼らは、実際はとても尊い存在であり、独特の世界を保ち続け、暮らす様を描いています。様々に事件が起きます。個性的な芸人たちが、勝手に動き回ってくれました。気楽に読んでいただけるコメディーです。お付き合いください。

     (一)

 白み始めた曇天を眺め、庄助は、(雨かぁ)と口を尖らせた。


 三月とは言え早朝はまだ冷える。川辺にいればなおさらだ。

 庄助の眼前をゆったりと流れるは五十鈴川。伊勢参宮に向かう者が必ず渡るこの川は、(いにしえ)から禊ぎの川として有名だ。


 ぱしゃり、と跳ねた水音に目を向ければ、小さな童が威勢良く川に駆け込んでいく。

(太兵か。朝一の功名を挙げようってわけやな)

 口の端を上げた庄助は、かたり、かたりと音を立てる橋を見上げた。

「やてかんせ。ほうらんせ」静かな朝の禊ぎ場に、甲高い童の声が響き渡る。

(けど、ちと早すぎる。参宮者はまだ夢の中やで)


 一生に一度はお伊勢参り。誰もが焦がれる伊勢参宮に華を添える名物は数あれど、参宮者の目を楽しませる技を持つは芸人ばかり。庄助は間の山の芸人である。

 参宮者の投げる銭を漏らさず受ける宇治橋の網受けは童芸の一つ。長い棒の先に張った網を巧みに使い、技と愛嬌を以て銭を拾う。網受け歴五年の庄助は既に古参の手練れだ。童芸網受けは十五となればお役御免。間の山の芸人は年齢ごとに芸を替える。


「やてかんせ、ほうらんせ」

 長い棒の先に張った網が、ふらふらと揺れる。太兵はまだ網受けに加えられて日が浅い。


(倒すなよ。網が濡れたら重うなる)


 受けた銭を漏らさぬよう網の目は細かい。また、投げつける輩に備え、補強する網は重い。棒の先に括り、自在に振るには鍛錬が必要だ。

 こぞって網受けの訓練を受ける間の山の男童の内、網受けの親方、権造の目に留まった者だけで編成される網受け衆は間の山男童の花形だ。 


 案の定、体の小さい太兵は網の重さに負けた。「あっ」と声を上げて尻をつく。盛大に水しぶきを上げた網は、太兵の細い腕先で釣り竿のように撓っている。

(七つの太兵にはまだ無理なんとちゃう?)


 日々、様々な鍛錬を繰り返す芸人の子は一年ごとに逞しく成長する。小柄な太兵もあと二年もすれば網の重さに堪えられる体つきとなるはずだ。濡れた網の重みに堪えられぬでは梅雨には商売上がったりだ。参宮者は雨が降ろうが、雪が降ろうが訪れる。


 ぶるっ、と大きく身震いした太兵の手から棒が滑り落ちた。川の流れに載る網棒を追う太兵の動きはぎこちない。寒さに身がかじかんでいるか。橋の上に人影が見えた。

(しゃあないな)一つ息を吐いた庄助は、手にした網棒を釣り竿の如く片手でひゅん、と投げ打った。水を含んだ二本の網棒に僅かに顔を顰め思い切り棒を振り上げる。太兵の網棒が天高く舞った。


眼前に突き立った網棒に太兵は目を剥き、すぐさま「おおきにっ」と声を張り上げた。橋の上を行く影が立ち止まり、橋下を覗き込んだ。

「何や、間の山の庄助やないか」つまらなそうに背を向けた男は金屋大夫の殿原だ。客を連れていない様は、伊勢講集めの帰りか。大きな荷を背負っている。


「ほれ、ちゃんと人を見て仕事せいや。御師に芸売ったところで、なんぼにもならんで。だいたい、伊勢講の客はまだ夢ん中や。早朝に橋を渡るもんは神職か、屋敷に帰る御師くらいのもんや。網受けは伊勢講の客に合わせて始めるんが倣いや。御師らは客を煽ってくれる。んで、それをみたもんらがまた、銭を投げる寸法や」


 五十鈴川を渡す宇治橋では、参宮者は銭を撒いて禊ぎをする。罪障を祓い浄める作法、散米に倣ったものだ。

 穢れを載せた銭を撒き、拾う者に厄災、穢れを持ち去ってもらう目的で行われる撒銭だが、伊勢では間の山芸人がその役割を引き受ける。古から伊勢にある芸人一族は、伊勢の穢れ一切を引き受け、伊勢の清浄を支えてきた。


「ええか、ただ網広げて突っ立っとっては銭は拾えん。参宮者かてどうせ銭投げるなら、面白いほうに投げる。実入りが欲しければ自分の芸を磨くこっちゃ」


 拝田、牛谷に別れ住む間の山の芸人だが、両者は出自が違うとして互いに一線を引いている。庄助と太兵は拝田村の住人だ。

 物心つく頃から様々な芸を身につける間の山芸人は、自らの口は自らで凌ぐが倣いだ。

 稼ぎが悪いは芸のない証拠。芸人村は無能者に情けは掛けん。村を追い出された者に行く当てはなく、ただの物乞いと落ちぶれるより道はない。伊勢の町に乞食は多い。


「わかっとるんやけど。皆が出張ればわいの出番はのうなる。昨日もおとついも権造さんにどやされたんや。なにしぃ網受けに出とるんやと。そやから皆が出る前に少しでも稼がんと……」

 お伊勢さんが参宮者に便宜を図る間の山の稼ぎは天候に左右される。人気を集めるお杉お玉の興行と網受けだけが天候に左右されずに銭が入る。二つの興行が童らの憧れである由縁だ。


 ぽつりと大粒の雨が頬を打って、太兵が頭を振って項垂れた。


「へぇ。ほんまです。皆様には特別な祓いを用意しましたんや」

「こんな早朝にですか? 皆様まだお休みであられますよ。おまけに空模様も妖しくなって来た。あたしらは旦那様の代参なんです。不備があっては旦那様に申し訳が立ちません」

「お任せ下さい。伊勢の若松の特別な祓いでっせ、罪穢れ一切を祓うてくれます」

 橋を渡ってくる賑やかな足音に、庄助は(やれ来たか)と網を振り上げた。


「ふれやふれやちはやふる、神のおにわのあさ浄め、それ、旦那さん、やてかんせほうらんせ」


 声を張った庄助の合図に、太兵が岸辺の大籠の脇に控えた。阿吽の呼吸は芸人の倣いだ。


「伊勢の名物網受けでございます」顔を覗かせた岳太郎は釜屋大夫の殿原。本日の興行、お呼ばれの依頼者だ。

「あれが?」いささか怪訝そうなのっぺり顔の後ろから、

「さぁ、撒きましょ」童二人がさっそくに銭を放る。

「あ、これ」「良いじゃありませんか番頭さん、旦那様の言いつけですそれぇ」


 勢いよく撒かれた銭はてんでの方向に飛んでいく。

 まずは挨拶と、軽く振った棒が色鮮やかな網の花を咲かせ、弧を描いた花がぱくり、と銭を食った。「わぁ」と橋の上の童二人が身を乗り出し、「危ない、危ない」のっぺり顔が童の襟を掴んで引き戻す。


「これは楽しそうだ」にこりと笑ったのっぺり顔の言葉を合図に、銭の雨が降り出した。

「ほれ、与吉、もっと放らんか」

「あれ。もうなくっちまったよ。末松、銭はどうした」

 やんややんやの大騒ぎとなった宇治橋にちらほらと人が出始める。そろそろかと橋を見上げた庄助に「さて。皆さんもうよろしかろう」岳太郎の声が届いた。


 ぶん、と振った棒が大きく撓り、一行が目を見張る。空を飛んでいく色鮮やかな花に「あっ」と童が叫んだ。抱えた大籠で太兵が網を受け、にこりと笑って手を挙げる。両の手から飛び立つ鳥に、橋の上から拍手喝采が傾れ落ちた。


    (二)


 お呼ばれ一行の背を見送って、庄助はやれやれと岸に上がった。

「庄助さん、わいこんな銭初めてみました」目を輝かせた太兵に、「銭かいな」庄助は苦笑した。


 賑やかさが売りの間の山には、異種異様な者がごった返す。

 薄汚い童乞食、奇抜な衣装の曲芸師、着飾った美しい若衆、厚化粧の年増女――。

見慣れぬ異世界に高揚し、旅人は銭を落としていく。

 演舞に寸劇、格闘試合に軽業に枕返しと、多忙な若衆のため、網受け衆は交代で五十鈴川に出張る。御師の情報により参宮者の出足に揃える網受けは本来、昼中の興行である。

 早朝のお呼ばれは贔屓を持つ若衆の誉れだが、贔屓を選べん若衆には苦労もある。


素間(すま)さんなの?」大籠に入った銭の手触りを楽しむ太兵に庄助は顔を顰めた。庄助の贔屓、素間は疫病神である。


 本来、御師の依頼を受け芸人を手配するのは村長の役割りだが、庄助に限っては野間万金丹の御曹司、素間が全てを取り仕切る。

大店の子息で役者顔負けの色男、すらりとした長身が見栄えの良い上に頭もいい素間は、まさに絵に描いたような御曹司。

一度たりとも店に立った例はなく数ある縁談には目もくれず。お杉お玉の横で居眠りをこく素間は、伊勢にこの人ありと謳われる放蕩息子の代表だ。


「伊勢の花形、お伊勢さんのご機嫌を損ねるわけにはいかん。急な話やよって弥一郎さんも素間に頼らざるを得んかったんやろ」

 伊勢広しといえど、穢所に出入りする物好きもまた素間ひとり。村に帰った芸人と渡りを付けるには素間を頼るよりはない。

「けど……」まだ物言いたげな太兵に庄助は大きく息を吐いた。

「言うとくが素間とはくされ縁や、世に言うような間柄やない。素間がわてを贔屓にするんは勝手やが、素間の贔屓がのうてもわては間の山一の若衆や。騙されるなや」


 何がどうして大店の子息が、穢人の村に自在に出入りができるのかは不明だが、庄助が物心つく頃から傍にいる素間はただの居候。

 稼ぎにも出ず、庄助の飯を平然と食い、庄助の横で眠って今に至る伊勢の大店の御曹司からは、多少の心付けがあっても良いと庄助は思う。


 色子疑惑は良い迷惑。縁談を断るのは素間の勝手。贔屓がなくとも庄助は自他共に認める間の山一の若衆だ。

「わてはな、素間にはえらい迷惑しとんのや」

 本日、網受け非番の庄助は、唯一のお宝、伊勢一番の高級布団で良い夢を見ていた頃合いだ。

 それをお呼ばれのひと言でぶち壊し、さっさと庄助を布団から追い出した素間は、今頃庄助の代わりに夢の中。素間には怒りを通り越して殺意すら覚えている。

そこらの商人よりもずっと稼ぎがありつつも贅沢が許されん穢人の芸人故に、ため込んだ銭をすべてつぎ込んだ布団は伊勢で一番の高級品。庄助の思い入れは並大抵ではない。


「誰が言い出したかは知らんが、噂の元突き止めたらけちょんけちょんに伸したるわっ」

 息巻いた庄助は、

「素間さんが松右衛門さんに話しとりました」太兵の言葉に拳を握る。

 三日市家の殿原松右衛門は、伊勢きっての噂好きと評判のお伊勢さんだ。素間の悪意が目に見えて、「あんのやろう……」庄助はすっく、と立ち上がった。

「おっ、やるかぁ」威勢の良い声に見上げれば、橋の上は人だかり。今し方の興行に人が集まり始めたらしい。


 行商人のようななりの男に、旅姿のお武家、供を連れた女の姿も見える。太兵のような童が数人、銭は投げそうにないが庄助らの姿に目を輝かせている。何が起こるのか楽しみにしているのだろう。

「儂ゃあ急いどるんや。投げるで、おい」

 職人風の男が、まくった腕をぶんぶんと振り回す。


 今や人気のお伊勢参りは、伊勢講一行ばかりではない。行商の道すがら、また施行の文字を背負い、柄杓片手に訪れる者も多い。そんな参宮者の情報は芸人らには入らんが故に、伊勢講一行に合わせて出張るのだ。

 川岸には庄助と太兵が二人。常ならばそろそろ網受け衆が出張る頃合いだが、天候を見計らって支度に手間取っているか。仕掛けの多い網棒は雨に弱い。

行ってこいと促す庄助に、庄助の後になど出来んと、太兵はしゅんと肩を落とす。

「わては間の山に戻らんといかん」庄助の言葉にも、太兵は頭を振って尻込みする。

「ええか、いくでぇ」

 男が手を振りかぶった。こらいかんと網棒を取った庄助だが、岸から放った庄助の網が僅かに遅れた。(あかん、間に合わん)


 網受けが銭を落とせば大っ恥。村長の鬼の形相が脳裏に浮かんで……。


「やてかんせ、ほうらんせ」


 くるり、とトンボを切った影が水しぶきを上げた。色鮮やかな網の花が咲く。

「庄助さん、お呼ばれは終わり? 小童連れとは珍しいやん」

 清流に咲いた花に、橋の上の童が「わぁ」と歓声を上げた。

「おはようさん」「やてかんせ」水しぶきを上げる網受け衆が次々に網を広げる。

「これが伊勢名物の一つ……」声高の説明はお伊勢さん。伊勢講一行のおでましらしい。

「邪魔してもうてすんまへん」太兵がぺこりと頭を下げた。

 水に濡れた網棒を持つ手が頼りない。手練れの若衆の中、幼い新米はきっと、ろくな稼ぎはできんだろう。

 大籠に手を突っ込んだ庄助は一掴みの銭を袂に落とした。


(村に来た仕事や。太兵に華持たしたかてかまわん)


「ええか、お呼ばれは網受け衆の誉れや。本日は急やったからわてが手伝うたが、名指しんときはひとりでやれ」

 庄助の言葉に網を振る若衆の一人が目を剥いた。

「庄助さんっ、」慌てた太兵を遮り、「礼はいい。わての取り分はもろたで。あ、籠と網は返してな」

 ぱくぱくと赤い金魚のような太兵に言い置いて、庄助は川原を後にした。


     (三)


 飛び込んだ雑木林に庄助は膝を抱えて蹲った。強くなった雨脚はどうせ一時。海を望む伊勢では天候はよく変わる。

「やるじゃぁありませんか」

 背後からかかった声に庄助はちっ、と舌打ちした。


「あたし、腹が減ってるんです」容赦なく枝を揺らして近づく声が、せっかく避けた雨水をまき散らす。「あのなぁ」顔を顰めて振り向いた庄助は不本意ながらも息を呑んだ。


 派手な番傘をくるくる回し、切れ長の目を細めた長身の男。透けるような白い肌に纏った着物はだらしなく乱れ、一つに束ねた蓬髪もまた乱れて頬に揺れている。細く高い鼻梁に僅かに皺を寄せ、寒椿のように紅い唇をぷうっ、と尖らせればまるで寝起きの童のよう。それでも素間は美しい。


 どこにいても何をしていても人目を引く素間には憚りがなく常に我が道を行く。まともな大人なら、寝起きに派手な番傘で公道を歩いたりせんものだ。ちなみに派手な番傘は庄助の大切な商売道具だ。


「あたしの話を聞いてるかい? 庄助、腹が減ったんだ」素間は今一度繰り返して庄助を睨んだ。番傘の動きがぴたりと止まる。咄嗟に庄助は身構えた。


「あたしを誰だとお思いかぇ? 仮にも今をときめく野間万金丹の御曹司だよ。お前の帰りを首をながーくして待っていたというのにお前はちっとも帰って来やしない」

 本日、網受け非番の庄助は誰のおかげで早朝のお呼ばれに出向いたか。間の山の興行は朝が遅い。本来ならばまだ、唯一の財産にくるまって惰眠を貪っている時刻だ。

「何ぞあったかと出向いてみれば、お前は愛らしい童に鼻の下を伸ばしてる。あたしの祝儀を根こそぎやっちまうったぁいったいどういう了見だいっ」

 まさに歌舞伎者のごとく大見得を切った素間に、庄助は鼻を鳴らした。


「わてほどの人気者になればな、新米に華をくれてやるなど大した話やない。むしろ箔がつくってもんや」

 庄助は負けじと間の山一の若衆の誇りをみせてやる。

「余裕だねぇ」横目で睨んだ素間は、

 芸の道は厳しいと常の口癖はどうした。童にあがりをくれてやるなんざお前らしくないと、眦を吊り上げた。


「随分とご執心じゃないか。妬きたくもなるってもんさ」

「男童になど執心せんわっ。お前と違うぞっ」と噛み付いた庄助を大量の水しぶきが襲った。

「おや。雨が止んだようだ」番傘を大きく振った素間は、しれっと言って天を見上げた。

「お前にやった祝儀はあたしの犠牲の上に成り立ってるんだ。それを棒に振るなんざぁ許せないんだよっ」

「お前の祝儀やないやろ、岳太郎さんからの依頼や」

「おーや、そうかい」

 素間がぽんっ、と木を蹴った。降り落ちる雨水をすかさず傘で受け、庄助に向けて傘を傾ける。雨宿りの意味をなくした庄助はずぶ濡れだ。素間はかなり不機嫌らしい。

「あたしはね、紅丸とうたかたの夢の最中だったんだよ。それをあの野暮な岳太郎が邪魔したんだ。遠慮も何もあったもんじゃない。古市は御師に親切だからね、誰もあたしの所在を隠す者がない」

 素間の不機嫌の原因はそこらしい。紅丸は備前屋一の売れ奴だ。


 全国を廻り、伊勢講を広めて参宮者を集る御師は伊勢の花形だ。下へも置かぬ御師邸のもてなしが、一生に一度はお伊勢参りと誰もが憧れる由縁となっている。

 参宮者から〝お伊勢さん〟と慕われる御師邸の殿原は、巧みな話術で参宮者を煽り、行く先々で散財させる。

〝お伊勢さんの行く先に銭の花が咲く〟

 誰もが賞賛するお伊勢さんには気配りを怠らん。古市の楼主もご多分に漏れずだ。


「いくら急だからって、あんまりじゃあないか。紅丸と逢うのにひと月も待ったんだ。あたしゃ暇じゃないんだからね」

 野間家の放蕩息子が暇でないとはぶっ魂消だ。

「三日市家から預かった客が勝手を言うと泣きついて来たんだよ。あたしのほうが泣きたい気分さ。紅丸まで御師の味方するんだ」

 穢れを恐れる伊勢の住人に、穢所に近づく物好きはいない。参宮者を迎える御師ならばなおのこと。触穢を受ければ物忌みが待っている。


「庄助お前、釜は壊れておらんかぇ? 売った恩は早く回収したほうがいいんだ。此度の依頼が三日市家からならもっと良い見返りが期待できたが……そうさね、あの三日市大夫のことだ、そこらを見越した上での話かもしれない。油断ならん男だ」

 ふんっ、と鼻を鳴らす素間も十分油断ならん。

 伊勢に多い平御師らは各々に副業を持つ。参宮者の土産に売りつける品で自らが潤えば願ったり叶ったり。御師は根っからの商人だ。


 此度のように急な興行には、素間を頼らざるを得ん御師らは、素間には頭が上がらない。よって素間は平然と見返りを要求し、常に新しい品々に囲まれて、意気揚々と放蕩を満喫している。素間だけが禁忌を免れる様を思えば、神職を務める御師家にも恩を売っている可能性もある。素間は伊勢の花形御師を屁とも思わぬ大物の放蕩息子だ。


「とにかく。お前はあたしの祝儀を棒に振った」

 話を蒸し返す素間はよほど気に食わんらしい。すっ、と懐に白い指を伸ばした素間に庄助は身構えた。素間の扇は百発百中。俊敏な庄助にして一度も逃れた例はない。素間は放蕩息子にしておくには惜しい男だ。


「腹が減ってるんだよぉ」素間は懐に入れた手を止めて呟いた。

「紅丸には逃げられる、岳太郎には腹が立つ、おまけにお前にまで素気なくされちゃあ……腹が立って当然だろう? 旨い飯が食いたいんだよっ」

 懐から飛び出した素間の手を制し、(やったっ)と庄助は口の端を上げる。

「甘いっ!」びしっ、と音を立てた脛に、(卑怯者……)庄助は蹲った。


読んでいただき、ありがとうございました。次回は、庄助と素間の息の合った漫才(?)放蕩息子、素間が暴走します。


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