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戦国の世においてもっとも無価値であるもの、それは雑兵の命である。鎧具足ならばこれを売るために死体から剥いで持ち帰る者もいるというのに、討ち死にした雑兵の死体など誰も欲しがらず野に打ち捨てられたままとなる。
仮にも人である雑兵がその扱いなのだから、馬であればなおのこと。いかに名馬であっても怪我を負えば切り捨てられるし、作戦によっては肉の盾として人を乗せずに敵陣に突っ込まされることもある。
そもそもが騎馬隊とは機動力を生かして敵陣に突入していくことが主な戦法である。他にも奇襲、陽動と、いずれにしても矢をつがえた敵兵に向かって突き進み、文字通り矢面に立つことが常である。よって馬の死傷率は高い。
「いいか、生きて帰って来た馬を名馬と呼ぶんだ、だから、マメで帰って来い」
金船号をかわいがっているタロヒコ少年はそう言って、かの馬を戦場に送り出した。
戦いとしては大規模なものではない。竹田軍は数年前から高付国を攻めていたのだが、ここの領主である永野成正氏は戦が上手く、長く苦戦していた。しかしその成正が死に、その後を継いだ成盛が父ほどの戦上手でないのを幸い、猛攻を仕掛けて落城寸前に追い込んだ。ここからはほとんど勝利が確定した仕上げの一戦である。ほとんど勝ちの決まった戦ではあるが、戦場にはよもやということがいくらでもあり、竹田氏はこれを恐れていた。
窮鼠猫を噛むのことわざ通り、捨て身となった相手はこちらの思わぬことをしでかすものである。ならば窮鼠が小さな歯を見せる隙も無いほどに手早く攻め落としてしまえばいい。
そういったわけで、竹田軍の主力部隊全てが高付国に集められた。山片率いる藍備えの騎馬隊も然り。若馬たちはこれから合戦の始まる気配を聡く感じ取って落ち着きがなかった。
しかし金船は、初陣だというのに落ち着いたものであった。決戦に備えて振る舞われた飼い葉をモグモグと喰らい、人が見ているのも気にせずブリブリと糞を落とす。
兵たちはこの態度を「これは相当なバカか大物か」と評した。そしてさらに「相当なバカの方であろう」と。
馬とは賢い生き物だと言われるが、それはまわりの気色や人間の感情をよく読み取るからであって、馬自身が難しい思考でもって己が運命を嘆いたりするわけではない。まず若馬は、いつもは笑顔で自分の背を撫でている人間が、みななにがしかの覚悟を決めた表情で言葉少なく、どこかそわそわと身を揺らす場の空気を読んで落ち着きをなくすのだ。
つまり金船は場の空気も読めぬうつけであろうと、そして戦場でも空気を読まず勝手をするだろうと噂したのだ。
「大将、まさか本当にこの馬で出るんですか?」
若い足軽が山片に言ったのは善意の言葉だ。彼は竹田軍騎馬隊150騎を率いる侍大将が、まさか世間に笑われるような駄馬で出陣しては体裁が悪かろうと気遣ったのである。山片には然るべき馬を選んでもらい、金船号には自分が乗るつもりであった。
しかし山片は、そんな彼の気遣いを退けた。
「いや、そんな心根では、この馬には乗れまい」
その後で、山片はきちんと理由を述べる。彼は名将であり、戦いを前にしてはたとえ相手が足軽であろうとも、その闘気を徒や疎かにはしない。
「お主の腕を疑っているのではないぞ、この馬はクセが強く、自分をナメてかかっている人間を背に乗せたりはしない。いま、お主が心の底でかの馬を駄馬扱いしたことも、聡く気づいているはずだ」
「だからあっしでは乗れない、と?」
「さよう、それに藍備えの大将であるわしが乗る馬だ、このくらい変わり者であるほうがふさわしかろう」
「はあ、さようで」
大将である山片にそう言われては、足軽である彼には返す言葉もない。彼は引き下がったが、胸の内で燻る金船への不信を隠すことはできなかった。
「あの馬は、やはり妖馬に違いない。何か怪しげな術で山片様をたらし込んだんだ、でなきゃあの冷静堅実な大将が、あんな駄馬を選ぶはずがない」
彼は戦場に出る直前まで、仲間たちに愚痴って回った。そのせいもあって、三ノ輪城を臨む丘の下に立ったときには、金船号に何かを期待する者など誰もいなかった。
しかし金船は、そんな人間どもの下馬評など気にするたちではなかった。彼はともに出陣する馬たちに睨みをくれてやるのに忙しかったのである。
若馬たちはそわそわと忙しなく地面の匂いを嗅ぎ回っている。金船はその臆病を嘲笑うかのようにブヒヒ、ブヒヒと鼻を鳴らしてこれらを睨みつけた。戦いを前にして神経の昂っている若馬たちは、それだけでビビって尻からにじり下がる。
「これ、金船、あれらは味方ぞ」
山片に宥められて鼻先を下げた金船ではあるが、これで足軽たちからの心象がさらに悪くなったのはいうまでもない。
「みたか、あの駄馬っぷりを」
「あれでは大して走りはするまいよ」
さらにヒソヒソと囁かれる足軽たちの声を聞きながら、金船はむしろ満足していた。
レース前、彼は人間たちのこうした悪意あるざわめきを聞くのが好きだった。馬である彼の耳には、パドックを覗く人間たちが漏らす様々な呟きがつぶさに聞こえる。あるものはどの馬が良い仕上がりだの、あるものは前回のレースで損をさせられた繰言だの、あるものは血統云々がどうだの、人間は実に勝手な『下馬評』をつぶやく。特に金船は面と向かってヤジを飛ばすような相手なら人馬関係なく睨みつけるようなクセの悪さがあって、彼がパドックを通り過ぎるときには息を潜めたような囁きがいくつもあがる。
いまのこれは、その状況になんと似ていることか……金船は、これから戦いが始まるのだという期待と興奮に鼻息をいくつも吹いた。彼の思う戦いとは、いつでも「より早く、より強く」である。
レースという戦いの場に引き出された瞬間、スタンドに詰め込まれた人間どもは惜しみない歓声を馬に浴びせる。その興奮の中を潜ってゲートに向かうのは、自分が特別な存在なのだと思い知るようで嬉しくもあった。
そう、特別な存在なのだから、それに恥じぬ走りをしなければ……より早く、より強く!
いま、その時に似た興奮が金船の大きな体を満たしていた。
耳の奥に幻聴が響く。
『さあ、各馬出揃ってゲートイン……』